tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

豊橋のホテルから

2019-03-23 20:12:05 | 東海道五十三次の旅
3月23日(土)
今日も、東海道五十三次散歩の宿からの掲載です。
朝から夕方まで歩きました。

やっと静岡県からぬけだしました。

   
   ホテルからの夜景

ホテルの24階からの夜景ですが、さすがに足が痛みます
明日も朝から歩いてゴール地点を目指します。。。
歩いた歩数が35169歩、22.9キロでした。
   
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久しぶりの東海道五十三次散歩です。。

2019-03-22 18:19:42 | 東海道五十三次の旅
3月22日(金)
今日は久しぶりの東海道五十三次の旅です。前回のゴール地点からのスタートでした。
舞阪宿から歩き始めましたが、この辺り街道らしい所が余りなくひたすら歩くという街道歩きでした。
  
   
   新居関所

江戸時代の関所が、そのままの姿で残っているのはここだけだそうです。
なぜ取り壊されなかったのかそれは、学校としてからだそうです。
やっと、静岡県から愛知県に入りました。

今日はパソコンのから離れて気持ちもゆったりしております。
帰ったら、また、パソコンとの格闘が待っております。
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小夜の中山夜泣き石の伝説は・・・

2018-12-25 20:32:55 | 東海道五十三次の旅
12月24日(火)
今日はクリスマスを楽しんでいらっしゃると思います。
私共では、何時もの通りの静かな一日が終わりました。

   
   広重の浮世絵

東海道五十三次之内 日坂(佐夜ノ中山)の絵ですが、中央の丸い石が夜泣き石です。
広重の時代から街道の真ん中に大きな石があった事が解ります。

この石には悲しい伝説があり、誰もが石を動かすことはなかったそうです。
伝説では、お石という女がここの石に寄り掛かる様に腹痛に絶えているところへ、轟業右衛門という者が通りかかり介抱したが、お金を持っていることを知ると切り殺してお金を奪って逃走してしまった。

   
   名物子育飴

お石は懐妊していたので、傷口より赤子が生まれたという。お石の魂が石に乗り移り、石が夜な夜な泣いたそうで、里人は石を「夜泣き石」と呼んで恐れたといわれております。

生まれた子供は、乳が無いので水飴で育てたという伝説から生まれたのが「子育て飴」です。

出かけてもあまり土産を買った事がありませんが、子供の頃の紙芝居屋さんの売っていた水飴を思い出して、つい買ってしまいました。
浮世絵の絵の中で、道の真ん中に描かれているのが伝説の石ですが、明治になって、この峠を明治天皇が通られる際に、邪魔であると、現在のところに移されたそうです。
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島田宿の川越しと蓬莱橋は・・・

2018-12-24 16:52:40 | 東海道五十三次の旅
12月24日(月)
寒く冷たい北風が吹いております。
東海道散歩から帰ってきましたが、足の筋肉が痛くて仕方がありません。
忘れない内にまとめて置きたいと思いますので、備忘録的ブログになります。

第一日(22日)
朝暗いうちに出かけて皆さんと合流しての出発です。
前回のゴール地点、藤枝宿の千貫堤までバスで行き、そこからが今回のスタートになります。

   
   上青島一里塚

日本橋より51番目の一里塚です。
出発してから、所々に松並木の何本かが残っているような街道を黙々歩いていると、案内の先生が、「一里塚跡ですよ」と言うので皆さん一斉に顔を上げてビックリ・・・
写真のような案内板が建っておりました。

   
   島田宿

島田宿に入りました。
奴さんの街でもありますので、街の至る所奴さんがおります。

   
   マンホール

島田市のマンホールです。
奴さんが帯を掲げて歩いておりますが、帯祭と言う面白い祭りがあるそうでマンホールにデザインされております。

   
   一里塚

日本橋から52番目の一里塚です。
小さな石碑が建っているだけでした。

   
   大井神社

島田宿の産土神社で、洪水を鎮め安産をもたらす神社としてこの土地の人達に信仰されている。

   
   奴さん像

帯祭の奴さんが鎮座している。
島田に嫁いだ新婦が大井神社に詣でて氏子となった報告と安産を祈願した後に、晴着を着て宿中を歩いて披露して回るという仕来りがあったというが、宿場の拡大に伴い大変なことになったため、持参した帯を神前に捧げ、神社の大祭の祭に行列に供する大奴の大太刀に帯を掛けて宿内を歩き披露するようになったのが、今に残る帯祭の始まりだそうです。

   
   石垣

大井神社は洪水を鎮める神様として崇められておりましたので、川越人足達が仕事が終わるたびに川の石を持ち帰り、その石を積み上げて土手にしたが今に残っております。

   
   大善寺の鐘

このお寺の鐘は、明け六つ(夜明け)暮れ六つ(日没)を知らせ、川越の合図になったそうです。

   
   大善寺

大井川の近くにあったために、天明4年に時の鐘として設置されたそうです。

   
   川越し遺跡

今でも家に暮らしているところもありますが、大方の家はどちらかに引っ越されて、今では「川越し遺跡」などと呼ばれております。

   
   関

大井川が氾濫すると、ここに板をはめ込んで、水が宿内に来ないようにしていたとこです。
どれほど機能していたのでしょう。

   
   島田といえば

女性の髪型です。
文金高島田などここが発祥だといわれております。
色んな髪型が並んでおりました。

   
   番所の人形

人気のない家の中に入るとこんな人形がおりますので誰もが驚きます。

   
   番所の中

使われていた連台が無造作に置いてあります。
この上に板などを敷いて川を渡るのだそうですが、怖かったでしょう・・・

   
   川越しの値段

幕府によって統制されるまでは、渡り賃もまちまちで、中には安く請け負って、川の中ほどで、高値を請求する者も現れだしたので幕府によってその料金が決められたといわれております。

川越の値段は、川会所と言われる幕府の直轄するところで、その日の水深を計って川越賃を決め、川札を販売し、旅人はその川札を人足に渡し、それぞれの料金に従って川越をしたそうです。

   
   高連台

身分の高い人達が乗ったそうですが、大名行列が全部渡り切ると100万円くらいかかったそうです。
ここ大井川が水かさが増すと「川留め」になり、旅人があふれてしまうそうで、島田宿に泊まれない旅人は、藤枝宿に引き返して水の引く(川明け)のを待ったそうです。

川留めになると、宿場は大勢の旅人が飲んだり食べたり遊んだりで宿は大儲けしたそうです。

   
   蓬莱橋

今回一番行きたかったところです。
ここがあったから、東海道に興味を持ったのかも知れません。
夕闇迫る蓬莱橋に行って来ました。

   
   勝海舟

橋のたもとに勝海舟の像が建っております。
誰もが「??」と思ったはずですが、説明を聞いて全員が納得しました。

この橋を渡った先には、「牧之原」という幕臣たちが開墾して開いた茶畑があるために、どうしても橋が必要になり海舟の出番となったようです。

   
   蓬莱橋

同行の皆さんが渡り始めました。
全長897.4mあり、今でも有料で観光資源になっているらしい。

   
   時代劇

こんな感じで時代劇に出て来そうです。
最近でも撮影が来ていたと係の方が自慢そうに言っておりました。

   
   蓬莱橋

秋の台風で流木のため、橋脚が痛められてしまい半分までしか歩けませんでした。
それでも充分満足でした。
心穏やかにしてくれる橋のでした。
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島田宿から日坂宿を目指して。。。

2018-12-23 17:08:02 | 東海道五十三次の旅
12月23日(日)天皇誕生日
昨日からの続きで東海道を歩きました。
今回のゴール地点から、バスに乗り帰宅途中です。

   
   島田宿

まだ人通りの少ない6時ころに撮りました。
島田宿の現在の風景です。昔の面影はまったくありませんでした。

   
   島田宿マンホール

島田宿のマンホールです。
奴さんが、
帯を掲げている図柄ですが、ここでは帯祭りが有名ですのでマンホールに画かれております。


今日はここから、金谷の峠そして、小夜の中山を経て日坂宿まで歩きました。
くたくたになった体をバスに委ね帰宅途中です。
帰りましたら備忘録ブログにまとめたいと思っております。
大渋滞ですので、何時に帰れるか予測不能です。

   
   



   
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東海道五十三次 島田宿で。。。

2018-12-22 16:59:09 | 東海道五十三次の旅
12月22日(土)冬至
今日は暗い内に家を出掛け、東海道五十三次散歩で静岡県島田市に来ております。
天気予報の通り、バスを降りる頃には雨がシトシト降りだしました。

   
   昼食の弁当


歩き出して一時間で昼食です。
この地方の名物弁当で、お弁当のパッケージには、「やじさんきたさんも食べた」と書いてありました。
染飯弁当と言うそうで、お弁当好きな私はにたまらないお弁当になりました。

   
   地元名物弁当

明日は峠をふたつ越えますので、かなりハードな1日になりそうです。
今晩はゆっくり休んで明日に備えようとおもいます。 
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府中宿・岡部宿・藤枝宿を歩く・・・

2018-11-29 15:45:42 | 東海道五十三次の旅
11月29日(木)
秋深し・・・あと1日で師走です。
東海道五十三次散歩の備忘録の続きです。

11月25日快晴。ホテルを8時の出発です。
昨日のゴールした所までバスで送ってもらい歩き出しました。

   
   大旅籠柏屋

天保7年の建物で、旅籠と質屋を生業としておりましたが、次第に田畑を買い増して大地主となり、代々問屋や年寄りなど宿役人を務め明治を迎えたと云います。

近年まで住人がおりましたが、維持することが困難なため市が買い取り、大幅に改築して大旅籠として現存させております。
平成10年に国の登録有形文化財にしてされております。

   
   柏屋の中

旅籠としての機能が当時のまま残されておりますのでとても面白く見て来ました。
特に、この階段は凄い傾斜ですが、江戸時代には手すりは無かったそうで、女中さん達は、お膳を持ってこの階段を上り下りしたそうです。
手すりにつかまってもまだ怖い階段です。

   
   岡部宿

岡部宿に入りました。
駿府宿と藤枝宿の中間位にあり、平らな道を黙々と歩きます。

   
   桝形の道

東海道を歩いていると、よく桝形の道を見かけます。というより、どこの宿場にもあるもので、はっきりとこの形で残っているところの方が珍しいのかもしれません。

敵の侵入を何とかしようと考えたものだそうですが、効果はあったのでしょうか?

   
   岡部宿

今も静かな岡部宿です。
日曜日のせいなのか、車も人もあまり見かけません。

   
   松並木

歩いていると思い出したように数本になった松並木の一部に出会います。
街道の南側は枯れてしまっても、北側は残っております。
風の関係かも・・・

   
   石碑

東海道の岡部宿であることを力強く示しております。
こうしたことをするのも地元の方達だそうで、街道歩きをしていると、その地域の方々の考え方が分かるような気がして来ました。

   
   藩領の境

藩領の境の印ともいうべきもので、藩の境界線には必ず立っていたそうですが、今は無くなっているところがほとんどです。
「従是西巖村領横内」と記されております。

   
   大たいまつ

この松明は、送盆の時に燃やす大松明だそうです。
ガイドの方も、簡単に済ませ詳しい事は話さない内に出かけてしまいましたので、これ位しか分かりません。

   
   領内を示す

「従是東巖村領横内」
岩村藩の飛領出会った横内は、数キロで藩領は終っておりました。

   
   田中領

「従是西田中領」の碑が建っておりました。
まだ新しく点てたばかりのようで、年々街道歩きの人が増えているために建てたのでしょう・・・ガイドさんの説明です。

   
   一里塚

鬼島の一里塚です。
東海道49個目の一里塚ですが、写真の通りで、ここにありましたと言うだけです。

   
   蓮正寺

蓮正寺は、熊谷直実の出家後の名前を寺名にするほどの関係があるといわれております。
源平合戦で敦盛を打ち取った直実は苦しみ抜いた末に法然上人の下に入り出家してしまいます。

修行を終えた直実が故郷熊谷に帰る途中に立ち寄ったとされる伝説が残っております。

   
   久遠の松

田中城主の祈願寺であったため、家老以下藩士の大半が檀家になり「さむらい寺」といわれるほどだったそうです。
山門を入ると日蓮上人手植えの松といわれる「久遠の松」が圧倒するようにそびえ立っております。

高さ25m、枝張り28m、根回り7mというとてつもなく大きな松でした。
色んな松を見て来ましたが、これ程大きく立派な松は見たことがありません。

   
   藤枝宿

藤枝宿に入りました。
ここも宿場の面影はほとんどなく、指標などが建っているだけでした。

   
   一里塚

東海道50番目の一里塚です。
ここは石碑ですのでしっかりと立っておりました。

   
   藩領の境

ここにも立っておりました。
これは、ここに藩領の境を示す碑が建っていた事を示す案内標みたいなものです。

   
   松並木

今回の街道歩きで初めて両側に松が並んでおりました。
大分疲れて来て、皆さん黙々と歩いております。

   
   千貫堤

大井川の度重なる洪水から守るために作られた大堤防です。
一千貫を投じての大工事だったそうで、今でも名前として残っており、40mほどが残っております。

今回の東海道五十三次散歩は、ここがゴールとなりました。
15:30でした。
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駿府宿から丸子宿そして・・・

2018-11-26 17:11:35 | 東海道五十三次の旅
11月26日(月)
秋晴れが続いておりますが、寒さも一段と厳しさを増しております。
今日は月曜日で、ストレッチ教室の日でしたが休んでしまいましたので、少し長くなりますが、東海道五十三次散歩を備忘録としてまとめて見ました。
11月24日の土曜日出発。

   
   安倍川

前回のゴール地点でバスを降り、あべかわ餅のお店前から歩き出しました。
安倍川の川幅は、650m足取りも軽やかに歩き始めました。

   
   丸子宿

丸子宿に入りました。
この道標は、静岡県内だけに設置されているそうです。


   
   手製の案内板

こうした案内板が出されておりますが、行政ではなくすべて地元のボランティアの努力と好意で成り立っているそうです。

   
   一里塚の案内

一里塚と見附の案内板ですが、風雨にさらされていて読みにくいと言いたいとこですが、これもボランティアの方々のお蔭ですからみんなで懸命に読みました。
江戸から46番目の一里塚です。

   
   見附跡

ここに宿の江戸方の見附があったことを示しております。

   
   とろろ汁

今日の昼食は名物の「とろろ汁」でした。
広重の浮世絵で有名なお店は、私達のような団体は予約不可能という事で違うお店での食事となりました。

さすがに昼時ですので、お客さんが大勢待っておりました。「30分待ちです」の赤い張り紙がいかにも現代的でした。
とろろ汁をお腹いっぱい頂き、元気に歩き出しました。

   
   高札場跡

ここに、丸子宿の高札場があったそうです。
今は当時の面影はありませんでした。


   
   吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)

足利義政公拝領の茶釜がある事で有名なお寺です。
この寺は、連歌師の宗長が庵を結んでいたところで、宗長死後寺に改めたところですので、文人墨客に愛され、庭園も京風になっておりますが、この寺の一番の寺宝は拝領の「文福茶釜」だそうです。

小ぶりの釜で、大分痛んでおりました。

   
   片桐且元夫妻の墓

豊臣秀吉に見いだされ大名にまで登り詰めましたが、最後まで豊臣家に仕えることなく徳川幕府の大名になり晩年は茶の湯を楽しみに生涯を送った戦国大名です。
誓願寺にご夫婦並んで眠っている。

   
   紅茶発祥の地

ここ丸子は、日本の紅茶発祥の地としても知られております。
徳川慶喜に従って静岡に来た多田元吉により日本初めての紅茶が生産されたそうです。

   
   原木

多田元吉によってインドから持ち込まれた紅茶の原木だそうです。

   
   宇津ノ谷峠

「宇津の山越え」と云われる難所であったそうで、最高点は162mですが、急なために相当な体力が必要です。
明治になってトンネルが完成するまで270年間、天下の公道だったというから驚きです。

箱根もきつかったけれど、ここも疲れました。

   
   十団子

初めは茹でた団子でしたが、「峠で旅人を苦しめる大鬼が出没する」という事を聴いたお坊さんが、大大豆ほどの餅に糸を通して数珠のようにして「十団子」として旅人の道中の災難除けとして売ったのが始まりだそうです。

今ではこの地方の魔除けとして、各家々の玄関先に下がっておりました。

   
   宇津ノ谷

間の宿ですが標識は出来ておりました。

   
   間の宿

間の宿宇津ノ谷は、丸子宿と岡部宿の間に出来た小さな宿だったという。
旅人はこの宿で、十団子を買って峠に向かって行ったそうです。

   
   峠に入る前に

宿を通り過ぎて峠に向かっていると視界が広がったところに出ますが、そこからの宿の眺めです。
自分たちが歩いて来た宿が眼下に見えます。

   
   明治のトンネル

宇津ノ谷峠を越えるのが大変でしたので、有志がお金を出し合って着工したそうですが、双方から掘り始めましたが、予定地点で出会う事が出来ず斜めに結んだという話も残るほど難儀な工事だったそうです。

   
   宇津ノ谷峠超え

さぁこれから難所ですよ・・・と云っているような標識です。

   
   峠道

峠の道です。
峠の中で一番きれいなところでした。

ここを抜けると、石や枝や倒木などが私たちを苦しめました。
きつかった・・・・

   
   峠下

峠を下り切った所です。
ホッとしましたが、ここを大名行列が通ったのかと思うと、昔の人の苦労を考えれば・・・なんて思っておりました。

   
   道路に

道路にこんな案内が出ておりました。
もうすぐそこにバスが待っています。
このまま食事会場に直行してからチェックインです。

続きは後日に掲載いたします。




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丸子宿のとろろじる

2018-11-25 21:23:42 | 東海道五十三次の旅
11月25日(日)
朝から快晴です。
東海道五十三次散歩で、焼津のホテルに泊まり、昨日のゴール地点から歩き始めました。
今日は、駿府宿から丸子宿を経て岡部宿を歩き藤枝宿まで歩いて帰ってきました。

   
   丸子宿のとろろ汁

広重の浮世絵出すっかり有名になった丸子宿のとろろじるを食べて来ました。
日曜日でしたので大勢の人が順番を待っておりました。

帰って来たばかりですので、又詳しく書きたいと思っております。
二日間の行程でしたが、さすがに疲れました。

歩いた歩数は、25400歩、16.4キロでした。
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駿府宿から岡部宿まで歩く

2018-11-24 19:21:45 | 東海道五十三次の旅
11月24日 (土)
朝から快晴です。
今日は、朝早く出掛けて東海道五十三次散歩に来ております。
前回のゴール地点までバスで行き、そこからスタートです。

   
   安倍川

前回は、安倍川餅のお店で名物の安倍川餅を頂いて終わりましたので、ここからのスタートです。
駿府宿から丸子宿を歩き岡部宿まで来ました。
明日は藤枝宿まで歩きます。。
家を出掛けてから22400歩、16.5キロ、歩きました。
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