昔、みちのくの雄「安倍貞任 (あべのさだとう)」は東北六郡の地に勢力をはり中央の政府に対峙して栄えておりました。
その頃、この小さな集落(当時は村)蛙田の隣の村宇内には縁あって貞任の娘「おさわ」が住んでおりました。たいそう美しい娘で村人は皆あがめかしずいていました。
かつて60数年前頃までは日本はもちろん世界中に癩病(らいびょう、現在はハンセン病)といわれる恐ろしい病気がありました。いまは特効薬ができて日本では根絶しましたが、罹患すると少しずつ少しずつからだが膿みただれ溶けてゆきやがて歩行もできなくなり死んでしまう恐ろしい病気です。
可愛そうなことに、この美しい娘はライ病に罹患したのです。少しずつ少しっずつからだが崩れていく恐ろしい姿に村人は一人去り二人去りしてついには、この娘を塔寺村の沢の奥に捨てました。
いまでもその沢を「どすが沢」と呼んでるそうです。会津では昔ライ病のことをどすと呼んでいたのです。
蛙田村の人達はそれを哀れに思い娘を沢の奥から助け出し、村の北の地に小屋を作って住まわせ心を尽くして看病して看取りました。
村人の暖かい心に感謝した娘は亡くなるときに「私はこの地の神となっていついつまでもこの村の子供の幸せを守ってあげます」と言い残しました。
そして村人達はこの地に地蔵尊を祀り大沢権現と称して子供の幸せを祈るようになりました。やがて大沢権現に参詣する人も増えてきましたが供物やお賽銭はすべて子供に分け与えられ子供のために使われ、村の子供達はすこやかに幸せに育つようになりました。
明治になって初年、神仏混淆が禁じられ大沢権現は大沢神社と改められいまに至っても信仰が続けられております。
蛙田の集落に語り継がれている大沢神社の縁起の物語です
またこの神社の境内には大きな石の柱に十二神将と書き彫られたものがあり人目を引いております。十二神将と言えばお薬師様の周りの恐ろしい憤怒姿の12の仏の眷属です。私はなぜ神様の大沢神社に仏の薬師如来の眷属の十二神将があるんだろうと不思議に思っていました。
でもこれは車を運転しながらちらと見たための間違いでした。
12神将ではなく「12神 祠」でした。つまり12柱の神様を祀った祠と言うことだったのです。
祠には天保十二年(1841)丑三月吉日 世話人嘉兵衛 喜左衛門 当村氏子一同と記されていました。
大沢神社の地にはもう一つ別な言い伝えがあってこの12柱の神様を祀る社があったのです。昔この村と隣の塔寺の間に土地の境界についての激しい争いがありました。
小さな村の蛙田村は大きな村の塔寺村にいつも負かされ苦しんでおりました。あるとき村人達が集まってそれを嘆き悲しんで対策を話し合っていると十二人の旅の人がやってきて村人を助け見事に塔寺村を破り勝利しました。村人が村に帰って勝利の宴を催そうとすると十二人の旅人達の姿はかき消すように見えなくなってしまいました。
村人達はこれは12柱の神様が旅人に姿を変えて蛙田の村を助けてくださったのだと悟りました。そしてこの大沢権現の境内に12柱の神様のお社を建て厚くお祀りしました。
その後蛙田村では他村との公事訴訟があると必ず必ずこの12神の祠にお参りして必ず勝利したと言い伝えられています。
こんな小さな集落のこんな小さな社にこんな言い伝えが語り継がれいまに生きていたのです。
この物語は井関敬嗣先生の「会津坂下の伝説と史話」によりました