さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

羽化したばかり? 輝くようにきれいなトンボです

2014-07-20 | 日記


 私は幼いころ、このトンボを「クルマトンボ」と呼んでいました。夏の終わり頃空いっぱいに群れて飛んでいました。親指と人差し指ではさみを作った手を高く空に上げているとトンボがすぐに人差し指に止まって休むのでおもしろいように捕れました。

 木の枝などに止まっているトンボを見つけると手を大きな輪から小さな輪になるようにくるくる回しながらトンボに指を近づけるとトンボは目を回して動けなくなるのでおもしろいように捕れました。子供って残酷の面もあるんですね、捕まえたトンボの羽を短く切って池に投げ込むと飛べない羽を激しく動かして水の輪をつくります、すると大きな鯉がやってきて大きな口でぱくりと食べてしまいます。

 群れの中には真っ赤なトンボもいました。
 小学校に入ると童謡の「夕焼け小焼けの赤とんぼ・・」を知りました。そして「クルマトンボ」は「赤とんぼ」になりました。子供の私は「追われて見たのはいつの日か」と思って歌っていました。夕焼けの道を歩んでいると赤とんぼの群れが追ってくるようにたくさん飛んくると思っていたのです。

 そうじゃなくって、子守の女の子に背負われて夕焼け空いっぱいの赤とんぼを見ていたんだと知ったのはお恥ずかしいことについ最近のことなんです。子守子というと貧しい家の幼い女の子が口減らしために他人の家の子守奉公に出された悲しみを歌った「おどまぼんぎりぼんぎり・・」の五木の子守歌が思い浮かびます。でもこの歌詞では自分の幼かった頃可愛がって子守をしてくれた女の子へ懐かしみの心が歌われていますね。

 私が幼かった昭和初期にはもう子守奉公などという風習ありませんでした。小学校の6年が義務教育になっていましたから。でも当時の農家では両親が仕事に忙しいので生まれたばかりの幼い子供は兄や姉に背負わせて子守をさせる風習が残っていました。

 私は一番先に生まれましたから背負われて子守された思い出は全くありません。私の家は農家ではありませんから兄に弟たちを背負わせて子守をさせる必要はまったくないはずなのに私の母は厳しい人で子供のしつけのためと思ったんでしょうね、小学校3~4年の私が学校から帰るとすぐに弟を背負わせて子守をさせました。冬スキーを履いて身軽に楽しむ友達を見て、背中に弟など背負わないで身軽にスキーを乗って見たいといつも思って母を恨んでいました。五木の子守歌の悲しい心がわたしにも少しは理解出来るんです。

 でも、あの頃の弟は丸顔のぽっちゃりした可愛い子どもでした。いまは80歳間近の爺いですけど弟は私に会うと「兄貴に背負われてスキーに乗ったのは楽しかったな」などというんです。 白髪頭の爺いになった弟ですけど、もうぽっちゃりとした丸顔の弟ではありませんけど、いまも弟の名前を呼び捨てにして可愛いと思うから不思議です。

 羽化したばっかりの綺麗なトンボにいろんなことが思い浮かびました。あっ、そうそうこのトンボの本当の名前は「ミヤマアカネ」というんだそうです。会津マッチャンさんに教えてもらいました。

赤いタチアオイに鶏になった日がよみがえり

2014-07-19 | 日記


 4~5歳の頃と思うんですよ。
 男の子も女の子もいた私達は赤いタチアオイの花びらをとって鼻にはりつけました。花びらのねもとを薄く二つに裂くとねばねばと糊がついたようになっていて鼻の頭にはりつることが出来たんです。

 すると私達はすぐにあの雄々しい雄鳥(おんどり)に変身してしまうんです。私達は「トッテコイノ~」とおんどりの鬨(とき)の声を叫び合いながら猛々しい雄鳥になってしまうんです。幼い頃って不思議ですよね。懐かしく楽しい思い出です。

 あの頃といっても、80数年ほど昔のことですけども農家ではみんな鶏を飼っていました。 今のように身動きも出来ない狭いゲージに入れて飼うのとはまったく違うんです。

 鶏はそれぞれの家で卵を雌鳥(めんどり)に抱かせて雛をかえし繁殖させなければなりませんから、7~8羽の雌鳥に雄鳥一羽の群れで飼っていました。群れの中で一番大きく性質の温和な雌鳥に卵を抱抱かせて孵化させ雛を育てさせるのです。雌鳥の腹の下から小さな可愛い雛たちががぴよぴよ出入りしている光景が思い浮かびます。

 当時鶏たちは、昼は鳥屋(とや)からでて家の裏などに放し飼いされていました。その頃の鶏は少しですけどみな飛べましたし、鋭い蹴爪(けずめ)を持った大きな雄鳥が雌鳥たちを守っていましたから猫などに襲われる心配はなかったんでしょうね。夜になると鳥屋に入って止まり木に飛び上がって並んで眠るんです。

 雄鳥は小さくて地味な姿の雌鳥と違って姿も大きく輝くような美しい尾羽と鋭い蹴爪(けずめ)をもっていて何より頭についている真っ赤な鶏冠(とさか)が見事でした。自分の群れをしっかり守っている雄鳥の姿は子供たちには輝いて見えるのでした。

 タチアオイの真っ赤な花びらを鼻の頭につけた子供はすっかりその雄鳥になりきって「トッテコイノ~」と叫びあうのです。

 
タチアオイの赤い花に4~5歳頃の不思議な思いが懐かしく思い浮かびました。

 分け入っても分け入っても青い山 山頭火

2014-07-18 | 日記


 山頭火さん、間違った句の読み違えをしてごめんなさい。私の山の散歩道です。山頭火の句を愛していらっしゃる方怒らないでください。私の山の散歩道の緑があまりにも美しかったので思わずこの句が浮かんでしまったのです。

 
山の道は涼しいんですけどやっぱり初夏の道ですね、栗の毬がもうこんなに大きくなっていました



 登山口の赤クローバーには今年初めて見たヒメアカタテハの蝶が止まっていました。レンズをマクロに変える余裕がありません、標準ズームレンズのまま静かに静かに近寄って撮りました。きれいな蝶の初見は嬉しかったです。蝶の名は会津マッチャンさんに教えてもらいました。この辺(会津)では越冬出来ず南からやってくる蝶なんだそうです。



まっ・・嬉しかったです。
 アシナガバチの仲間なんでしょうね。一生懸命巣を作っていました。今は消えてしまいましたけど、4~5年前までは里の私の家の軒下にたくさんのアシナガバチの巣がありました。懐かしかったです。可愛いかったです。蜂が怖いという人もいますけど、アシナガバチは巣を怖そうとでもしなければ襲ってなどこないおとなしい蜂です。



 
なんという花なんでしょうね、白いきれいな花があちこち咲いていました



 遊歩道の頂に着く頃、少し空が暗くなって風も強くなってきました。スポーツドリンクを飲みながら休んでいるとぽつりぽつりと雨が落ちてきました。さては山頭火の句を軽々と解釈してお借りした天罰かなと怖くなってカメラをカバンにいれ急いで道をおりました。


 やられました、大粒の雨になりました。帽子もシャツもぐしょ濡れです。ところが道脇に綺麗な山百合の花が咲いていたのです。カメキチの爺いです、ほっとけません腰のバンドにつけたコンデジのケースからカメラを取り出して数カット撮りました。もう耐えれないような雨です。泣きたくなりました。



 道を駆け下りながら頭の上に雷の怒りの音を聞きました。やっと遊歩道にある東屋にたどり着いた時には全身ぐしょ濡れです。風も強くなって木の枝が激しく揺れていました。濡れたシャツが冷たくて寒さに震えていました。


 激しい驟雨でしたけど20分ほど震えていましたら雨も小やみになってきました。びしょ濡れの体でやっと糸桜里の湯につくとカウンターの女の子は「かわいそう・・」と笑っているし、ばばちゃんは「馬鹿な爺い」と怒るし、逃げるよう温泉につかってやっと人心地になりました。天罰は恐ろしいです。

ルビーのように美しい野苺の赤が嬉しくて

2014-07-17 | 日記


 二つ三つ摘んで口に入れました。甘酸っぱい味に幼い頃の日々が甦りました


 尾瀬沼の福島県側の登山口檜枝岐村の隣の小さな8軒ほどの集落小立岩が私の古里です。80年ほど昔小立岩には大川村の小学校がありました。茅葺き屋根の2教室に台所と8畳と4畳半の教員住宅のついた小さな校舎でした。

 その小学校の校長が30歳代の私の父でした。父は私が小学校一年から五年まで校長としてこの小学校に勤めていたのです。校長といっても本校の小立岩には校長の父と18歳前後の若い代用教員と言われるいわば見習いの教員の二人だけの学校です。それにこれも代用教員が一人の分教場が一校ありました。児童数は35人前後の小さな小さな小学校でした。

 山峡の集落でしたから猫の額ほどの田畑しかありません。集落から1里ほど谿谷の奥地にあるブナの原生林に茅葺きの小屋があってブナの原木から木の篦(へら)と杓子を作って出荷することと、銃猟で熊やムササビや野ウサギを捕って毛皮を売ることが生業だったように思います。深い積雪が消え始めるころ集落の男たちはみな自慢の銃を持ち寄って試射をしました。子供たちはそれをを見るのがとても楽しみでした。それはまたぎたちのだいじなお祭りでした。熊が捕れれば校長の父のところには熊の肉は届けられました。それは本当においしいものでした。また月夜の晩などには近くの森でムササビを撃つ銃声を聞きながら眠ったこともありました。ムササビや貂(てん)の毛皮は高価な毛皮だと聞いていました。

 私の友達ちと言えば小立岩には「とくお」という男の子がおりました。優れた知力と体力と胆力と優しい心があって彼は私達仲間のリーダーでした。渓流からイワナを捕る名人でしたし、こくわなどと言うおいしい蔓になる果実を高い木の梢まで身軽に登って採ってきて私に分けてくれたりもしました。

 川上の隣の集落の大桃には勉強がずば抜けて出来てきれいな姿の「とみえ」といつも笑顔を絶やさない明るい「いせこ」の女の子二人がいました。

 川下の大原には温和でまじめな「くらきち」と「すみ子が」がいました。わたしを含めて6人が仲のよい同級の友達でした。私が父の転勤で別の村に移るまでの小学校1年から5年までいつも一緒に遊び楽しんだ大事な心の友でした。

 私達はいつも「ふくべ」という小さなひょうたんに母が煎ってくれた青米(未熟米)と少しの大豆をいれて紐で首に提げていました。学校が終わったあとみんな持っている大事なおやつでした。よく噛むと香ばしく甘いおいしいおやつでした。

 野山にはいろんなおいしいものがありました。桑の実、アケビ、栗、野ブドウ、さなずら、はしばみ、やず、こくわ、ブナの実・・私達はそれぞれの季節のおいしいものを採って食べました。母親から与えられるふくべの煎り米以外のおやつはみな自分たちで野山から採るものでした。

 その中で特においしいものの一つに野苺がありました。それを見つけると三つ四つ五つ手のひらにとりためて口に入れると甘酸っぱい天国の味がするのでした。

 昨日の散歩の道すがら、道脇にこの美しい野苺を見つけて嬉しくなりました。レンズをマクロに変えて心をこめてなんカットも撮りました。二つ三つ口にいれると懐かしい素朴な味がして80年昔の五人の幼友達のひとりひとりのことが思い浮かびました。

 
美しい野苺に遠い山峡の集落小立岩の懐かしい思い出が甦ったのです