続・切腹ごっこ

~当ブログは更新を終了しました~

龍野城

2011-12-03 | ★城跡探訪

 先日、兵庫県たつの市の龍野城に行ってきた。たつの市には別の用で行ったんだけど、すぐ近くにあったので寄ってみた。

 豊臣秀吉の家臣、蜂須賀氏や京極氏、脇坂氏などが在城した城。背後の山上には山城も存在したようだが、近世になって破棄され山麓の本丸御殿のある廓だけが残ったそうだ。
 本丸御殿や隅櫓、埋門などが復元されている。11月には3日間限定で発砲スチロール製の天守が建てられたそうだ。
   
 右端の写真が、たつの市立歴史文化資料館横に建設中の天守。発砲スチロール製天守建設の話題をあらかじめ知っていれば、建てられている3日間に行ったんだけど…。ちょっとタイミングが早かった。
   
 播磨の小京都とも呼ばれるたつの市の名産品は、「揖保乃糸」という素麺やヒガシマル醤油が有名だ。童謡「赤とんぼ」を作詞した三木露風の故郷でもある。

揖保乃糸素麺
やぎ
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ヒガシマル醤油 うすくちしょうゆ 1.8L
ヒガシマル醤油
ヒガシマル醤油

天空の白鷺(後編)

2011-10-29 | ★城跡探訪

 前回の続き。

 素屋根の8階から階段で7階へ。
  
 最上階の壁面の漆喰も剥がされている。エレベーターを使って1階へ下りる。6階から2階で見学することはできない。
  
 1階に展示してある模型。
   
 「天空の白鷺」から外に出て、天守群の内部へ。
   
 数年ぶりに大天守内部に入った。天井が高い。彦根城や松江城など、数年以内に訪れた他の現存天守と比べて、姫路城の天守の規模の大きさがよく分かる。以前展示されていた甲冑や古文書などは搬出されていて、見学することはできなかった。
   
 天守群内部から出て、小天守周囲を歩く。デジカメの充電が切れたのでスマートフォンで撮影を続ける。
  
 姫路城を出て、城の北西にある小山、男山へ。
  
 一直線に頂上まで登れる階段。久しぶりに階段を上ってて息切れした。頂上には、昔からの施設らしい部分的に煉瓦造りの配水池があった。ここからは姫路城の北西面全体が見渡せる。素屋根じゃなくて大天守を眺めたかったな~ 最後は住宅街の路地から見上げた西の丸の渡櫓。この辺りに住んでる人は日常の風景なんだろうな。

以上、姫路城探訪「天空の白鷺」編でした!

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天空の白鷺(前編)

2011-10-25 | ★城跡探訪

 現在、大規模改修工事中の姫路城。大天守は巨大な素屋根に覆われ、その中で瓦の葺き直しや漆喰の塗りかえをしている。素屋根の一部を利用して改修工事の様子を見学できる施設を「天空の白鷺」という。※姫路城は白い外観から「白鷺(しらさぎorはくろ)城」と呼ばれている。
 姫路城は1年半ぐらい前にも訪れているので、今回は特に「天空の白鷺」と前回行けなかった場所を紹介する。
  
 ↑左端、城内の三の丸広場から見た天守群。こんな感じに大天守が四角い建屋に覆われている。建屋の壁面には大天守の線画が描かれている。天守以外でも至る所で漆喰の塗りかえが行われている。↑2枚目の写真と前回登城の際撮ったほぼ同じアングルの写真と見比べると面白い。
  
 特別公開していた「りの一渡櫓」の内部。各時代ごとに大天守最上階の屋根に飾られた鯱鉾や、甲冑などが展示されていた。明治以降に鯱鉾のデザイン変更がされているのは驚いた。過去のものをできるだけ忠実に再現するもんだと思っていたので。
  
 いよいよ天空の白鷺へ。1年半前はこの天守群東面には入ることができなかった。現在も帯曲輪(通称、腹切丸)へは立ち入ることができない。
   
 エレベーターでまず素屋根の8階へ。普段は間近で見ることができない大天守最上階の屋根を見られる。まさに白鷺の視点で。瓦や鯱鉾等は全て取り払われている。
  
 素屋根8階から西の丸方面を望む。ここは大天守最上階よりも高いので、この景色は素屋根がある間しか見ることができない。2枚目、奥に見えるのは男山と呼ばれる姫路城から目と鼻の先にある小山。高さは姫路城のある姫山と同じくらいか。男山から姫路城を眺めてみたいので、後で登ることにする。

長くなるので、後半は次回に。

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河田
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木製建築模型 国宝 姫路城(白鷺城) 1/100 [199t06301]
PTITS
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熊本城

2011-09-27 | ★城跡探訪

 先日、出張で熊本へ。空き時間使って熊本城を攻めてきた。時間がなかったので西の丸から天主閣周辺を大急ぎで回るのがやっとだった。

 西の丸駐車場から西大手門をくぐって本丸入り口へ。入城口である頬当御門を通って、まず天守を目指す。
  
 ↑左から1枚目、西大手門外から戌亥櫓(城の北西)を望む。水が溜まっている部分はもともと空掘だったらしい。長塀と高い石垣に圧倒される。2枚目は南大手門。これも規模が大きい。3枚目は頬当御門を見下ろす位置にある隅櫓。
  
 本丸入り口から石垣越しに見える大天守。渋いオジサンのような佇まい。2枚目は天守西側の広場から撮ったもの。左側の小天守に登るのは涙を飲んで省いた。
  
 時代がいつ頃のか見なかったが、城下町まで再現された緻密なジオラマ。プロの仕事っぽい。2枚目は昭和35年に天守を外観復元する際に製作された10分の1模型。3枚目は最上階から望む宇土櫓。
   
 大天守、小天守と並んで第3の天守とも呼ばれる宇土櫓。そう呼ばれるだけあって三層五階の大きな櫓で、他の城にあれば天主閣として充分通用するぐらいのもの。
 大天守、小天守は残念ながら明治初期の西南戦争の折に焼失してしまったのだが、この宇土櫓は他の11の櫓とともに加藤清正が創建した当時の姿を留めている。直線的な破風が特徴で、最上階には安土桃山時代の様式である高欄が配されている。
 熊本市の南、現在の宇土市にあった城の天守を移築したという伝承から、こういう呼び名になっているそうだが、近年の調査により最初から熊本城内に建てられたものであることが判明したそうだ。一櫓にしては立派過ぎるという感想から広まった伝承かもしれない。

 最後は宇土櫓最上階から城の西方向、最初にくぐった西大手門と傍の南大手門を望む。
 熊本城は規模が大きく、復元されたものも含めて大きな櫓や長い塀、高い石垣など見どころも多い。今回は城の傍のビジターセンターみたいな所も行けなかったし、次回来る機会には1日かけて城内をゆっくり巡りたい。

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安土登城

2011-06-18 | ★城跡探訪

 日本100名城の51番目・安土城跡に登城してきた。もちろん100名城スタンプもしっかり押してきた。安土信長祭りの日は6月2日の信長の命日(本能寺の変)に近い日曜に開催されるためか、入山料は無料だった。
   
 登城口のある大手道を登る。5メートルぐらい(?)の幅の石段がほぼまっすぐ山の中腹まで続く。宮殿か何かへ向かうような広くて登りやすい大手道。城は攻め難く作るもの、という常識を無視した作りになっている。この大手道の両脇には羽柴秀吉や前田利家などの家臣の屋敷跡が並んでいる。
  
 石段の所々に、仏様が彫られた石が単なる石材として使われている。比叡山や本願寺と戦った信長だからできたことなのか、当時の人はわりとドライだったのか。中腹には信長が創建した総見寺がある。ここもちょっと覗いて見ればよかったな。
 大手道は天皇行幸のために作られたもので普段は使わなかった、とかっていう説もあるとか。それにしても息が切れる。
  
 石垣だけとは言えけっこうキレイに城跡が残っている。だいぶ発掘&整備したのかな?
 今度はブッダの足型を彫った仏足石が。これも石材として使われていたようだ。
  
 そして、いよいよ天主台跡へ。巨大な礎石が規則正しく並んでいる。この上にあの華麗な天主が聳えていたのか。伊勢の安土桃山文化村には復元した安土城天主があるそうな。
  
 二の丸跡にある信長の霊廟をちょっと覗いて、帰路はもともとの総見寺があった西の山腹へ。三重の塔が残る境内からは西湖が望める。
  
 石段をひたすら下っていくと総見寺の山門が現れる。その後はなだらかな山道を山を巻くように歩いていくと大手道の下の登城口に戻ることができる。祭りの影響で観光客が多かった。もっと静かな日に登ってみたかった気もする。
 すぐ近くにある観音寺城も100名城の一つだった。またこの辺に来る機会があれば登ってみようっと。

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赤穂城総登城

2011-01-10 | ★城跡探訪

 兵庫県赤穂市にある赤穂城に行ってきた。
 播州赤穂、赤穂浅野家…小さな地方都市でありながら赤穂という地名は知れ渡っている。赤穂城が日本100名城に選ばれたのも、「忠臣蔵」(元禄赤穂浪士事件)という物語に関係するという歴史文化的な意味が大きかったんじゃないかと思う。
 そういう言い方をすると城跡自体はたいしたことないみたいな感じになってしまうが、けしてそんなことはない。現存する櫓こそ無いが、石垣や堀は本丸・二の丸・三の丸を含めた広い範囲に残り、公園としてきれいに整備されている。
   
 JR山陽本線・播州赤穂駅の駅前に大石内蔵助像が立っている。駅から南へ歩いて15分ぐらいで大手門に到着。左から2枚目、昭和30年に大手隅櫓が復元された。三の丸内には大石内蔵助ら赤穂藩の上級武士たちの屋敷があった。右端の写真、殿中松之廊下の刃傷と内匠頭の即日切腹の急報を伝えた早駕籠が着いたであろう大石家の表門は現存している。
   
 大石家の屋敷があった場所には、大石神社とそれに付随する義士資料館などがある。明治時代に創立した大石神社には、大石内蔵助以下47士+討ち入り前に切腹して果てた萱野三平のほか、浅野家三代の城主と、その後赤穂城主となった森家の先祖である森蘭丸(!)などが祭られている。47士にちなんで“大願成就”の御利益があるそうな。
 義士資料館には、内蔵助の大小や堀部安兵衛が着た討ち入り装束などの他、忠臣蔵の映画や時代劇撮影の際神社を訪れた主役級の俳優らの写真が展示されていた。
   
 いよいよ本丸へ。手前の小さい高麗門と奥の櫓門から成る本丸門は平成になってから古写真を元に復元された。本丸内には、一度も天守が建てられることは無かった天守台が現存し、御殿の間取りと庭園が復元されている。
   
 赤穂城の特徴は“塁線に折れを多用した縄張り”(防御の隙を無くす工夫)と言われている。さらに左から2枚目の刎橋門(かつては可動式の橋が架かっていた)や、3枚目の珍しい孤を描いた石垣、4枚目の水の手門と呼ばれる船着き場跡など見どころがたくさんあった。
   
 帰り際に寄った赤穂市立歴史博物館には、赤穂城の模型が展示してあった。左から2枚目、上から眺めると本丸を囲む内堀が星型のようになっている(折れを多用)ことがよく分かる。赤穂城の外郭は半分以上直接海に面しており、大船から小舟を介して荷を運び入れる船着き場がいくつかあった。
 右端の写真手前、大手門の傍にあるのが大石内蔵助の屋敷。お家取りつぶしになると、代々の自分の家も引き払わなければいけないっていうのは辛かっただろうな~ 会社が倒産して社宅に住めなくなる…みたいな感じ? 何代前から住んでても無料賃貸みたいな感じだったのかな。藩士ってやっぱり土地に所属するんじゃなくて大名家に所属するんだな。

※この他の写真はフォトアルバムに。

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よみがえる日本の城 (4) (歴史群像シリーズ)
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福知山城初登城

2010-11-23 | ★城跡探訪
 前回の続き。

 福知山城は、京都府福知山市の市街地の中央に位置する小高い丘の上にある平山城。1580年ごろ丹波平定の拠点として明智光秀が築城したのが始まりとされる。
 天守は明治8年に取り壊され、築城当時から現存しているのは本丸の中心部分の石垣と銅門続櫓(あかがねもんつづきやぐら)のみである。昭和61年には外観を復元した天守が建てられた。本丸の石垣のすぐ下まで民家が迫り、福知山城公園として整備されている面積は狭い範囲に限られている。
  
 登城口から復元天守が建つ高台までは急な坂を登る。しばらく登ると、塀の上に模擬櫓門や復元天守が見えてくる。
  
 明智光秀が築城した当時の姿を復元した望楼型の福知山城天守。自分が好きなタイプの天守だ。どことなく安土城天守に似ている部分もある。連結している小天守との屋根の重なりもかっこいい。天守内の郷土資料館が閉館時間になっていたため入ることができなかったのが残念だった。
  
 1枚目、深さ50メートルと、城郭内にある井戸としては日本一深い「豊磐井(とよいわのい)」。2枚目、銅門番所(銅門続櫓)は本来建っていた場所から、大正時代に現在ある本丸に移築されたことによって現存している唯一の建造物。
 3枚目、本丸からの福知山市街の眺め。
  
 福知山城公園の登城口付近には、立派な櫓風の建物があるが、これは美術館。その隣に大きな橋が架かっている。

 現存する遺構が少ないためか、福知山城は日本の名城100選には入っていない。ちなみに京都府で100選に入っているのは二条城のみである。

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篠山城再攻略

2010-11-21 | ★城跡探訪

 丹波の国は篠山の、篠山城と福知山城に行ってきた。篠山城にはちょうど3年ほど前に行ったことがある。

 篠山城は1609年に築城された、親藩である松平氏の城。縄張奉行に藤堂高虎(築城の名手)、普請総奉行に池田輝政(姫路城を作った人)を迎えて行われた贅沢な天下普請で、わずか1年足らずで完成したという。直線と直角を多様した縄張りの、典型的な徳川の城だ。
  
 篠山城跡には水掘と石垣がよく残っている。天守や櫓や門のような建物は明治の廃城令で取り壊されてしまった。唯一取り壊しを免れた大書院も昭和19年火災により焼失してしまった。3枚目の写真は平成12年に復元された大書院。
  
 本丸(城の中心部)の中の殿守丸と呼ばれていた一角には神社があり、2人の城主が祭られている。
 1枚目の写真、御神木(?)の切り株に屋根が乗っかっている。2枚目、真っ赤な紅葉の落ち葉が血の海のようになっていた。3枚目、本丸南東の角に天守台はあるが、一度も天守が建てられたことはない。天守が一度も建てられたことがない城はけっこう多いんだけど、なぜかそんな城に観光目的の模擬天守が建てられたりすることもある。
  
 復元された大書院の中には、復元模型も展示されていた。復元模型を眺めるのも城巡りの楽しみの一つ。篠山城には、写真3枚目の手前に見えるコの字型の水堀と土塁で形成された「馬出(角馬出)」と呼ばれる防御施設が今でも残っている。
 大書院に展示してあった資料の中に、2007年正月に放映された「白虎隊」のロケが篠山城で行われた時の写真を発見!会津が新政府軍に降伏するシーンの撮影に使われたそうで東山紀之や山下智久も来たらしい。もっと目立つように展示すればいいのに…!
  
 城の裏口(?)から入ったので、玄関から出るかたちになってしまった。写真3枚目の右端の辺りに城の玄関である大手門があった。

 昼に篠山市街で食べた篠山名物(?)「デカンショうどん」。味噌仕立てで根菜やキノコがいっぱい入っていたが、肉は猪じゃなく豚だった。篠山のメインストリートは観光客でごったがえしていた。今回は廻らなかったが、城周辺の武家屋敷や商家が残る地区では、最近水戸黄門のロケも行われたそうだ。

 これ以外の写真はフォトチャンネルにまとめた
 長くなるので福知山城の写真は次回に。

よみがえる日本の城 (19) (歴史群像シリーズ)
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るるぶ城崎 天橋立 但馬 丹後 丹波’11 (るるぶ情報版地域)
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高知城攻め

2010-11-07 | ★城跡探訪

 先日訪れた高知城の写真をフォトチャンネルにまとめた。知り合いと一泊二日の高知市内観光に行った時のものだ。1時間半ぐらいしか時間を割けなかったので、ただ天守まで登って降りてくるだけになってしまったのが残念だった。自分1人、もしくは城好きな人と行くならもっと時間をかけて隅々まで歩きまわっただろうけど。

  

 高知城の追手門は江戸中期に焼失したが、その直後再建され現在に至る。城の表玄関に相応しい立派な追手門だ。姫路城には時代劇の撮影にも使われる菱門という大きな門があるが、それ以上に迫力があるように思えた。

     

 今回は石段を上って三の丸、二の丸、本丸と通っていくルートしか歩けなかったが、次行く機会があれば城の裏手を廻るルートも歩いてみたい。
 高知城には天守とともに本丸御殿の建物も現存している。両方現存する城は他に無いらしい。本丸御殿は規模としては小さく、普段城主はもっと広い二の丸御殿で暮らしていたんじゃないだろうか。本丸御殿は“親父の書斎”みたいな印象をうけた。

   

 天守内部には、築城当時を再現した高知城の模型や、全国の城郭の写真が展示されていた。天守は、追手門などともに江戸中期の大火で一度焼失する。その直後再建されるが、江戸中期建造の天守にしては比較的古風な造りの望楼型天守だ。それは初代藩主山内一豊が江戸初期に建てた当時の天守を再現したためと言われている。

 四国の城郭は魅力的なものが多いので、また四国の城巡りをしてみたい。

高知城 (PHPムック)
西ヶ谷 恭弘,西ヶ谷 恭弘
PHP研究所
高知城を歩く
岩崎 義郎
高知新聞社

姫路城(平成の大修理中)攻め 後篇

2010-06-11 | ★城跡探訪
 前回の続き。

 大天守と連結した乾小天守、西小天守の脇麓を通って、大天守の麓へ。明治時代に焼失してしまった本丸御殿があった備前丸という郭だ。現在備前丸には大天守解体修理のための足場が組まれ始めている。そのため足を踏み入れることができるのは残念ながらここまで。大天守への通路は封鎖されていて登閣することはできない。
 それにしても、規模といいその姿といいホントにカッコイイ天守閣だと思う。
  
 備前丸を後に、もと来た道を戻り始める。修理中じゃなければ同じ道を通らずに入り口まで戻ることもできるのだが。
 天守群の北側には塩や米などを保管しておく蔵がある。その多門長屋は全体にゆるやかな孤を描いている(↓左端の写真)。歴代城主の家紋を刻んだ瓦を集めたオブジェも置いてあった(右端の写真)。
  
 姫路城には大天守・小天守の他にも本当に多くの櫓や塀が残されている。天守群が目を引くせいであまり観光客には注目されていないかもしれないが、どの櫓にもそれぞれの特徴があって形も美しい。
 ↓左から3枚目は鉄砲狭間から見える竹林(?) 
    
 ↓左端の門の向こうには「腹切丸」と呼ばれる一角があるのだが、現在は通行止めになっている。載せたい写真がたくさんあり過ぎて、なんかグダグダした感じになってしまったけど、姫路城の魅力を少しでも感じてもらえただろうか?
 とにかく見どころがたくさんあって、城郭好きなら1日中うろうろしていても飽きないと思う。最後の写真は近世と現代建築の融合。資材などを運ぶエレベーターなのかな?
    
 大天守を覆う素屋根ができあがったら、修復作業を見学できるルートが作られるらしいからその頃にまた来たい。

腹切りラヴァーズ (バンブー・コミックス 恋パラコレクション)
天野 ちぎり
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幽剣抄 腹切り同心 (角川文庫)
菊地 秀行
角川書店

姫路城(平成の大修理中)攻め 前篇

2010-06-08 | ★城跡探訪
 国宝&世界文化遺産、姫路城に行ってきた。現在は改修工事の準備中のため、入れない区域も多く天守閣にも登れない。それでも外国人を含め観光客がたくさんいた。

 まず近くの商業ビルの屋上から姫路城のある姫山を望む。姫路城は彦根城などと同じ平山城だ。こうやって見ると小高い山全体が城郭と化しているのがよく分かる。天守の周囲には工事用のクレーンが見える。

 内堀にかかる橋を渡って↓左端の写真の追手門へ。追手門は明治期、城が陸軍に接収された時に取り壊されてしまったが、その後現在の形に再建された。また、陸軍の歩兵第10連隊が姫路城に設置される際、三の丸(今は芝生の広場になっている)にあった御殿その他は取り壊されてしまった。もったいことだ…。
 大人400円の入場券を買って城内へ。↓2番目の写真は時代劇の撮影にも使われることがある菱の門。現在に残る門の中では一番立派な門かも。
 ↓その門の中に改修工事費用の募金箱が設置されていた。「“平成の姥が石”愛城募金募集中」という幟付き。羽柴秀吉が現在の姫路城の原型になった城を建てた際、老婆が石垣に使ってくれと自分の石臼を寄進したという逸話があるのだ(その石は今でも石垣の一部として残っている)。もちろん城郭ファンとして募金してきた。
 ↓右端は菱の門から天守閣を見た写真。まだ天守閣は遠い。
   
 西の丸へ。↓左端の写真、「暴れん坊将軍」や「大奥」なんかで“江戸城!”として出てくるのはこの辺りから撮った天守だと思う。実際にこの西の丸庭園では撮影もよく行われる。今は庭園になっているが、もともとは千姫(大坂夏の陣で夫である豊臣秀頼と死別した後、城主であった本多家に嫁いだ)が住んだ屋敷があった。
 その西の丸を百間廊下とも呼ばれる渡り櫓が取り囲んでいる。↓写真の通りひたすら長い。内部は学校の廊下と教室みたいな配置で多くの小部屋があり、千姫に仕えた女中たちが住んでいたという。↓右端はその一室から天守方向を望んだもの。位置的には菱の門より天守から遠い。
   
 続いて二の丸へ。本格的に天守を目指す。↓左端の写真のこの坂も「暴れん坊将軍」のエンディングで使われたはず。だんだん天守が近くなってきたけど、石垣や塀に遮られてこの先のルートが想像できない。
 ↓途中には右端の写真のような屈んで通らないと頭を打つような通路(門)もある。敵が攻め込んだ時には、この天井を落として敵を生き埋めにすると同時に通路を閉鎖するという。
  
 ↓やっと天守の間近まで来た。小天守と大天守が重なり合って贅沢なアングルだ。

 ちょっと長くなるので次回に続く

1/380 DX城 姫路城
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姫路城―世界に誇る白亜の天守 (歴史群像・名城シリーズ)
学習研究社
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明石城攻略

2010-06-02 | ★城跡探訪
 兵庫県明石市にある明石城に行ってきた。JR明石駅の目の前にあって、追手門まで徒歩1分。堀で囲まれた広い敷地の大部分は公園として整備されており、野球場や陸上競技場やボートに乗れる広い池がある。桜の名所にもなっているようだ。
 本丸、二の丸、東の丸には高い石垣が残っている。天守台はあるが、もともと天守が建てられたことはなかった。その代りとして、本丸の四方に艮(うしとら・北東)櫓、巽(たつみ・南東)櫓、坤(ひつじさる・南西)櫓、乾(いぬい・北西)櫓が建てられ、現在でも三層の巽櫓・坤櫓が残る。自分が登城した時には坤櫓の中を公開していた。中には屋根瓦等が雑然と展示されており、展示物(?)が入れられた段ボール箱もその辺に積まれたままになっていた。
 奇数月は坤櫓、偶数月は巽櫓を公開しているようだ。
         
 ↓下の写真、巽櫓の向こうに微かに明石海峡大橋が見える。本丸からは淡路島まで望める。現在残る二つの櫓は阪神淡路大震災で大きな被害を受けたが、江戸時代初期の建造当時の方法で修復された。
         
 建物として残るのは二つの櫓のみだが、石垣が思ったより広範囲にしっかり残っている。おかげで、もともとはここに櫓があったんだろうか、門があったんだろうかと想像を巡らせて楽しむことができた。

 会津若松の鶴ヶ城の天守が今改修工事中らしい。白虎隊の少年たちが見上げていたもともとの屋根瓦は赤瓦だったらしく、全面的に葺き替えるそうだ。改修が終わったら、また行ってみたい。城のプラモの屋根の色も変えないといけないな。
 平成に入ってから再建・改修された天守や櫓は昭和30年代の再建ラッシュ時の鉄筋コンクリート製とは違って、本物志向というか何というか、忠実に往時の姿を復元しようとしている。基本的に木造で再建しつつ耐震強度も上げるとなると、手間とコストが余計にかかると思うが、これはとても良いことだと思う。新しく再建された城のプラモとか出ないかな~

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大坂皐月の陣 その弐

2010-05-06 | ★城跡探訪

 前回の記事の続き。
 昭和6年に復元された現在の大坂城天守は、豊臣秀吉が建てた天守の外観を模してある。しかし、それは大坂夏の陣後の江戸時代初期に大改修された土台の石垣の上に建っているのだ(豊臣秀吉が建てた大坂城の天守の位置とは少し異なるらしい)。
 と、ここまででもちょっとややこしいんだが、本当はさらにややこしい。実は復元された天守の下から4層目までは徳川時代の天守を模していて、一番上の5層目のみ豊臣時代の天守を模して作ってあるらしい(ウィキペディアによる情報)。確かに豊臣時代の大坂城天守は屏風等を見ると必ず上から下まで壁も屋根も黒っぽい。下の写真のとおり今ある復元天守は白壁に緑色の屋根なのだ。←このことはしばらく前からおかしいな~と思っていた。
 …しかし下から4層目までの部分も、屏風や絵図と見比べると徳川時代の天守とも破風の形等が若干違うようにも見える。まぁ屏風絵がどこまで正しいのかは疑問だけど…。
 ちなみに豊臣時代の初代天守や徳川時代の二代目天守と比べて、再建されてから80年近く経つ現在の三代目天守の方が実は一番長い間存在していることになるらしい。

 城の南側には豊臣秀吉を祭神(他に息子秀頼と弟秀長も)としている「豊國神社」があった。境内には写真のような秀吉の像が立っている。秀吉を祭る神社はこの他にも全国各地に存在する。

 以下は左から大手口の多聞櫓、その隣の千實櫓、隅櫓の一つ六番櫓。これらは江戸時代初期に建てられ、幕末の混乱や戦災やジェーン台風なんかの度に改修を重ねて今に至っている。重要文化財。
      
 なぜか写真に撮ってなかったけど、大坂城の一番の魅力は巨石を使った石垣だと思う。縦横数メートルもあるような巨石をほとんど隙間なく組み合わせたクオリティの高い石垣には感動した(左端の多聞櫓の写真に写ってるような石垣)。

 GW中ということもあって、大坂城公園内は観光客でごったがえしていた。↑の写真のような露天や土産物屋、よさこいソーランの催し物や、着物にちょんまげ姿の大道芸人なんかもいて面白かった。外国人観光客も多かったけど、大坂城に来てどんな感想を持ったんだろう?聞いてみたいと思った。

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大坂皐月の陣

2010-05-05 | ★城跡探訪
 大阪城に行ってきた。実は今まで大坂城には一度しか来たことがない。それも天守閣にも入らず城内を歩いて突っ切っただけだったし。復元した城だし、あんまり重要視してなかったからだ。でも今回行ってみてその大きさと天守閣内部の展示の豊富さにはちょっと感動した。
 JR東西線・大坂城公園前駅に着くと若い女の子がいっぱい。「チケットゆずって下さい」っていうプラカードを掲げてる子も。どうやら大坂城ホールで、ジャニーズのグループのコンサートがあったようだ。

 ファンの波をかき分けかき分け進み、城の北方にある青屋門をくぐって外堀を渡り城内へ。そして内堀にかかる極楽橋を渡って山里郭と呼ばれていた一角へ。この辺りは大坂夏の陣で豊臣秀頼や淀殿たちが自害した場所らしい。ただし今の大坂城は夏の陣後に徳川幕府が大改修したものなので、だいたいこの辺りという感じなんだろうけど。(写真左は青屋門、右は本丸東側の石垣)
   
 そこから階段を上っていくと巨大な天守の麓に辿り着く。この天守閣は昭和6年に一般市民の寄付で再建されたものだ。太平洋戦争末期の大阪大空襲では被害を免れたので、戦前に建てられたものだが残っている。しかし徳川時代から残っていた櫓のいくつかが全壊してしまったりしている。(左、北西麓から見上げた天守、右最上階から南方面を展望)
   
 天守閣の内部は歴史博物館になっていて、豊臣秀吉の一生や大坂城の歴史、戦国武将の甲冑や肖像画・書簡、豊臣時代と徳川時代の大坂城の模型等が展示されている。
 中でも「大坂夏の陣図屏風」の解説は鳥肌が立つ思いがした。屏風の右篇は大坂城に攻め込む徳川方と迎え撃つ豊臣方の武将たちの姿が緻密に描き込まれている。対して左篇は、大坂城から逃げ出す敗残兵や女たちの姿と、それらの人々を鉄砲で狙い撃つ兵士や金品を奪う追い剥ぎの姿が描かれている。手を合わせて命乞いする者、女を後ろから襲う者、子供を抱えて川を渡る者、奪った金品に腰かけふんぞり返る者、裸同然の姿で手をつないで逃げる者、混乱する情景が屏風いっぱいに描き込まれている。
 NHKの歴史番組では、この屏風を“戦国のゲルニカ”と呼んでいた。徳川方として参戦した黒田長政が描かせたとされているが、長政はこのような地獄絵図が二度と展開されないように、太平の世になっても忘れてしまわないようにとの思いから、武将同士の戦いと同じ面積を使って逃げ惑う人々の姿を描かせたんじゃないだろうか。(歴史番組の受け売りみたいになってしまったけど^^;、本当にそんな感じがした)

次回の記事に続く⇒

大坂城―天下一の名城 (日本人はどのように建造物をつくってきたか 3)
穂積 和夫
草思社
大坂城―天下人二人の武略燦然 (歴史群像・名城シリーズ)
学習研究社
学習研究社

岡山城で白虎隊

2010-04-11 | ★城跡探訪
 初めて岡山城に行ってきた。あんまり時間が無くて郭内をゆっくり歩けなかったのが残念だったけど、思わぬ収穫もあった。

 現在の形の岡山城は1597年、豊臣五大老の一人宇喜多秀家が築城(大改修)した。別名「烏城」とも呼ばれるとおり黒い天守閣を持つ城だ。残念ながら昭和20年の空襲で天守は焼失してしまった。岡山城や名古屋城、広島城などのように空襲戦災で失われた城郭のことを思うと本当にもったいないと思うし残念でならない。
 空襲で焼失した天守は昭和41年に鉄筋コンクリート造りで再建された。さらに平成8年に改修され、金箔瓦が再現された。内部には幅が広くて登りやすい階段とエレベーターが完備されており、お土産屋さんや食事処まである。
 岡山城天守の一層め二層めの形は単純な方形ではなく、信長が建てた安土城に似ている。見る角度によって印象もかなり変わる。また近々時間をかけて見て回りたい。

      

 今(3月20日~5月9日まで)、「幕末の動乱・会津と長州そして岡山」という特別展示をしている。会津出身であり維新後岡山区長などを歴任した手代木勝任という人物の資料を中心に会津藩・長州藩関係する書や絵図などを展示していた。その中に一番旧い時期に描かれたといわれる「白虎隊自刃之図」があった。縦長の構図で掛け軸の形になっている。
 現在、白虎隊市中二番隊のうち自刃したのは20名(うち一名は蘇生)といわれている。しかし明治初めごろは自刃し死亡したのは16名だと思われていた。しかし、16名に追いついて同じ場所で自刃した1名と、場所は少し離れているものの同じように自刃した3名がいたことが分かり、それらを合わせて20名となった。
 展示されていた「白虎隊自刃之図」は明治初めごろに描かれたためか15名の隊士のみが描かれている。数名はすでにもろ肌脱ぎになり白い腹に、あるいは喉に刃を突き立てている。真っ赤な血とその中に見え隠れする白い腸が鮮やかだ。腸まで出ているのはたくさんある自刃図の中では凄惨な部類に入るんじゃないだろうか。時代が下るにつれてだんだん刺激の少ないものになってきているような気がする。
 時間があればもっとじっくり観察したかったんだけど…。

少年白虎隊 (人物文庫)
中条 厚
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岡山城―古式伝える漆黒の烏城 (歴史群像・名城シリーズ (12))
学研
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