『暴走老人』というのは、芥川賞作家の藤原智美さんのノンフィクション書籍です。
石原慎太郎さんが『暴走老人』と言われたこともあり、本人も自ら『暴走老人』といっているのを聞いたことがあります。
今は、「本当に暴走する老人」が話題になっていますね。
テレビなどのニュースでは、それだけを選んで取り上げているのではないかと思うほど報道されています。
セットで「運転免許証の返納」も報道されています。
該当する「老人」の方は、穏やかでいられない!!!
隣に停まったクルマのドライバーをみて、「老人」だったら「大丈夫かぁ?」と思ってしまう。
それくらい、頻繁に報道され、「老人=暴走」が刷り込まれている私だ。
当然、「老人だから〜」とか「クルマのATレバーが〜」などという問題ではないでしょ。
コトの本質は、「人とクルマの位置づけ、関係が変化」してきているということにあるのではと考えます。
つまり、モータリゼーションが広まり始めた50〜60年代の頃は「自動車」と言いながら、殆ど自分では動かず、殆どすべて人が操作していました。
それが今では「話題」としてですが、(まだまだ自動運転にたどり着かないのに)自動運転が取り上げられています。
現状のクルマは、操作が楽になったり、コンピューターの力を借りて動いたり、50〜60年代の頃のように全て人力ではなくなりました。
また、少し自動で動く部分もでてきました。
ブレーキやアクセルはドライバーの事を忖度したものになっています。
ハンドルは軽くなり、ドアガラスは勿論やテールゲート、トランクなども、スイッチひとつで自動開閉します。
ペダルを踏んだ以上に加速したり(走り感の為?)、減速したり(安心感の為?)しますし、車室内は空調が効きます。
AT車の場合、スイッチ一つの操作とアクセルを踏むだけで何も注意しなくても簡単に車は走りだします。またたとえ、パーキングブレーキをかけていてもアクセルを踏むと自動的に解除されてしまいます。
さらに、アクセルを踏まなくても、ハンドルを切らなくても、先行車に追従して走れる様になりました。
また、安全装備と言われていますが、前方のクルマと近づきすぎたりすると自動でブレーキがかかります。
つまり、運転することが安易になり、人力でなくなり、日常の延長でできるようになってきました。
これらは、「自動車」を目指した自動運転につながる技術としてITの進化とともに「進化」してきました。
つまり、現在のクルマは中途半端な自動運転化が進んでいる状態の中に、さらに若いときに全く「自動車」とは言えない状態のクルマで運転免許証を取って運転し始め、途中様々な「新技術」=「運転の安易化」を経験してきた現在の老人が重なります。
「老人になると子供に返る」とも言われます。
若い頃に経験して身についてたものは落ちにくいと言われていますが、その後に経験して身につけたものは順に身から落ちていくような状態なのではないかと推測しています。
そこに、完璧な自動運転ではない、安易に動かせるクルマがあるのです。
こうなると、「何か起こらないほうがオカシイ」とも考えてしまいます。
そこで、「子供に返りつつある老人」には、クルマも「返る」ことになれば良いのではと考えます。
安易に動かせるクルマでなく、「儀式」のあるクルマに乗ってもらうのです。
それで「運転できない」という「老人」には、それこそ「運転免許証」を返納してもらえば良いかと思います。
パワーステアリングのないクルマに乗れないのなら、クラッチのあるクルマに乗れないのなら、・・・「運転免許証返納」。
そんなクルマをカーメーカーは用意する。
安易に動かせるクルマはつまらないと言われていますから・・・新しいマーケットになり、意外と売れてしまうかも・・・。
(笑)
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