tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

赤坂宿から藤川宿まで・・・

2019-05-12 17:05:35 | 東海道五十三次の旅

5月12日(日)

今日も青空が広がっております。

さすがに疲れが溜まって今日はなにもしない日にしました。と思いながら、先日の東海道五十三次散歩の備忘録に取り組んでしまいました。

忘れない内に・・・これが、原動力になっております。

街道歩きは、メモなど取っている時間がありませんので、とにかく気になったところは写真に収め、写真を見ながらまとめるという記憶だけが頼りです。

 

赤坂宿

前回のゴール地点の赤坂宿の見附跡です。

ここまでバスで送ってもらってスタートです。

 

赤坂宿

近年に建てた道標です。

赤坂宿と御油宿の間は短く、16町といいますから1.7kくらいの距離ですので、旅人の争奪戦が繰り広げられていたそうです。

ここ赤坂宿には「留女」が大勢いて、旅人を宿に引き込んだので、赤坂宿は大層にぎやかだったといいます。

 

旅籠大橋屋

大橋屋は江戸時代からの旅籠で平成26年まで旅籠として営業を続けていたそうです。

現当主は19代目だそうです。

 

本宿一里塚

長澤の一里塚は、木でできているのか、ポツンと建っておりました。

日本橋から77番目の一里塚ですが、説明書きなど一切ありませんでした。

 

岡崎市

岡崎市に入りました。

 

最初のマンホール

岡崎に入って最初のマンホールです。

矢作橋とお城です。

 

本宿

本宿は、赤坂宿から1里9丁、およそ5キロあり、次の藤川宿まで4里とほぼ中間に位置しております。

 

法藏寺

徳川家康の先祖松平氏初代親氏が建立した寺で、歴代松平氏の祈願所だったため幕府から、手厚く保護されておりました。

江戸時代は、「門前下馬」の格式を持ち、通行する諸大名は下馬して参詣したといわれております。

 

近藤勇の首塚

板橋で斬首された近藤勇の首は京都に送られ三条河原に晒されましたが、3日目に仲間が持ち去り、ここ法蔵寺の埋葬したと伝えられておりましたが、それは、土饅頭のような粗末なものだったそうです。

近年になり、寺の古文書を整理しましたら、「近藤勇の首をこの寺のどこそこに埋めた」との事が記載された文章が見つかり、その場所を掘り返したら首が出てきたので、改めて塚を作り葬り直したといいます。

 

松平広忠の墓

家康の父親のお墓です。

ここは松平氏の墓所になっており、代々のお墓が並んでおりました。

 

一里塚

本宿一里塚です。

日本橋から78番目の一里塚です。

 

山中八幡宮

松平氏のゆかりの神社で、家康の領内で一向一揆が勃発したときに、命からがら逃げこんだのが、ここの神社だといわれております。

江戸時代は厚遇されていたそうです。

 

鳩ヶ窟

三河国の一向一揆の時に、一揆を起こした宗徒たちに追われて逃げ込んだのが、この神社にある鳩ヶ窟といわれる洞窟です。

追手の宗徒たちが、家康が潜んでいる洞窟の前に来ると、洞窟から鳩が飛び出したので「鳩がいるなら人はいなかろう」と引き上げていったという逸話が残っております。

これ以後、家康は信仰の力を侮ってはいけないことを学び、本願寺を東西に分離したといわれております。

 

大楠

山中八幡宮の入り口にそびえ立っている大楠は樹齢1300年と伝えられております。

 

棒鼻

東棒鼻で、ここから宿に入りますというところで、大名行列は体制を整えて宿に入っていったそうです。

 

藤川宿

ひっそりとした街道です。

 

棒鼻

西棒鼻で宿の出口ともいわれております。

 

一里塚

藤川一里塚です。

日本橋から79番目の一里塚です。

粗末な板で作った標が建っておりました。

 

真っすぐ

名鉄の線路です。

こちらも東海道線と同じく真っすぐです。

写真の左手に見える建物が第1日目のゴールです。

1日目の距離は15.7キロ、歩いた歩数は23.450歩でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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