20年ほど前亡くなったマルのお墓なんですよ
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シベリアンハスキー犬のマルの思い出の姿です
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極寒のシベリアの橇引き犬で犬種の中で最も野生の残っている犬種といわれています。30年ほど昔もてはやされて飼われたんですけど、暑い日本の土地に合わず悲惨の最期を遂げた犬種なんですよ。ハスキー犬の性質を知らず、ただ売らんかなの宣伝にまどわされてたくさんの人が家族にしたのです。でも大型犬に近く野生が強く残っている犬種を扱いかねて飼い続けることができず遠く離れた場所にすてられたハスキー犬がいっぱい出たんですよ。
野生は強く残っているんですけど温和なひとなつこい犬種です。捨てられたハスキー犬が知らないし人の家に入りこんだりして大きな問題になった記憶があります。そんなこでたぶん無慈悲に処分されたハスキー犬も少なくないと 思います。
でも私などにはどうにも出来ず、唯々宣伝して売りまくった業者や無責任な飼い主に激しい怒りを感じていました。
私にしても犬種の性質も知らないで流行に乗って飼ってしまったひとりです。冬は雪の上で平然と眠りますけども夏の暑さにマルは苦しみました。私はやむなく茶の間にエアコンをいれました。でも大型犬に近いマルです、家の中だけに住むことは出来ません。やむなく茶の間の外に5m四方ほどのサークルをつくりました。マルはそのなかのちょっと大きなイヌツゲの木下に潜って夏を耐えていました。茶の間とサークルを行き来して暮らしていました。」
8歳になった頃から病気で弱りだしワンクリニック通っていたんでしすけど、夜イヌツゲの木の下で眠るように死んでいきました。
正直言ってワンクリニックなってあてになりません。弱っていたマルはあの日短い散歩を終えて夜茶の間で私と一緒に寝ていたんですよ。外に出るといううのでトイレかなと思ってサークルにだしたのに帰ってきません。しばらくして懐中電灯で出てみるといつものイヌツゲの木の下でやすらかに眠るように死んでいたんです。さよならマル涙も出ませんでした。
当時70歳の若かった私は苦しくて悲しく私ひとりでいつもの散歩道を涙を流してマルの名を呼びながら歩きました。
楽しいこともあったんですよ。1歳になったばかりの頃マルと一緒に誰もいない山の尾根道で休んでいました。するとマルは何かを感じて藪のなかに飛び込んでいったのです。
そして帰ってこないんです。犬笛をなんどもふいたのに帰っておないんです。
気の短い私は怒ってしまいました。あの馬鹿なマル、かってにしろ阿呆犬がとプンプン怒ってさっさと帰り道を一人でおりました。そしたらうしろからマルが猛烈の勢いで追ってきました。私は嬉しくてしっかりマルを抱きしめました。マルは捨てられたら大変と思ったンでしょうね。私の顔をぺろぺろなめまくるんです。そのあと不思議なことに犬笛を吹くと飛んで帰ってくるようになったのです。
マルの大好きのことが二つありました。ひとつは川遊びです。たれもいない川辺で泳いでこいというと喜んで川に飛び込んで泳ぐんです。でも「かえるよ~」といって犬笛を吹くと飛んで帰ってくるようになったのです。
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もうひとつは冬の雪山で私は歩くスキーをはいてマルと歩きました。でもときには野ウサギなど追い出しておいかけるようなことがあります。橇引き犬といっても雪の上の野ウサギに追いつけるはずがありません。ときにはウサギを追って尾根から消えるときもあるんです。でも私は平気でした。犬笛を吹けば3分もしないうちに飛んで帰ってくるからなんです。
私とマルは正直対話ができました。まるはわたしの言葉で、私はまるの鳴き声や表情で対話できるんですよ。
でも私は決してマルを甘やかしはしませんでした。駄目なことはだめと厳しく叱りました。野生の残るマルはあるとき泳いでいてカルガモをつかまえてほめてもらおうと私のところにくわえてもって来ました。わたしは強く「駄目!」と叱ってリードで何度も激しく打ちました。それいらいかもを捕らえてくることはありませんでした。
野を散歩していてキツネ塚を見つけたときあやうく逃げ遅れた子キツネをくわえるところでした。そのときも激しく叱ってリードでなんども打ちました。マルは伏せてじっと耐えていました。それは野生ののこるハスキー犬にとって必要なことでした。
20年も昔のこと、マルが懐かしいです。