
いろいろなことがありましたけど、今年も豊かに稔るの田んぼの遠くに平和な集落が見えています。その人ひとり見えぬ豊かな圃場に立って私は農村の大きな変革の流れをしみじみ思うのです。
1932年(昭和7年)頃でしょうか、まだ小学校低学年の幼い私は祖父の代掻きの鼻取りをしていました。祖父に「上手だ!上手だ・・」ほめられおだてられて得意になって仕事をした嬉しい思い出をはっきりと覚えています。当時はそんな幼い子供でも農作業の手伝いをしていたのです。「鼻取り=馬の口につけた竿で馬を誘導すること」
1934年(昭和9年)頃でしょうか、東北を厳しい冷害の凶作が襲いました。小学2年生だった私にも凄惨な思い出が残っています。学校に弁当を持って来れない子も何人もおり、また持ってきた子の弁当も片隅に赤いカボチャが少しへばりついていました。(当時は給食などありませんから)子供たちは空腹に耐えていたのです。恐怖の思い出が重なっています。
当時の若い小学校の校長先生が新聞にその窮状を訴えました。そして、当時としては破格の援助の炊き出しのお昼給食が小学校で行われたのです。朝、差し出した弁当箱にお昼には真っ白なご飯が詰められ鰯のめざしがついて渡されたのです。それは輝くような喜びの思い出です。あの厳しい時代にもこのような善意の救済があったのです。
当時の東北の農村では、極貧の零細小作人がたびたび襲ってくる凶作に苦しみ娘を身売りしなければならないような悲惨の状況の中で暮らしていたと長じてからものの本で知りました。2.26事件の要因のひとつに若い青年将校が部下の出身地の惨状を憂い解決しなければという気持ちがあったと聞いています。
その悲惨な状況から農村が立ち直ることができたのは戦後占領軍の指示で行われた農地改革でした。零細な小作人が自立した農民になったのです。たとえ労働は厳しく生活は貧しくても農民の顔に笑顔が見られるようになったのです。
当時のいきいきした農村の様子を画集「会津の百年」「会津の昭和」からお借りしました。1955年(昭和30年)頃の写真です。
一家あげての苗取り作業です
辛い作業だけれども楽しい田植えです。当時は田植えの時期には小中学校で10日前後の農繁休業がありました。小学校の子供でもしっかりと農作業を手伝ったのです。
肥引きといわれる奥会津只見地方の大事な農作業です。まだ雪の残っている圃場を橇で堆肥を運んだのです。辛い作業ですけど声を掛け合う村総出の作業で楽しい年中行事のひとつでもあったのです。男も女も終わる頃には日焼けして顔は真っ黒でした。
農耕の作業はすべて人力と馬や牛の家畜でした。奥会津で馬や牛は同じ屋根の下で暮らす大事な家族でした。私は今でも大事な家族を食べる馬刺しなど恐ろしくて食べる気にはなれません。
集落には子供がいっぱいいました。集落の人みんなに愛されかわいがられ、ときには自分の子供同様に集落の人に叱られもしていました。
節分の日には集落の子供が一緒になって家々を回り播かれた豆を拾って歩きました。
それぞれの家では大豆だけでなく子供の喜ぶ落花生や飴菓子も一緒に播きました。いまの子供なら見向きもしないでしょうけど当時の子供にとってはおいしいおやつでした。
1960年頃、農村に変革の兆しが見えてきました。人力や牛馬にかわる耕作機械の導入です。馬や牛ににかわって耕耘機が爆音あげて田畑をを耕し、それを運転する人の誇らしげな姿に私は驚きました。
1気筒のエンジンの冷却水が湯気を上げています。
耕耘機・ティラーは驚くような速さで農家に普及して行きました。ティラーが道路を走るための免許取得の講習会たびたび開かれるようになりました。
そして農村の機械化は驚くような速さですすんでゆきました。地べたに這いつくばっての厳しい農作業の労働から農家の人は解放されたのです。耕作の機械化だけでなく栽培技術も改善されていきました。今では田植えの苗は農協などで田植機にすぐかけられるよう箱に栽培されたものを軽トラで運び、追肥や厳しい労働だった田の草取り(除草)などに手をかけることもなく、田植えから刈り取りまでほとんど手を加えなくても稲は育っていくようになりました。かつてはいつも働く人で賑やかだった圃場から人影は消え静かになりました。
それぞれの農家では厳しい労働から解放されたけれども機械の購入費用や維持運用費が必要になりました。そして人力や馬や牛の力は必要がなくなりました。
かつて田植えの時期には多くの人手を町の人のから得ていたのも必要なくなくなりました。もう田植え作業は2人で出来るのです。
そこに経済産業のグローバル化と、米離れの食料事情の変化で、農作物、特に米価の下落が追い打ちをかけました。各戸の農業経営は厳しくなりました。
農村ではムシロ旗を掲げ、米あまり対策の減反、農作物の価格下落を招く食料品の輸入に反対して各地でのろしを上げました。
また減反耕作の援助金目当ての形ばかりの休耕田の麦や大豆の耕作が行われるようになり収穫されることのない休耕田の作物もときには見られる悲しい状況もありました。
そして今、アメリカやオーストらリヤの大農経営の機械には遠く及ばなくても、農業機械は大型か、近代化されました。
田植え前の耕耘・代掻きは大型トラターが高能率で行ています。広大な農地には遠く離れて数台のトラクターが見えるだけで作業は短期間で終わってしまいます。
田植えも同じくご主人が高速の田植え機械を運転し奥様が軽トラで苗を運び、広大な田んぼの田植えは二人だけで出来るのです。
かつて賑々しかった田植えは広い圃場が2・3人の人で静かに一見のんびりそうにすすめられるのです。
もう農村では人手はいらないのです。また各戸で大型耕作機械を購入することは無理でもあり無駄でもあるのです。大部分の農家は零細地主となって耕作者に委託栽培をしてもらっているのです。
いま農業耕作している人は各集落の一握りの、それも60歳前後の人たちです。農地では働き盛りの人や若者の姿はほとんど見当たりません。
TPPが農業を変えるだろうと言う声も聞きます。でも私にはその前にもう農村は大きく変革する時期に来ているように思えてなりません。
5年後・10年後、今大型耕作機械と進歩した農業技術で農業を支えている60代前後の人たちはどうなるのでしょうか、優れた農業技術や大型耕作機械の操作を受け継ぐ人がいるのだろうかと不安です。
でも、かつてむしろ旗を立てて政府を糾弾し農村維持政策を声高に要求した時代とは今は明らかに違っています。
いま、農村では減反政策や低米価に抗議しムシロ旗を立てる人は見えません。
かつて休耕田耕作の補助金目当てのごまかし栽培はもう見ることはありません。そしてはっきりと利益採算をめざした農業経営が見られるようになりました。
広い休耕田には蕎麦の花が見事に稔っています。蕎麦や麦の収穫用のコンバインをもっている人も知っています。
市場出荷目当てのキュウリ栽培培のビニールハウスや

アスパラカス栽培の畑や
肥肉牛の飼育
などのしっかりした農業経営があちこちに見られ、しかもそれぞれが隠れて名産品になっているとも聞いています。
一時、他地区から購入した藁を飼料につかいひ肥肉牛が放射能セシューム汚染の恐れも?と報道されたこともありましたけれど今は改善されているようです。風聞被害もまもなく消えると思います。
いままで、いろいろの苦難を乗り越えて村は生き残り発展してきました。農村の改革を政府などの他力に頼るのではなく、自力の活力で改革して行こうとする力が見えるように思います。
私たちの集落には生活保護とか、ニートとか、人様の援助にすがるようなお家は一軒もありません。皆様がそれぞれの立場で生き生きと活動されていらっしゃいます。
子供たちはこんなに元気です。

そして心躍らす秋祭りはまもなくです。
老体の私も希望をもって明るく生きてゆきたいと思います。