私たちの町にはあまり人の目に止まってはいませんけど、古い時代に使われていた[ガラクタ」(今は無用になった古物)を集めて無造作に軒下に並べてあるお家があるんです。
私はここを「街角私立博物館」とよんでときおり訪れて思い出を楽しんでいるんです。どんな方がこんなことをなさっているのか私は知りませんし、また家の中にはどんなものが保存されているのかも知りません。でも私はときおりここを訪れてしみじみと遠い昔を懐かしむのです。
陳列されている主な物を見てみます。まず右端しの部分です。
右から商売繁昌の店に飾られていたであろう大きな陶器像の「布袋様・招き猫・ガマガエル・大黒様・タヌキ」が並んでいます。
スカートをはいた大きなお耳のネズミのキャラクターはミッキーマウスですよね、私の生まれた1927年(昭和2年)の翌年アメリカの銀幕に登場したんだそうです。
そして居酒屋さんの看板「鮭鮫鱈鯉」です。私はてっきり魚屋さんの看板と思っていて笑われました。お恥ずかしいです。
そして左端の部分です。
右下に馬鍬(まぐわ)が見えます。馬に引かせて田植え前の代掻きに使ったんです。私は小学校4年の頃から鼻取りと言って馬の口に竿をつけて田んぼの隅々まで代掻きが出来るように馬を誘導しました。代掻きをする祖父に「さんたろうは上手だ上手だ」とおだてられて得意になって鼻取りをしました。素足で田圃をあるくんですよ。あの頃の百姓の足は象の足のように皮が厚くなっていて砂利道でも平気で素足であるけたんです。でも鼻取りが終わっておかにあがると1~2匹の蛭(ひる)が吸い付いていました。痛くもかゆくもないんですけど蛭を取ると赤い血が流れました。でも慣れて平気でした。
大小2台の馬橇があります。もちろん当時は大型除雪車などありません。踏み堅められた道を馬橇が運搬に使われたんですね。
写真でははっきりしないんですけど、手押しの除草機が数台並んでいます。先に車のついたこんな手押し車です。ネットから写真を借りました。
田植えか終わって苗が活着すると私たち昭和初期の百姓はみんなこの除草機をおして中耕をかねて除草をしたのです。除草機ころばしが終わると今度は田圃の中を這いつくばって手で除草をしたのです。暑い陽射しの中汗いっぱいの顔を拭くことも出来ず苗の葉先が目に入って痛いし、手も疲れて痛くなります。苦しい作業でした。でもみんな苦しさに耐えて仕事を続けました。
この家の脇の壁には古い時代の看板を集めたコーナーがありました。
ヤンマーバインダーっていうのがありますね。バインダーって言うのは当時にとっては素晴らしい革命的な機械でしたエンジンのついた機械で稲を一条ずつ刈り取って束ねる機械でした。家の鍬頭(くわがしら)の人がこの機械を使って稲を刈り、私らは鎌で刈り取って束ねていました。バインダーは手刈りの何人分も刈り取って束ねるので素晴らしい機械が出来たと思っていました。
たばこの看板がありますね。当時は煙草販売の許可を貰った家だけがこの看板をつけて煙草販売をしていました。なんとかなんとか煙草屋さんの看板娘なんて歌があったような気がします。
そしてあたしの一番懐かしかった看板はこれです。箱形の懐中電灯です。後ろの蓋を開けて単1の電池を2個入れてつかいました。
私はこの看板を見ると80年ほど昔、つまり10歳前後の子供の頃のホタル狩りの夜を思いだすのです。初夏ホタルが飛び交う夜私たち子供はみんなでホタル狩りをしました。街灯などありませんから夜は本当に真っ暗なんです。お金持ちの子供は最新式の箱形の懐中電灯を持って、わたしたち普通の家の子供は丸形の提灯にろうそくの火を入れてホタル狩りに出ました。箱形の懐中電灯の光はまるで稲妻の光のように明るく輝いて私には見えました。うらやましかったんです。
あの頃は小さい光の平家ホタルと大きな光の源氏ホタルがいっぱい飛び交っていました。捕ってきた蛍を蚊除けの蚊帳の中に放して灯りを消して楽しみました。そういえば私が小学校低学年の頃の古里小立岩集落には電気がはいってなく石油ランプでした。
街角博物館は一見ガラクタが無造作並べてあるだけのように見えますけど私にとっては懐かしい思いでが次から次から湧いてくるとっても大事な博物館なんです。書きたいことがいっぱいで目をつむるとウルウルしてきます。でも疲れました。今日の夜はこのへんで止めようと思います。
駄文をここまで読んでくださった方がもしいらしゃったら嬉しくて厚く御礼申しあげます。ありがとうございました。