「ようこそ、会津坂下町へ」と掲示されてる事務所の建物がありました
この事務所の建物は、今は会津坂下町役場東分庁舎「観光総合案内所」とありますけども、50年ほど昔、自分の家に固定電話を設置して欲しくって足繁くお願いにかよった電電公社の建物だったような気がして懐かしいんです。
当時電話は、60数戸の大きな集落の中では裕福なお宅か、お店のように仕事で電話が必要な家かの数軒しか設置されていませんでした。でも戦後のひもじくて貧しい生活が安定して余裕が出てくると私のような者でさえも電話が欲しくなって電電公社に電話設置のお願いに訪れるようになりました。ところがどっこい電話を設置して欲しい人はわんさといてたくさんの人が電電公社に押しかけていたのです。
当時電電公社は専売公社・国鉄と並んで国の3公社といわれる国営のお役所でした。ですから何度足を運んで電話設置をお願いしても気位のお高い国営のお役所さんです、けんもほろろに希望者がいっぱいで無理ですよと冷たくあしらわれて帰された記憶があるんです。当時電話は庶民の手の届かない貴重なものだったんです。
70年ほど昔、20歳の私は奥会津の60数戸ほどの大きな集落で暮らしていました。この写真は集落の中で只1軒昔名主さんだった方の家に設置されていた電話と同じ形の電話の写真です。ネットで検索してやっと見つけました。
上の箱が電話です。下の箱には電話につなっがている電池が入っています。ガラスの筒の容器に希硫酸の溶液が入っていてプラスの電極になる銅板とマイナスの電極になる亜鉛板がその溶液の中にひたさって入っていました。当時の電話にはみなこの電池がついていたのです。
電話をかけるときは上の電話機の左側の受話器を取って、右側にあるハンドルを回します、すると電話器の中にある小さな発電機が回っておきた電流が局の電話交換所に流れて女の交換手さんを呼びだします。そして交換手さんに「もしもし何番につないでください」とお願いして相手の電話につないでもらって会話するのでした。
その後はいろんな形の電話器が出来、電池は局の備え付けの電池を使うようになりましたけどハンドルを回して局の交換台を呼び出して相手の電話器につないでもらう方式はしばらく変わりませんでした。
でもやがてダイアルを回して相手の電話を呼び出すことの出来る黒電話ができ、電電公社も民営になり、私のようなものも電話を設置することができるようになりました。
そしてついに携帯電話ができた時は驚きました。でもいろんな問題がありました。人前で大きな声で携帯で通話している人を見て「なんてモラルの欠けた恥知らずの人なんだろう」とさげすんだことをいう人もありましたし。また秘密な場所で秘密なことをしている人もいて「もしもしあなた今どこでなにしているの」といわれて困ってしまうという人などもいたように聞いています。新しいものが出来るといろんな問題が起きるんですね。
それがいまではいろんな機能いっぱいのスマホです。息子たちや孫たちが自由につかいこなして楽しんでいます。小学生や中学生も皆もっていていろんな問題もあるやに聞いてもおります。
でも老体の私や88歳のばばちゃんは電話だけの単純な携帯で便利しています。スマホを自由に使いこなして楽しんでいる息子や孫たちをみるとうらやましくなるんですけどとても手を出す気力はもうありません。
昔の電電公社の建物からいろんな思いが浮かびました。老体のぼやきです。でも懐かしいのはやっぱりあの柱にそなえつけられた電池と手回しの発電機のついた大型の固定電話です。あの大きな固定電話できれいな声の交換手さんをよびだし相手の電話につないでもらって話あってみたいです。