tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

知立宿から鳴海宿まで

2019-06-12 16:41:53 | 東海道五十三次の旅

6月12日(水)

昨日から1ヶ月ぶりに東海道五十三次散歩で、てくてくと歩いております。

このところ忙しくしておりましたので、散歩をしておりませんでしたので、足が痛みます。

熱田神宮

熱田神宮は初めての参拝です。

太閤記や信長記などに登場しますので、ずっとお詣りしたという願いがありましたが、やっと来ることができました。

東海道からは、少し外れておりますが、散歩コースに入っておりました。

有松の町並み

ここ有松も町を上げて保存をしておりますので、江戸時代のままの町並みが残っておりました。

同行の皆さんのカメラが止まりませんでした。

有松は、有松絞りで有名です。

昨日が24179歩 16.3キロ。

今日は、24550歩、16.3キロでした。

明日は、桑名宿を目指して歩きます。

桑名では、蛤が昼食出るそうですので、楽しみです。

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岡崎宿から池鯉鮒宿まで・・・

2019-05-18 17:16:36 | 東海道五十三次の旅

5月18日(土)

今日も東海道五十三次の旅の備忘録になります。

二泊三日の東海道歩きも最終日になり、岡崎宿から知立宿に向かって歩き始めました。

昨日のゴール地点である八丁味噌の蔵元までバスで送ってもらってスタートです。

 

秀吉伝説

ここの味噌蔵からすぐのところに、矢作川が流れ、秀吉と蜂須賀小六の出会ったといわれる大きな橋が架かっております。

吉川栄治の太閤記では、この橋の上で二人は出会ったとされ、それが真実のように世の中に浸透しておりましたが、史実では、そのころの矢作川には橋が架かっていなかったということが分かっております。

 

雲龍松

街道沿いにある永安寺にひときわ目立つ松がありました。

上に伸びず、横に広がり東西17名m、南北24mという大きさです。立って歩くと頭がぶつかってしまいそうな高さでした。

江戸時代に、重い助郷役に苦しむ人々のために、その免除を願い出て刑死した柴田助太夫を弔うために建立され寺だそうです。

一見の価値あり・・・

 

東海道

松がところどこにポツンと建っている旧街道です。

家は建て替えおり、木曜日の10時ごろでしたがひっそりとしておりました。

 

根上りの松

広重の浮世絵にも登場している根上りの松です。

土手のようなところに生えていたので長年の雨風で土がなくなり根が幹のようになったそうです。

 

八つ橋伝説の公園

この公園は、業平伝説が生き生きと伝えられているところです。

平安時代末期の編まれた「伊勢物語」で有名な「東下り」の話の中に登場している。

三河の国の「八つ橋」という場所に着き休憩したところ、橋のほとりに美しく咲くカキツバタを見て、カキツバタの五文字を各句の頭において、旅の心を読んだと伝えられている場所です。

「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ」

 

在原業平の大きな墓所

この歌が「古今集」に在原業平の作として載せたところから、東下りの主人公は業平本人だと決めつけておりますが、業平が東下りをした事実もなく、八つ橋の場所すら明確でないという事が分かっております。

しかし、この物語を、多くの人々により語り継がれて来た伝承の場所は、ここ以外に当てはまるところがないという事で今に至っているそうです。

 

在原業平の墓

小高いところには業平の墓があり、地域の人たちの中には伝説の業平が生きているようです。

 

在原寺

在原業平の菩提を弔うための業平塚が築かれた折に、その塚を守るために御堂として建立したそうで、ひっそりとしておりました。

 

八つ橋

茶碗や棗などに描かれている八つ橋の光景です。

丁度「カキツバタ祭り」の最中のこともあり、大勢の観光客でごった返しておりました。

 

カキツバタ

この街道歩きで、カキツバタとアヤメの違いがやっと判りました。

花好きな私ですが、この違いが曖昧でしたが、決定的な違いを見つけましたので、もう間違うことはないと思います。

 

在原業平像

ここカキツバタの名所となっているのは、無量寿寺という妙心寺派の寺院です。

昔は、このあたりは湿地帯で小川が流れ、旅人は難儀をしたそうです。

そんな湿地帯に八つの橋を架けたことから八つ橋という名前がついたといわれております。

この地は、東海道から外れ鎌倉街道と呼ばれているとこです。

私たちは、ここを観光するために、寄り道をいた事になります。

 

来迎寺の一里塚

日本橋より84番目の一里塚で、塚の上には榎が植えられることが多いい中、この一里塚は松が植えられている珍しいところだそうです。

そして、この一里塚は街道の左右一対で現存する数少ない一里塚です。

松の元気がよくなかった・・・

 

池鯉鮒

池鯉鮒は、信長や秀吉が活躍する小説にはよく出てくる地名です。

この字を見たとたん、あのころ読んだ小説が懐かしく浮かんできました。

 

知立松並木

比較的きれいに残っている松並木です。

初和34年の伊勢湾台風で大半が倒れてしまいましたが、そのままにはしないで150本ほど補植したそうです。

こうしたところに着くと、誰もが一斉に元気が出ます。

カメラを取り出して、あっちこっち飛び回っておりますが、ナビゲーターは歩く速度を緩めてはくれませんので、シャッータを押しては、駆け足で追いかけて合流・・・こんなことをしながら歩いております。

この並木は、両側に側道があるのが特徴で、側道では馬市が開かれ、たくさんの馬が繋がれていたそうです。

この光景は、広重の浮世絵にも描かれております。

 

池鯉鮒宿

松並木が終わるころ、こんな碑が建っておりました。

 

マンホール

カキツバタのマンホールです。

 

マンホール

業平の和歌がデザインされておりました。

 

日本橋から

日本橋から国道一号線です。

旧東海道は、国道に合流したり離れたりしながら歩いておりますから、もっとキロ数は歩いていると思います。

今回は、この先の広場でゴールとなりました。

待っていたバスに乗って帰路につきました。

歩いた距離50.7キロ

歩いた歩数75.508歩でした。

 

 

 

 

 

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藤川宿から岡崎宿まで・・・

2019-05-13 19:01:32 | 東海道五十三次の旅

5月13日(月)

今日も朝から快晴です。

月曜日ですのでストレッチ教室に行ってきました。

東海道散歩以来の運動でしたが気持ちの良い汗を流してきました。

今日も東海道五十三次の旅の備忘録の2日目です。

 

追分

この追分は、左は吉良街道、右が東海道です。吉良街道は塩の道として栄えていたそうです。

 

藤川の松並木

松は寿命が短いらしく、この松並木も植え替えられた若木が多く見られましたが、植え替えてくれるところは良いのですが、交通の妨げになると切り倒してしまう自治体も多かったと聞きました。道幅の広がっているところは、昔松が植えられていたところだと思って間違いありません・・・同行講師の方が力を込めて話しておりました。

この松並木は、1キロ続いておりました。

 

瀬渡

江戸時代は、ここを歩いて渡ったところで、いまでも渡れそうでしたが、「濡れると先が困りますから・・・」というナビゲーターに従いずっと迂回した橋を渡って渡りました。

 

東海道

瀬渡から街道に出ると、こんなのどかな道が続いておりました。

 

日本橋から

歩いてきました。

 

マンホール

「5万石でも岡崎様は、お城下まで船が着く・・・」そんなことを言われるほど有名だったそうで、その歌がマンホールになっております。

 

大岡越前守

講談や映画などでおなじみの大岡忠相の陣屋跡です。

見ると立派ですが、この門が建っているだけで中は何もありません。まるで、映画のセットのようでした。

 

大平の一里塚

日本橋より80番目の一里塚です。

この一里塚は、往時の面影を残しており、私たちのような街道歩きを楽しんでいる人にとってはうれしい光景です。

大岡越前守所領に残っていたというのがとても良いと思います。

 

一里塚

全体を撮ってみました。

中々こうした一里塚は見ることができませんので・・・

 

岡崎宿(レプリカ)

岡崎の宿場に入りました。

ここは家康の生誕の地ですので、どこへ行っても家康一色です。

 

城下町の27曲り

宿に入るとすぐに、27曲がりが始まります。

徳川家康が江戸に入ると、秀吉は、田中吉政を岡崎城に移して、家康に対しての防御策を作らせますが、この27曲がりも攻め上って来る家康軍を想定しての防御道だったそうです。

そんな田中吉政は、関が原の合戦の時には家康方に付、石田三成を捕らえるという皮肉な手柄を立てた人物です。

 

お茶壺道中

徳川家光が制定した御茶壺道中は相当なもので、城下に入ると家老が出迎え接待したそうです。

 

八丁味噌

街道歩きから外れて、八丁味噌蔵の見学に行きました。

味噌のお土産など頂き、小さな袋に入っておりましたが、ずっと背負っているとやはり重い・・・

 

大樹寺

バスに揺られて徳川家の菩提寺大樹寺へ行きました。

初代親氏から家康までのお墓が並んでおりましたが、やはり家康の墓が一番立派でした。

 

家康の墓

 徳川家康のお墓です。

日光東照宮にあるお墓と同じ形をしておりました。

大樹寺山門

この山門から岡崎城が見えます。

大樹寺から岡崎城までを、ビスタラインというそうで、岡崎市の条例では、このライン上では、お城より高いビルを作ってはならないということです。

江戸時代から、そうした事を守り続けている岡崎の人々の気持は、岡崎市民の誇りでもあるのだと思います。

私のカメラではここまでが限度でした。

 

大手門

岡崎城の大手門です。

以前行った時にはなかったですから、まだ最近のものだと思います。

 

家康像

徳川家康の像です。

あちこちに建っております。

 

石垣

こうした古い石垣を見るのが大好きです。

 

岡崎城

江戸時代は5万石のお城だったそうですが、明治になって解体され、そのうえ太平洋戦争では、街全体が壊滅的な空襲を受けたそうです。

このお城は昭和32年の再建で、コンクリート製です。

 

岡崎城

ライトアップです。

レストランからの眺めです。

今日の散歩は、あちこちの見学が多く、街道歩きとはちょっと趣が違っておりましたが、それはそれで楽しいものでした。

街道はあまり歩きませんでしたが、125.8キロ、23.570歩も歩いております。

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赤坂宿から藤川宿まで・・・

2019-05-12 17:05:35 | 東海道五十三次の旅

5月12日(日)

今日も青空が広がっております。

さすがに疲れが溜まって今日はなにもしない日にしました。と思いながら、先日の東海道五十三次散歩の備忘録に取り組んでしまいました。

忘れない内に・・・これが、原動力になっております。

街道歩きは、メモなど取っている時間がありませんので、とにかく気になったところは写真に収め、写真を見ながらまとめるという記憶だけが頼りです。

 

赤坂宿

前回のゴール地点の赤坂宿の見附跡です。

ここまでバスで送ってもらってスタートです。

 

赤坂宿

近年に建てた道標です。

赤坂宿と御油宿の間は短く、16町といいますから1.7kくらいの距離ですので、旅人の争奪戦が繰り広げられていたそうです。

ここ赤坂宿には「留女」が大勢いて、旅人を宿に引き込んだので、赤坂宿は大層にぎやかだったといいます。

 

旅籠大橋屋

大橋屋は江戸時代からの旅籠で平成26年まで旅籠として営業を続けていたそうです。

現当主は19代目だそうです。

 

本宿一里塚

長澤の一里塚は、木でできているのか、ポツンと建っておりました。

日本橋から77番目の一里塚ですが、説明書きなど一切ありませんでした。

 

岡崎市

岡崎市に入りました。

 

最初のマンホール

岡崎に入って最初のマンホールです。

矢作橋とお城です。

 

本宿

本宿は、赤坂宿から1里9丁、およそ5キロあり、次の藤川宿まで4里とほぼ中間に位置しております。

 

法藏寺

徳川家康の先祖松平氏初代親氏が建立した寺で、歴代松平氏の祈願所だったため幕府から、手厚く保護されておりました。

江戸時代は、「門前下馬」の格式を持ち、通行する諸大名は下馬して参詣したといわれております。

 

近藤勇の首塚

板橋で斬首された近藤勇の首は京都に送られ三条河原に晒されましたが、3日目に仲間が持ち去り、ここ法蔵寺の埋葬したと伝えられておりましたが、それは、土饅頭のような粗末なものだったそうです。

近年になり、寺の古文書を整理しましたら、「近藤勇の首をこの寺のどこそこに埋めた」との事が記載された文章が見つかり、その場所を掘り返したら首が出てきたので、改めて塚を作り葬り直したといいます。

 

松平広忠の墓

家康の父親のお墓です。

ここは松平氏の墓所になっており、代々のお墓が並んでおりました。

 

一里塚

本宿一里塚です。

日本橋から78番目の一里塚です。

 

山中八幡宮

松平氏のゆかりの神社で、家康の領内で一向一揆が勃発したときに、命からがら逃げこんだのが、ここの神社だといわれております。

江戸時代は厚遇されていたそうです。

 

鳩ヶ窟

三河国の一向一揆の時に、一揆を起こした宗徒たちに追われて逃げ込んだのが、この神社にある鳩ヶ窟といわれる洞窟です。

追手の宗徒たちが、家康が潜んでいる洞窟の前に来ると、洞窟から鳩が飛び出したので「鳩がいるなら人はいなかろう」と引き上げていったという逸話が残っております。

これ以後、家康は信仰の力を侮ってはいけないことを学び、本願寺を東西に分離したといわれております。

 

大楠

山中八幡宮の入り口にそびえ立っている大楠は樹齢1300年と伝えられております。

 

棒鼻

東棒鼻で、ここから宿に入りますというところで、大名行列は体制を整えて宿に入っていったそうです。

 

藤川宿

ひっそりとした街道です。

 

棒鼻

西棒鼻で宿の出口ともいわれております。

 

一里塚

藤川一里塚です。

日本橋から79番目の一里塚です。

粗末な板で作った標が建っておりました。

 

真っすぐ

名鉄の線路です。

こちらも東海道線と同じく真っすぐです。

写真の左手に見える建物が第1日目のゴールです。

1日目の距離は15.7キロ、歩いた歩数は23.450歩でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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岡崎市のマンホールは。。。

2019-05-09 15:32:22 | 東海道五十三次の旅

5月9日(木)

今日も穏やかな散歩日和でした。

昨日のゴール地点から歩き始めました。

岡崎市のマンホール

岡崎市の中心部のマンホールはカラーで綺麗でした。

色んな都市を歩いていると、街の中心部になるとカラーになっている所が多いようです。

今日も無事に歩き終えました。

歩数2770歩、距離18.7キロでした。

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岡崎城を見ながらの朝食は。。。

2019-05-08 17:10:05 | 東海道五十三次の旅

5月8日(水)

今日も東海道五十三次散歩です。

ホテルからの昨日のゴール地点までバスで送ってもらい、今日の散歩のスタートです。

岡崎城

朝日に映える岡崎城です。

私たちが泊まったホテルは、城が一望できる事が売りですが、私達の部屋は反対側で城が見えませんでした。

朝食の会場へ行ってビックリでした。

今朝はお城を見ながらの朝食でした。

何となく嬉しい気分での食事です。

同じホテルですから、明日も城を見ながら食事が出来ます。

明日は知立宿まで歩きます。

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東海道五十三次を歩いて

2019-05-07 17:56:13 | 東海道五十三次の旅

5月7日(火)

散歩日和、今日は、東海道五十三次散歩に来ております。

前回のゴール地点の豊橋市の赤坂宿から歩き出しました。

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赤坂宿から藤川宿まで歩き、17時頃にはホテルに入りました。

今日は、15,7キロ 23,450歩でした。

明日は、岡崎市内を歩きます。

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御油宿から赤坂宿まで歩く・・・

2019-04-04 17:00:04 | 東海道五十三次の旅

4月4日(木)

昨日から一転して暖かな春の陽気になりました。

今日も東海道五十三次散歩の備忘録です。

       

   莬足神社(うたりじんじゃ)

 この日は、今回の東海道五十三次散歩最終日です。

昨日のゴール地点から少し歩いたところに鎮座しておりました。

延喜式内社で8世紀の終わり頃には神の社として祭られていたといいます。

4月に行われる、風祭での手筒花火は有名です。

また、この神社には、始皇帝が不老長寿の妙薬を探させたという、「徐福伝説」が残されております。

    

   伊奈一里塚

 ここの一里塚もポツンと碑だけが建っておりました。

日本橋から75番目の一里塚です。

    

   日本橋から

 ここは珍しく旧東海道が国道1号線になっておりました。

日本橋からおよそ305k地点です。よく歩いたものでともいます。

    

   大社神社

 かってこの付近に三河国の国府が置かれていたそうです。平安中期にこの地を支配していた大江定基によって、大国主命と三河国中の神々を祀り、三河国府の総鎮守としていたのが始まりだそうです。

ここでも、手筒花火が上がるので、狛犬まで色が変わっておりました。

    

   御油一里塚

 日本橋から76番目の一里塚です。

ここも石碑が建っているがけでした。

    

   御油姫街道追分

道が分かれておりまして、東海道と姫街道との追分になっております。

どうしても東海道を通るのに抵抗のある人が通った道だと聞いております。それでも関所はあったそうですから、そちらはあまり厳しくなかったのでしょう。

    

   椿

 御油という地名になった由来ある椿です。

持統天皇が近くの宮路山の行幸された時に、村人が椿から採取した油を灯火用に献上しとの言い伝えから「御油」と呼ばれるようになったそうです。

    

   御油の松並木

 松並木の入り口に建っておりました。

この松並木を見たいために、東海道を歩き出したという方もおりました。

    

   松並木

 ただ通り過ぎてしまうは勿体ないような松並木です。

御油と赤坂の間に600m続く松並木は、亀の甲羅のような樹皮が特徴的な三河黒松が植えられております。

昔のまま、土を盛り上げた土手の上に並ぶ松はいくら見ていても飽きません。

    

   松並木の終わりに

 この松並木は、国の天然記念物に指定され、現存する東海道随一の松並木だといわれております。

樹齢100年以上の古木が約90本あるといいます。

    

   マンホール

 赤坂宿に入りました。

最初に出会ったマンホールです。

    

   見附跡

 赤坂宿見附跡だそうで、空き地になっておりますが、かっては宿の入り口の番所が建っていたそうです。

 今回は、ここがゴールです。

次回は、ここから歩き始めます。

    

   豊川稲荷へ

 東海道五十三次散歩は終わりましたが、せっかく豊川稲荷近くまで来ておりますので、昼食を兼ねてお参りをさせてくれました。

    

   豊川稲荷山門

 初めてお参りいたましたが、正面に立った時に山門があるのに驚き、神社に山門??と思いながら境内の中に入って行きました。

       

   本殿

 鳥居をくぐって本殿前に進みます。

どう見ても神社です。

正式には、円福山妙厳寺という曹洞宗のお寺さんだそうです。

秘仏として祀られている仏さまが、稲穂を担いでいる姿から、お稲荷さんと呼ばれるようになったそうです。

 

今回の東海道五十三次散歩も終わりました。

3月22日、14.3k 3月23日22.9k 3月24日14、3kで、合計すると、51.5k歩いたことになります。

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三河国に入り、二川宿から吉田宿まで・・・

2019-04-03 17:13:50 | 東海道五十三次の旅

4月3日(水)

花冷えというには寒すぎるようです。

今日も寒い1日でしたが、大学が入学式のためにお稽古はお休みですので、東海道五十三次散歩の備忘録の続きです。

昨日のゴール地点でバスを降り、歩き始めて数分のところにありました。

 

    

   一里山一里塚

 

日本橋から71番目の一里塚ですが、ほとんど破壊されてしまいかろうじて残っておりました。

それでも、東西11m、南北14m、高さ3mという大きな塚ですが、雑木林のようになっていて、言われなければ解らないと思います。

 

   

   一里塚の林

 

こんな状態です。

案内板には、数少ない一里塚の原型をとどめた貴重な場所だと書いてありますが、もう少し整備したら良いのにと思ってしまいました。

 

   

   東海道線

 

東海道線を何回か渡りましたが、その都度思うことは同じで、線路が真っすぐという事です。

明治政府の何が何でも造るんだといった、圧倒的な力が如実に表れているといわれております。

 

   

   二川一里塚

 

二川宿に入るとすぐに一里塚がありましたが、そっけないほどの石碑がポツンと建っているだけでした。

街道歩きの講師の役の先生も、「ここに一里塚がありました」というだけで、どんどん歩いて行ってしまいました。

写真を撮るのが忙しいくらいのそっけなさです。

日本橋から72番目の一里塚です。

 

    

   町屋

 

江戸時代の税のかけ方がこんな町屋を作らせました。

長い長い奥行きが特徴です。

 

   

   桝形道

 

宿場には必ずある桝形道です。

ここでも残っておりました。この桝形道の曲がり鼻に、大きな味噌問屋があり、江戸時代そのままの雰囲気を味わうことができました。

 

   

   二川宿

遠江国から三河国に入って最初の宿場です。

大きな宿場ではありませんが、東海道線が通り、国道1号線が開通したために町は活気を失ってしまいましたが、そのために、当時の街並みが残されたという皮肉な現実があります。

 

   

   二川宿本陣 豊川市二川宿本陣資料館 

 

本陣馬場家の遺構ですが、現在は、「豊川市二川宿本陣資料館」として一般公開しております。

残すべき建物の横に近代的な資料館を作り、江戸時代から現代へとグルッと回れます。

宿場のほぼ中央にあった本陣です。

本陣に指定されると、その改築などに莫大な費用が掛かったそうですが、その費用は、全部本陣に指定された家で負担するということです。

本陣は、今でいうところのボランティア同然で、本業は酒造業や米問屋そして金融業などで、自分たちの生活費や本陣維持の費用を捻出していたそうです。

 

   

   本陣上段の間

 

殿様が休憩された上段の間です。

あの狭いお駕籠から出てもこうしたところへ連れて来られ、お殿様も楽ではなかったというのが、見学した私たちの印象でした。

 

    

   お駕籠

 

お駕籠には、布団が敷かれ寄りかかれるように背もたれがあり、ひじ掛けがありましたが、あの中にじっと座っているのも大変だったと思います。

 

    

   お駕籠の内部

 

お駕籠の中ですが、綿入りの布団が敷いてあり、背もたれやひじ掛けなどあります。

足は延ばせますが横にはなれませんので、乗っていても楽ではなっかったことでしょう。

 

   

   高札場

 

町中にあった高札場が復元されて建っておりました。

 

   

   カレーうどん

 

豊橋名物のカレーうどんです。

私たちは18名でしたので、旅行社であらかじめ予約をしてありますが、「11時には来てください」とのことで、早めの昼食でした。

なぜだろうと思っていたら、帰る時に解りました。

店の前には大勢の人が並んでいるではありませんか・・・・

 

  

   食べ方

 

うどんの食べ方も一緒に出てきました。

みなさんその指南書を見ながら、食べておりました。

どんぶりの下からご飯、ととろいも、カレーとなっております。うどんをそっと食べ終わるとカレーとろろご飯になります。

 

   

   岩谷観音

 

天平2年に行基上人がこの地に訪れた時に、この地に魅せられ千手観音像を刻んで岩の洞窟に安置したのが起源だといわれております。

以来東海道を往来する旅人の信仰を集め現代に続いているそうです。

 

   

   観音様

 

岩屋山頂の聖観音立像は明和2年に建立されましたが、太平洋戦争中に供出されてしまい、現在のものは昭和25年に再建されたものです。

 

   

   飯村一里塚

 

二川宿を出てすぐに、日本橋から73番目の一里塚ですが、国道沿いにポツンと建っておりました。

 

   

   豊橋公会堂

 

豊橋市公会堂です。

空襲を免れ一時期市役所として使っていたそうですが、今は、再び公会堂に戻り多くの催し物で市民を楽しませる市民自慢なの建物です。

ドーム頂上まで16mもあり風格ある雄姿は、現代でも建築界に高く評価されているということです。

 

   

   吉田城

 

関ケ原以降、池田輝政が入り吉田と改めて明治を迎え、豊橋と改名されました。

輝政は、すぐに姫路へ転封されましたが、輝政が作始めた城や城下町は、あとから入った大名たちが、それを受け継ぎ城下町を完成させたそうです。

 

   

   手筒花火

 

吉田の手筒花火の発祥の地でもあります。

吉田の男は、この花火を自分で作り自ら筒を抱えて花火をすることで大人になることへの証しになったそうです。

この町の男たちは、一人前の男になるためにやらなければならなかったのです。

 

   

   マンホール

 

マンホールも花火をデザインしております。

 

   

   吉田神社

 

吉田城の鎮守で歴代の藩主が保護をしておりました。

この神社が、「手筒花火」の発祥の地だといわれております。

境内の敷石が、花火の火の粉で茶色く変色しておりました。

 

   

   下地一里塚

 

日本橋から74番目の一里塚です。

国道沿いにこの石碑だけが建っておりました。

 

   

   下地一里塚

 

この石碑には74里と刻まれており、この一里塚は74番目として登録されております。

 日もだいぶ傾いてきましたので、2日目街道歩きはこの先の広場で終わり、バスに乗ってホテルに向かいました。

 

 

 

 

 

 

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舞阪宿から浜名湖を渡って・・・

2019-04-02 15:43:05 | 東海道五十三次の旅

4月2日(火)

朝から冬に逆戻りしたような寒さです。

今日は大学の稽古日ですが、入学式などの準備のため校舎内立ち入り禁止とかでお稽古はお休みでした。

パソコンも回復しましたの、先日行ってきました東海道五十三次散歩の備忘録をまとめたいと思います。

 

     

   舞阪一里塚

 

前回のゴール地点でバスを降り、歩きだしたらすぐに舞阪の一里塚がありました。

江戸から67番目の一里塚です。

明治の初頃には、80m四方の塚に一抱えするほどの立派な松がそびえていたと伝えられております。

今は、この石碑のみが往時のことを知らせております。

 

   

   岐佐神社の大石

 

千年以上前に創建された延喜式内社で、大国主命伝説が残されている神社です。

伝説によれば、「命を狙われその相手から真っ赤に焼けた大石で大やけどを負わされましたが、ここの神社の祭神が助けた」という伝説です。

その真っ赤に焼けた石が写真の石です。

 

    

   舞阪宿

 

舞坂宿の通りです。

あまり人もあらず静かな宿場町です。

 

      

   舞阪宿本陣跡

 

舞阪宿の本陣が公開されており、中を見ることができます。

建坪75坪、畳の数が99畳あるそうで、上段の間もあり当時のまま残っております。

 

   

   今切渡船

舞阪宿と次の新居宿は浜名湖を横断する「今切渡船」と呼ばれ、海上約一里半で3時間ほどの船旅だったそうです。

渡船料は、幕府の役人は無賃でしたが、大名も一般の旅人も一艘ごとに乗客の人数で割る方式だったそうです。

写真は、舞阪宿に残る船着場で、地元では「雁木」ガンゲと呼んでおります。

こうした船着場が三か所あったためこの場所は「北雁木」と呼ばれておりました。

 

   

   新居関所

 

この関所は正式には「今切関所」と呼ぶそうですが、今は「新居の関所」と呼んでおります。この関所も「入り鉄砲」と「出女」が特に厳しかったそうで、改め女がいて厳しい検査をしたといわれております。

それが嫌で、多くの女性は浜名湖の北側を迂回する「姫街道」と呼ばれる街道を利用したといわれております。

船着場に関所があったわけで、今は埋め立てられてしまったので、船着場が復元されております。

 

   

   関所の門

 

立派に復元されておりました。

今では地元を代表する観光地になっております。

全国ではここだけが残っているそうです。

 

       

   棒鼻跡

 

棒鼻とは、駕籠の棒先のことで、大名行列が宿場に入る際、行列を整えるのに見附付近で駕籠の棒先を整えたとこですので「棒鼻」と呼んだといわれております。

 

   

   潮見坂

 

新居宿を出ると、潮見坂と呼ばれる小さな峠があります。ちょっと疲れた足には堪えましたが、登り切ったとこからの眺めは最高でした。

 

     

   遠江八景

 

潮見晴嵐と呼ばれ、遠江八景に数えられております。

 

    

   曲尺手

 

曲尺手(かねんて)と呼ばれ、宿場の入り口にある「桝形道」のことですが、軍事的な役割のほかに、大名同士がかち合わないよう、宿の中が見通せないようにしてあるそうです。

どうしてか・・・大名同士がかち合うと、石高の低い大名は、かごから降りて挨拶をしなければならないからだそうで、他の大名がいた場合は、寺などに休憩を装って避難したそうです。

 

   

   曲尺手

 

はっきりと残っている桝形道、曲尺手です。

サングラスをかけた怪しげな女性は、ツアーデレクターです。

最後尾で皆さんの動向を見ております。

 

   

   火防ぎの槙

 

宿場内で火災が起きた時のために、土手を作りその上に槙を並べて植えて

壁のようにしたそうで、この家だけに残っておりました。

宿場内に三か所あったそうです。

 

      

   愛知県

 

今も昔も、静岡県と愛知県の境は、この小さな境川を境に分かれております。

逆光でよく映りませんでした。

 

   

   堺宿

小さな宿ですが、正式には宿ではなかったそうです。

日もだいぶ傾きかけ愛知県に入り、ここからバスでホテルまで移動して第一日目が終わりました。

 

 

 

 

コメント (2)
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