先週の「歴史秘話ヒストリア」で徳川家康を取り上げていた。信長や秀吉と忍耐強く付き合って、時に降りかかる危機を乗り越えて…みたいな内容だった。
その中で、嫡男松平信康切腹のエピソードも。信康のことは、このブログでも何回となく書いるが、一応簡単な説明を。
松平信康は、家康と正妻・築山殿(今川義元の姪)との間に生まれた長男。振舞いが粗暴で問題児という話もあれば、文武ともに優れ将来を嘱望されていたという話もある。今回の大河「江」でもチラッと出てきたが、設定としては後者のようだ。
織田信長が桶狭間の合戦で今川義元を討った後、家康は名をそれまでの元康(“元”の字は、仕えていた今川義元の一字をもらったもの)から家康に改名し今川家とは縁を切る。その後織田家と同盟し、嫡男には信長の一字をもらって「信康」と名付ける。さらに信長の娘・五徳(徳姫)を信康の嫁に迎える。
当初は対等な同盟だったが、織田家の勢力拡大に伴って両家の間に格差ができてくる。そして嫡男信康が20歳になった頃、信長から「信康を殺せ」という命が下る。結局家康は信康を幽閉した後切腹させ、その母である正妻・築山殿も斬る。
なぜ信康が切腹させられたのか、その理由には諸説あるようだ。信康と築山殿が、信長の宿敵武田氏と内通していたから…。嫁である五徳が、信康との不仲を父・信長に訴えたから…。優秀な信康に信長が脅威を感じたから…。信康と家康が不仲だったから…。等々。
理由はともかく信康は満20歳の若さで切腹。介錯にあたったのは服部半蔵正成(「忍者ハットリくん」の名の由来の武将。後に伊賀者を統率したが本人は忍びではない)。一説には悲痛の余り介錯仕切れず、別の者が介錯したとも言われる。
嫡男を失った家康はその後、関ヶ原の合戦に秀忠(家康の三男。江戸幕府二代将軍)が遅参した折、「信康が生きておれば…」と嘆いたとも言われる。しかし、家康が忌み嫌ったと言われている六男・忠輝の顔を見た家康が、「恐ろしい顔だ。三郎(信康)の幼い頃に似ている」と言ったという話もある。家康は信康のことを買っていたのか、嫌っていたのか…。
歴史秘話ヒストリアの、信康切腹の再現シーンでは、白装束の武士が短刀を腹に突き立てていた。しかし見た感じ少し位置が高いように見えた。
高い位置に突き立てるのを見るといまいちそそられない。その位置から下へ切り下げるというのなら別だけど。下腹部のようにある程度肉の厚みがある場所に鋭利な刃がズブズブと沈み込んでいくから、そそられるのかもしれない。
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戦国―織田信長・伊達政宗・真田幸村・上杉謙信 (コミック版NHK歴史秘話ヒストリア) |
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リボルテックヤマグチ No.94 戦国BASARA 徳川家康 |
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