続・切腹ごっこ

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経過報告5

2012-02-15 | ★男の切腹+グロ

切腹トランプの制作経過報告5。

 21枚目。満月が照らす竹林の中、ワイシャツ姿の黒髪長髪の青年が己自身を介錯している。腹はすでに切り開かれ、ハラワタがはみ出ている。両手で大刀を握り、己の首を引き切ろうとしている。
 シチュエーションがよく分からないけど、何か設定を付けたいな。

 22枚目。拷問部屋。拷問器具や部屋全体が赤黒く見える。これは照明のせいなのか、それとも…。その中で半ば寝そべるような格好で青年が腹を切っている。裂けた腹からハラワタを掴みだし、指先で触感を楽しむように弄ぶ。そういえば、青年の表情からはすでに正気が失われている。
 背景の拷問器具はイイ感じに描き込めた。人物はまだまだ。

 23枚目。ここは大きな聖堂か。暗い空間を照らすいくつかの燭台。下から照らされた少年の顔は端正ながら虚ろ。血の気は失せている。胸の高さまで掲げられた両手には山盛りの内臓。少年は自らの内臓を何に捧げようというのか。
 少年の表情が気に入らない。もっとアニメちっくにしようかな。

 24枚目。敷き詰められるように床に散らばる一万円札。仰向けに倒れた青年の腹をもう一人の青年が切り裂いている。腹を縦に切り裂かれた青年は、なぜか微かに恍惚の表情を浮かべている。
 2人のシャツの色を何色にしようかな。ストライプ柄にしようか。

 25枚目。SMクラブだろうか。性別もよく分からない人間たちが裸で絡み合う、その中に、ワイシャツ姿の青年が座っている。腹に突き立てた短刀を握ったまま、上を見上げた表情は快感に満ちている。その顔にメガネにネクタイに浴びせかけられる大量の精液。
 とにかく大量の精液を浴びせたい。

全50柄ワイシャツ No.30(白地 細ストライプ)メンズ長袖ワイシャツ M
クリエーター情報なし
メーカー情報なし
図説 拷問全書
秋山 裕美
原書房

武士道における「切腹」

2012-02-09 | ★レビュー(映像)

 ETV(NHK教育)で放送中の「100分de名著」。一度は読んでみたいとは思っているけど、なかなか手が出ない名著の内容を、25分×4回シリーズ=100分で分かりやすく紹介しようという番組。これを見れば読んだような顔をして蘊蓄を語れるヨ!みたいな。

 これまでマキャベリの「君主論」や、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」などを紹介してきたが、今回は新渡戸稲造の『武士道』。その現代語訳を書いた山本博文氏が解説する。以前、山本氏の「切腹・日本人の責任の取り方」という著書を読んだことがあり、感想も記事にした⇒


 昨夜、「武士道」の第2回「名誉・日本人の責任の取り方」が放送された。「武士道」の中で、新渡戸は「切腹」をどう説明しているのか。

 16世紀・大航海時代に日本にたどり着いた西洋人(キリスト教徒)たちに「切腹」は、野蛮な行為として受け止められたはずである。しかし新渡戸は、切腹は決して野蛮な行為ではなく法令上も礼節上も認められた行為で、武士たちはこれを行うことにより自らの罪を晴らし名誉を回復し、また友を救うこともできた、と説明する。
 「切腹」の例として若い三兄弟が切腹する話を紹介している。
 兄弟は父の仇(この仇というのが、確か徳川家康だったはず)を討とうとしたが果たせず、捕らわれてしまう。しかしその勇気に免じて切腹を許される。長兄の左近(確か20代前半)が末弟の八麿(8歳)に「見届けてやるから、先に腹を切れ」というと、八麿は「自分は切腹の仕方を知らないから、兄上たちのを見て同じようにします」という。そしてまず左近が、次に次兄の内記(10代後半)が手本を見せ、兄たちの介錯を見届けた八麿は立派に切腹して果てた…。

 武士は幼い頃から、死を恐れず主君の目の前で討ち死にすることこそ名誉だと教えられる。しかし、その名誉を得るために些細なことで切腹することが武士の中に広まることもあり、新渡戸はそれを批判した。「生が死よりも怖ろしい場合は、あえて生きることが真の勇気である」と。
 
 面白かったのは、「武士は刀を抜いた以上、相手を必ず斬らなければいけない。それに失敗した場合は、腕が未熟であることを恥じて切腹する。また見事成功し相手を斬った場合も、喧嘩両成敗なので自分も切腹しなければいけない。」という話。つまり刀を抜くとどちらにしても切腹することになる。成功と失敗では大きな差はあるのだが、死ぬことには違いない。
 武士は常に名誉ある死を探している。

 また新渡戸は「忠臣蔵」を例に挙げ、武士は不正義(自分たちの基準による、ではあるが)を放ってはおけないと説明する。そして不正義を晴らすためには命をも厭わない、と。

 山本氏は、武士道は個よりも集団を重んじる自己犠牲の精神だと説く。それは現代にも通じ、戦後の高度経済成長はそれによって成し得たのではないか、と。
 MCは、武士道は現代日本人の考え方にも深く根付いていますよね~、としめくくる。


 新渡戸が「武士道」を書いたのは、「(キリスト教社会のような)宗教教育が行われない日本に於いて善悪や倫理・道徳をどう教育するのか?」という質問に答えを出さんがためだと言われている。新渡戸は士族の出であり、そのために武士道を基準にして答えを出したのだと思う。もし新渡戸が商家や農民、神職・僧侶の家の出なら、また違ったものを書いていたに違いない。なので「武士道」=日本人の考え方の基本、みたいな番組のまとめ方には違和感があった。
 幼い頃から名誉ある死に方をせよと教えられる、とか、些細なことでも切腹する、とか、そそられるシチュエーションが逸話が色々出てきたので、そういう意味では楽しめた。

新渡戸稲造『武士道』 2012年2月 (100分 de 名著)
山本 博文
NHK出版
現代語訳 武士道 (ちくま新書)
山本 博文
筑摩書房

妙国寺

2012-02-05 | ★男の切腹+グロ

 4月に大阪府堺市に引っ越す。

 堺と言えば「泉州堺事件」。
 堺事件とは、1868年(慶応4年、江戸時代最後の年であり、この年の9月には元号が明治に改まる)3月に堺港で土佐藩士がフランス兵を殺傷した事件。港内を測量、街中を徘徊している仏兵を帰艦させようとした土佐藩士との間に小競り合いが起き、土佐藩士が発砲。結果11名(いずれも20代)の仏兵が殺害された。
 後日、堺の妙国寺にて発砲に加わった29名の中から籤で選ばれた20名(当時の新政府の政治的判断で人数が減らされた)が切腹することになる。土佐藩士の中にはハラワタを引き出すという凄惨な切腹を、立ち会ったフランス軍艦長らに見せつける者も居た。11名(24歳~38歳)が切腹したところでフランス側が中止を要請し、終了した。中止した理由については、殺害された仏兵と同じ人数になったから、20人全員が切腹するまで立ち会えば日が暮れて帰途の襲撃を警戒しなければいけないから等々があったと言われる。
 この事件は「ハラキリ」を近代西洋世界に衝撃的に印象づけた。

 妙国寺は堺市の北西部堺区に現存する。本能寺の変で織田信長が討たれた時、徳川家康が少数の家来とともに滞在していたのも、この妙国寺。家康はここから明智勢の追撃の手をかわしながら、領国の三河へ伊賀越えをする。

  境内には巨大な蘇鉄が植わってるそうだ。信長が安土城に植え替えたところ、「堺に帰りたい」と夜な夜な泣くので、切り倒してしまった。すると鮮血を流しながら大蛇のように悶絶したため、恐れをなした信長は蘇鉄を寺に返したという伝説がある。恐い樹である。

 ぜひ落ち着いたら訪れてみたい。

くじで決まった命―慶応四年堺事件より (ふれ愛ブックス)
田中 皓也
けやき書房
鴎外歴史文学集〈第2巻〉阿部一族・大塩平八郎・堺事件ほか
森 鴎外
岩波書店