久しぶりの投稿です。
お待ちかねの方、ごめんなさい。
で、
先日、父に「昔、この家の1階が工場だったときの写真残ってる?」
と聞くと
”ホレッ” ・・・とアルバムを数冊机にぶちまけて
「この中にあるかもしれないからもってけ」と言われました。
今と違ってデジタルではありませんから
クソ重たいアルバムをめくることに。
すると、忘れかけていた思い出が飛び込んできました。
我が生まれ育った旧家、葛飾区堀切の綾瀬川沿い土手(堤防)での一コマ
となりの女の子は”順子ちゃん”
旧家のとなりに住んでいた女の子です。
この写真は、彼女が引っ越す当日に撮ったものと記憶しております。
違っても数日くらいでしょう。
なので、彼女はとても悲しそうな表情をしているのです。
最後のお別れの時に
「一也くん、さよならだね、おかし食べる?」と
”スピン”だっけかな?そんな名前のお菓子をつまんで
くれました。
「ありがとう、元気でね、ばいばい」
それが最後に交わした言葉です。
実は、ここは首都高速中央環状線で立ち退きが決まっており
次から次へとみんな引っ越していってしまったのでした。
お友達がみんないなくなってしまいました。
だから寂しかったのですね。
で、
現在はこうなってます。
彼女は当時、仙台に引っ越したそうな、震災は大丈夫だったかなあ?
元気でいることを祈っています。
すでに50年以上が過ぎてしまいました。
昭和47~8年だったかと思います。
遠くに行ってしまった風景、遠くに行ってしまった時間、
引き裂いたのは「高速道路」でしたが、
この高速を走ればまた会える、つないでくれているのも高速道路なのでした。
ちなみに、当時の時代が分かりやすいのはこの写真
船橋ヘルスセンターの通称”大滝滑り”
帰りに母が地球儀のついた鉛筆を買ってくれたのを
思い出します。
こち亀などにも出てくる東京近郊の名所でしたね。
日本が元気いっぱいの時でした。
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