家族が下町の下谷から山の手の高田馬場へ引っ越したのは私が5歳か6歳の頃でした。
バス通りから横丁に入った住宅地には、銭湯、床屋、魚屋、米屋、の他に500m程離れた神田川の関係で、昔から染物、着物等の商いを営む店も有って・・
飲み屋や、怪しげなカフェなども有って、狭い横丁でも結構日が暮れるまでは人通りも有って賑やかでした。
そうそう私の実家はこの通りの町工場でした。
(実家に行ったのはコロナ禍の遥か前でしたが子供の姿も無く勿論お店も全く無くて静かな裏通りに古い住宅が軒を連ねて・・と云った所です。、)
当然ガキども、いえ小さな子供達も沢山いて・・
男の子ですから引っ越して直ぐに近所の子供達と仲良しになって、五六人集まるとカクレンボウをしたり、缶蹴り、騎馬戦やったり、道路上にチョークで丸い土俵を描いて相撲を取ったりと遊びに夢中になったものです。
舗装された道路の土俵でも、擦り傷やコブ等以外、不思議と大怪我は無かったし・・
メンコ遊びも、ビー玉遊びも、ベーゴマで相手のベーゴマを弾き飛ばす・・あれって、ベーゴマの床って言うんですよね~・・床を持っていたのは確か畳屋のTちゃんだったか・・
2年生のチョイワルが、ガキ大将になって年下の私達を纏めていたのです。
そうそう思い出しました・・ガキ大将はじめちゃんのお家はのこぎりの目立て屋さんでした。
又、はじめちゃんちの裏路地には玉突き場のお店があって・・
「シー・バッキョ~」なんて女主人の艶やかな声が今でも耳に残っていますよ。
一体「シーバッキョ」ってなんでしょう。
可愛い女の子たちもいたのですが、当時は遊びも、勉強も、男子は男子、女子は女子別々でしたから良く知りません。
学校から帰ると近所の五人六人自然に集まって来て「何して遊ぼうか?・・」
子供達のカクレンボウをして遊ぶ範囲も自ずと限られていて、遠くには行きません。
それでも充分、時間の事も忘れて日の暮れる迄、友達と声を出して夢中で遊んで走って・・遊び疲れた頃に、辺りに夕餉の匂いが漂う頃になると、
「ダレダレちゃん又、アシタな~」って・・一人一人家族が待っている自分の家に帰って行ったのです。
二年三年と成長する間に段々とガキ仲間から離れていって新しいガキが加わって太平洋戦争が近づく迄、楽しい遊び時間は続いたのです。
当時、近所に公園などは有りませんでしたから・・
女の子たちはどうしていたのでしょうか・・男の子とは違って、遊びもオママゴト遊びとか勉強ごっことか家の中で、お母さんのお手伝いとかしていたのだ思います。
子供同士、男の子と女の子が一緒に遊ぶなんてトンデモナイです・・
偶に女の子に近づこうものなら「オトコとオンナとマンメンじ~」って、要するに近づいてイチャイチャしていると皆から冷やかされんです。
男の子も夫々の家から精々100m位の範囲家々の裏路地とか庭とかが遊び場所ですし、友達と一緒ですから親も安心していたのでしょう。
「歩くだけじゃなくて他の運動も・・」と勧めて呉れたのは・・
「誰だっけ??お医者さんだっけ?」
以前は4㎏のダンベルを楽々と操っていた?私ですが今では奥様の1㎏のダンベルが丁度お手頃のようです。
体重が増えますように・・何でも戴いちゃう私に・・
「やたらに食べて、糖尿病になったら大変だよ・・ダレダレさんみたいに・・」って釘を刺す奥様です。ゴチソウサマ
当時この横丁から歩いて500mの所に昔、陸軍の練習場だった広~い戸山が原が公園替わりに・・
眠くなった、さえちゃんおやすみなさい・・今度は兄弟、大人たちが一緒です。