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成長の写真 

2024-06-01 20:57:11 | 日記
成長の写真

神の言葉についてじっくり考える時間を取ると、私たちの考え方、行動、周囲の人々への反応がゆっくりと変化します。

‭詩篇 1:1-3 JCB‬ [1] なんと幸いでしょう。 悪者のたくらみに耳を貸したり、 罪人といっしょになって 神のことをさげすんだりしない人は。 [2] その人は、 主がお望みになることを何でも喜んで行い、 いつも、主の教えを思い巡らしては、 もっと主のみそばを歩もうと考えます。 [3] その人は、川のほとりに植えられた、 季節が来ると甘い実をつける木のようです。 その葉は決して枯れず、 その人のすることは、みな栄えます。

‭へブル人への手紙 4:12 JCB‬ [12] 神のことばは生きていて、力があります。それは鋭い刃のように切れ味がよく、心の奥深くに潜んでいる思いや欲望にまでメスを入れ、私たちの赤裸々な姿をさらけ出します。

新しいことに挑戦するのは常に挑戦です。楽器の演奏を習うにしても、手の込んだおいしいペストリーを焼くにしても、木をボウルやカップの形に成形するにしても、習得すべき新しい用語やツールがたくさんあります。ここで、写真撮影についてもう少し詳しく考えてみましょう。美しい画像を撮影するには、カメラのすべての機能を理解するだけでなく、照明、背景、構図なども考慮する必要があります。

写真家が芸術家として成長するために日々新しい技術を習得するのと同じように、私たちも信仰の成長に役立つ技術を身につける必要があります。今日の聖句では、その一つである神の言葉について黙想することが強調されています。

詩篇作者は、神の言葉を黙想すると祝福される、つまり神の豊かさに目が向けられる、と書いています。言葉を急いで読み進めるべきではありません。黙想とは、神がどのような方で、何を望んでおられるのかを考える微妙なニュアンスを学ぶことです。カメラの腕を磨くために絶えず努力する写真家のように、私たちも神の言葉に立ち返らなければなりません。この努力を継続的に続けると、聖書が私たちを変え始めます。すると、神の声が私たちの中にしみ込み、私たちの考え方、行動、周囲の世界に対する反応を変えていきます(ヘブル人への手紙 4:12)。

祈りの力を信じる

2024-06-01 19:56:50 | 日記
祈りの力を信じる

「私たちが神に対して抱いている確信とは、何事でも神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということです。私たちが何事を願っても神が聞いてくださると分かれば、神に願ったことはかなえてくださることも分かります。」(ヨハネ第一 5:14-15)

祈りにイライラしたことはありますか?
物事が思い通りにいかなかったとき、特に神に願いを捧げても答えてもらえないと感じるとき、私たちはみなが失望感を抱くことを認めると思います。結局のところ、私たちが神に求めるものは与えられると聖書は言っていませんか?

ヨハネ15:7には、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、あなたがたの望むことは何でも願いなさい。そうすれば、かなえられます」とあります。

この聖句の後半部分に注目するのは簡単です。しかし、イエスが「あなたがたがわたしにとどまり、わたしの言葉があなたがたにとどまるならば」と言った意味を理解することは非常に重要です。私たちが主と歩調を合わせて歩んでいるなら、主の御心が私たちに明らかにされます。これは、私たちが主と主のタイミングに完全に従わなければならないことを意味します。私たちは自分の望みや願望に固執するのではなく、神が私たちのために立ててくださった計画に心を開く必要があります。

聖霊が私たちの内に宿り、神が私たちの人生に働きかけてくださるようにすると、神の計画は私たち自身の計画よりはるかに偉大であることに気づくことがよくあります。箴言 19:21 には、「人の心には多くの計画がある。しかし、主の計画だけが成る。」とあります。私たちは自分にとって何が最善かを知っていると思うかもしれませんが、天の創造主は私たち一人一人の人生に、私たちが想像できる以上の目的を持っておられます。

本当にキリストのために生きると決心したとき、私たちは自分の意志ではなく、神の意志に従って祈ります。これは、私たちが神に栄光を帰すために創造されたことを認識し、謙虚な気持ちから来なければなりません。マタイ5:16はこう言っています。「同じように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。そして、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」

皆さんがキリストに近づき、神の意志に従って祈れば祈りはかなえられるということを知って希望を見いだすよう、私は勧めます。祈りの力を通して、私たちは神を体験し、神への信仰を深めることができます。落胆した時でも、私たちが神に心を捧げる時、神は私たちの人生を通して働いてくださることを思い出してください。これはとても力強いことです。

天国の音

2024-06-01 19:45:28 | 日記
天国の音

聖書がとても騒々しい本であることに気づいたことがありますか? 知恵は*叫び*ます(箴言 8章)。大声で歌うことが奨励されます(詩篇 66:8)。賛美の中で*シンバルが鳴り響き*ます(詩篇 150章)。神は*大声で叫び*ます(イザヤ 42章)。神の声は*大水の音*のようです(エゼキエル 43章)。イエスは*大声で叫び、涙を流して*祈ります(ヘブル 5章)。そして被造物さえも*うめき*ます(ローマ 8章)。ペンテコステの日に、彼らは「激しい風が吹くような*音*」を「*天*から」聞きました(使徒行伝 2:2)。今日の聖句では、天に届く、または天から届く他の音も聞こえます。

‭詩篇 69:29-36 口語訳‬
[29] しかしわたしは悩み苦しんでいます。 神よ、あなたの救が わたしを高い所に置かれますように。 [30] わたしは歌をもって神の名をほめたたえ、 感謝をもって神をあがめます。 [31] これは雄牛または角とひずめのある雄牛にまさって 主を喜ばせるでしょう。 [32] へりくだる者は、これを見て喜べ。 神を求める者よ、あなたがたの心を生きかえらせよ。 [33] 主は乏しい者に聞き、 その捕われ人をかろしめられないからである。 [34] 天と地は主をほめたたえ、 海とその中に動くあらゆるものは主をほめたたえよ。 [35] 神はシオンを救い、 ユダの町々を建て直されるからである。 そのしもべらはそこに住んでこれを所有し、 [36] そのしもべらの子孫はこれを継ぎ、 み名を愛する者はその中に住むであろう。

礼拝の音

聖書は現実的です。私たちは「苦しみと苦悩」に陥ることがあります(29節)。ダビデは直面する問題を無視しようとはしません。しかし、彼は状況にかかわらず、神を崇拝することを選びます。どん底に陥っても、神が誰であるかを確信し、神を崇拝することができます。

この詩篇は礼拝の音で終わります。「私は歌で神の名をほめたたえ、感謝をもって神をたたえます。…天と地は神をほめたたえます」(30、34節)。礼拝は地上だけでなく、天国でも行われます。礼拝するとき、あなたは天国の音に加わっているのです。ここで、礼拝の3つの側面がわかります。

1. 礼拝には意志が伴う
ダビデは「私は神の名をほめたたえます」(30節)と言っています。いつも神を礼拝したいという気持ちでいるわけではないかもしれませんが、それはあなたが下す決断であり、意志の行為なのです。

2. 礼拝は神を喜ばせる
「これは雄牛よりも、角とひずめのある雄牛よりも主を喜ばせるだろう」(31節)。

3. 礼拝は他者に影響を与える
「貧しい人々は見て喜ぶだろう。神を求める者たちよ、あなたの心が生きますように!」(32節)。アルファの「神を求める」人々が礼拝に感動し、その結果「心が生き」ることが多いことに私は気づいています。

主よ、どんな状況にあっても、歌であなたの御名を讃え、感謝をもってあなたを讃えることができるよう助けてください。

‭使徒行伝 1:23-26 口語訳‬ [23] そこで一同は、バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立て、 [24] 祈って言った、「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、 [25] ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。 [26] それから、ふたりのためにくじを引いたところ、マッテヤに当ったので、この人が十一人の使徒たちに加えられることになった。

‭使徒行伝 2:1-21 口語訳‬ [1] 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、 [2] 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。 [3] また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。 [4] すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。 [5] さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、 [6] この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。 [7] そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。 [8] それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。 [9] わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、 [10] フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、 [11] ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。 [12] みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。 [13] しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。 [14] そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。 「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。 [15] 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。 [16] そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、 [17] 『神がこう仰せになる。 終りの時には、 わたしの霊をすべての人に注ごう。 そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、 若者たちは幻を見、 老人たちは夢を見るであろう。 [18] その時には、わたしの男女の僕たちにも わたしの霊を注ごう。 そして彼らも預言をするであろう。 [19] また、上では、天に奇跡を見せ、 下では、地にしるしを、 すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、 見せるであろう。 [20] 主の大いなる輝かしい日が来る前に、 日はやみに 月は血に変るであろう。 [21] そのとき、主の名を呼び求める者は、 みな救われるであろう』。

聖霊の音

これはあなたと私のためのものです。ペンテコステの経験は単なる歴史的な出来事ではありません。あなたにとっては現在の現実となることができます(2:29)。ヨエルは預言しました。「わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ」― 男も女も、老いも若きも、金持ちも貧乏人も(17-21節)。そこには間違いなく、あなたと私も含まれています!

経験を求める
ペンテコステの日に聖霊を体験したことには、3 つのことがありました。 まず、神の力によるものでした。彼らは強風を聞きました。これは実際の強風ではありませんでした。それは「激しい風が吹くような音」でした (2 節)。それはまるで熱帯の激しい暴風雨に似ているように聞こえます。これは神の強力な目に見えない力です。それは内なる霊的な現実の外面的で目に見えるしるしでした。

ヘブライ語の「ルアハ」は文字通り「息」または「風」を意味します。ルアハは旧約聖書では聖霊、つまり神の霊を指して使われています。ペンテコステの日は、イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言ったことが実現した日でした(ヨハネ 20:22)。
聖霊を体験することは、究極的には、神のあなたへの愛を体験することです(ローマ 5:5)。それは、神のあなたへの愛を感じる方法であり、使徒パウロとともに「神の子は…私を愛し、私のためにご自身をお与えになりました」(ガラテヤ 2:20)と言うことができるのです。リック・ウォレンが言うように、「神に愛されていると感じることは…あらゆる奉仕、あらゆる復興、あらゆる再生、あらゆる偉大な覚醒の出発点です。」
聖霊はすべての復興に力を与える方であり、神の民が心で神の愛を感じ、経験し、知ることができるようにすることで、その力を最大限に発揮します。それは頭から心へと伝わる知識です。

第二に、それは神からの火を伴っていました。彼らは火を見ました。これもまた、実際の火ではありませんでした。「火のような舌が彼らに現れ、分かれて配られ、ひとりひとりの上にとどまりました」(使徒行伝 2:3、AMP)。これもまた、内なる霊的な現実の外面的で目に見えるしるしでした。神の愛の火は、神の力、純粋さ、情熱を表しています。
聖霊を体験するところはどこでも、聖霊はあなたの人生に新たな情熱と情熱をもたらします。

第三に、それは神からの言語を含んでいました。「彼らはみな聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、他国の言語で話し始めた」(4節)。これは彼らが学んでいなかった天の言語でした。使徒パウロは「人間の」言語だけでなく「天の言語」についても語っています(コリント人への第一の手紙 13:1)。言語は認識され、知られている世界全体が表現されました(5-11節)。これはバベルの混乱と不統一の逆転でした(創世記 11:1-9)。

聖霊を通して神の愛を体験することで、教会に統一がもたらされます。カトリック、正教会、プロテスタント、ペンテコステ派など、どの教会や宗派でも、同じ聖霊が働いていることを認識すると、分裂が癒され、統一が目に見える形で体験されます。
ペンテコステの日には、3 つの反応がありました (これらはすべて、今日私たちが聖霊の働きに対して目にするものです)。最初の反応は驚きでした。ある人たちは「非常に驚いた」のです (使徒行伝 2:7)。2 番目の反応は困惑でした。「彼らは困惑して、互いに「これは、いったいどういうことなのだろう」と尋ねました」(12 節)。3 番目の反応は嘲笑でした。「しかし、ある人たちは、彼らをあざ笑って、「あの人たちは酒を飲み過ぎたのだ」と言いました」(13 節)。

説明を研究する

ペテロは何が起こっているか説明しました (14節以下)。

まず、彼は誤った説明に反論しました (15節)。ある人たちは、超自然的なことに対して自然な説明をしていました。彼らは非常に興奮して抑制力を失ったため、酔っているように見えたかもしれません。しかし、これはワインの酔いではなく、聖霊の冷静な酔いでした。二日酔いにならない唯一の種類の酔いです。

それから、彼は本当の説明をしました(16節以下)。ペテロは、これが聖書的であることを指摘してスピーチを始めました(残りの説明は明日見ます)。ある人々は、言葉と聖霊を誤って二分しています。しかし、聖霊は神の言葉の著者です。旧約聖書、つまり神の言葉は、この聖霊の注ぎを指し示しています(16-20節)。聖霊に満たされたペテロは、聖書に戻ります。聖霊は、神の言葉への渇望をもたらします。

主よ、聖霊の新たな注ぎを祈ります。神の炎が力と情熱と純粋さをもって私と教会に再び降りてきますように。

2サミュエル

5:6-6:23

祝福の音

祝賀の音について考える前に、この聖句には音に関する別の言及があることに注目する価値があります。ダビデが攻撃に出るべきかどうかを主に尋ねたとき、主は最初に「行け」と答えました(5:19)。次に、彼が2度目に主に尋ねたとき、主は「まっすぐに上って行かないでください。…バルサムの木の上から行進の音が聞こえたら、すぐに進みなさい」と答えました(23-24節)。

これが正確に何を意味しているかは明らかではありません。しかし、それは示唆に富む表現です。おそらく、神が動いていると聞いたらすぐに行動すべきだという意味でしょう。

神はダビデに勝利を与え、盛大な祝宴が開かれました。「ダビデとイスラエルの全家は主の前で、歌を歌い、立琴、立琴、タンバリン、シストラム、シンバルを鳴らして、力を尽くして祝宴を催した」(6:5)。とても騒々しかったに違いありません。

ダビデは踊り、神を非常に表現的に崇拝しました。「ダビデは亜麻布のエポデを着け、主の前で力の限り踊りました…」(14節)。ダビデの妻ミカルは、彼の情熱的な態度に当惑し、「心の中で彼を軽蔑しました」(16節)。

ダビデは、以前よりもさらに熱烈に、大胆に礼拝を続けると答えます。「ダビデはミカルに言った。「私は主の前で喜び祝います。私はこれよりもさらに醜い者になります」(21-22節)。ここで、私たちは騒々しく抑制のない祝賀の聖書的例を見ることができます。この箇所には、他の人が神に礼拝を表現する方法を見下したり軽蔑したりすることに対する警告があります(23節)。もちろん、私たちは自己顕示欲を避けなければなりません。しかし、ダビデの熱狂は心からのものであり、純粋な祝賀行為でした。

私たちは周りの人々に敏感になる必要があります。特に、アルファの最初の数週間は、熱狂的な礼拝に慣れていない人がたくさんいるからです。しかし、一般的には、他の人が自分のことをどう思うかなど気にせず、好きなだけ情熱的に神への礼拝を自由に表現すべきです。

主よ、教会が再び礼拝と祝賀の音で満たされますように。すべての[アルファ](https://alpha.org/)の週末が、ペンテコステ派の聖霊の注ぎの音、あなたの御名の栄光のための礼拝と祝賀の天上の音で満たされますように。

ピッパはこう付け加えます
サムエル記下6章14-16節にはこうあります:

「ダビデは亜麻布のエポデを着け、主の前で力一杯踊った。…サウルの娘ミカルは窓から見ていた。ダビデ王が主の前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、彼女は心の中で彼を軽蔑した。」
ミカルには同情します。私も過去には礼拝のダンスを軽蔑したことがあります。少し遠慮を捨てる必要があるかもしれません。エポデについてはよく分かりませんが、日曜日は気をつけてください。


平穏な心を保つための5つの重要な信念

2024-06-01 07:57:14 | 日記
‭コロサイ人への手紙 1:17 口語訳‬ [17] 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。

‭詩篇 34:10 口語訳‬ [10] 若きししは乏しくなって飢えることがある。 しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。

‭詩篇 139:13-16 口語訳‬ [13] あなたはわが内臓をつくり、 わが母の胎内でわたしを組み立てられました。 [14] わたしはあなたをほめたたえます。 あなたは恐るべく、くすしき方だからです。 あなたのみわざはくすしく、 あなたは最もよくわたしを知っておられます。 [15] わたしが隠れた所で造られ、 地の深い所でつづり合わされたとき、 わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。 [16] あなたの目は、 まだできあがらないわたしのからだを見られた。 わたしのためにつくられたわがよわいの日の まだ一日もなかったとき、 その日はことごとくあなたの書にしるされた。

‭ペテロの手紙Ⅰ 2:9 JCB‬ [9] しかし、あなたがたはそうではありません。あなたがたは神から選ばれた王なる祭司であり、きよい民として神のものとされた人たちです。それはすべて、どうして自分が暗闇から神の驚くべき光へと招き入れられたかを、人々に語り伝えるためなのです。

‭エペソ人への手紙 2:10 JCB‬ [10] 私たちをこのように造り変え、キリスト・イエスによる新しい生活に入れてくださったのは神です。この新しい生活は、神がずっと以前から計画してくださったものであり、私たちが互いに助け合って過ごすためでした。

平穏な心を保つための5つの重要な信念

あなたがクリスチャンなら、神だけがあなたの人生を管理しています。神はあなたの安全です。そして、神は太古の昔から、一瞬たりとも創造物を制御できなくなったことはありません。神はその力や威力を少しも失っていません。神は人類の夜明けのときと同じように、今日でも全能、全知、遍在、そしてすべてへの愛に満ちています。

神の目的を常に理解できるとは限りませんが、神のやり方を理解すると、神がその子供たちに永遠の祝福をもたらす方法で行動することを理解できるようになります。長年にわたり、私は心の平安を保つために欠かせない 5 つの信念を発見しました。神について自分が何を信じているかをじっくりとじっくりと見つめてみるよう、皆さんにお勧めします。あなたの平安は、これらの真理が魂にどれだけ深く根付いているかによって決まります。

信念 1: 神は絶対的な主権者です。

神がすべてのものの主権者であるという真理を認識し、受け入れることは、あなたの心の平安にとって不可欠です。これは、あなたに関するどんなことでも神の監視と愛情のこもった配慮の及ばないところはないということを意味します。(コロサイ 1:17)

信条 2: 神はあなたの供給者です。

聖書は最初から最後まで、神があなたのすべての必要を満たしてくださるという明確なメッセージを持っています。イエスが満たせないほど大きな、問題のある、または深刻な必要などありません。聖書は私たちにこう告げています。「主を求める人には良いものが何一つ欠けることはない」(詩篇 34:10)。

信念 3: 神は目的を持ってあなたを今の姿に創造しました。

あなたの人生には、自分ではコントロールできないことがたくさんあります。それらを神があなたを創造した方法の一部として受け入れてください。あなたの人種、文化、言語、国籍、性別、そしてあなたの肉体の多くの特性は、神の「選択」です。神はまた、才能、素質、知性、性格、霊的な賜物もあなたに与えました。これらを総合すると、あなたは神があなたのために立てた計画を遂行するために、この地球上でユニークな人物になります。(詩篇 139:13-16)

信条 4: 神には、あなたが本当に属する場所があります。

神は、神自身と他の人々との交わりのためにあなたを創造しました。あなたが神への強い帰属意識を持てるようになるよう、またあなたが属することができる仲間の信者の「家族」をあなたに与えてくださるよう、神を信頼してください。そして、あなたが神の中で成長するにつれて、他の人々に手を差し伸べてください。(1 ペテロ 2:9)

信念 5: 神はあなたの実現のために計画を持っています。

本当の心の平安を得るには、自分が何かを行うのに有能で、能力があり、能力があり、熟練していることを知る必要があります。 良いパフォーマンスを発揮したり、良い仕事をしたりする能力があることを知ると、素晴らしい平安が得られます。 (エペソ 2:10)

これら 5 つの基本的な信念を自分の存在の核として受け入れ、神があなたの中で、そしてあなたのために働いていると信じるなら、心の平安は本当にあなたのものになるでしょう。

静寂の力

2024-06-01 07:00:04 | 日記
‭詩篇 46:10 口語訳‬ [10] 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。 わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、 全地にあがめられる」。

静寂の力

私たちは忙しい人々です。

仕事と家庭、家族と友人、スケジュールがいっぱいで終わりのない仕事に追われ、立ち止まって見上げることさえせずに日々を急いで過ごしたくなるものです。

しかし、詩篇作者を通して神はこう語っています。

「静まって、わたしが神であることを知れ。わたしは諸国の間で高く、地上で高くされる。」

詩篇 46:10 NIV

あなたが最後に意図的に静止したのはいつですか(眠っているときだけではありません)。あなたの体と心が神が神であることを認識できるほど静かになったのはいつですか?

過去に関係なく、今日は何を選びますか?このアプリを閉じて、「神と過ごす時間」をToDoリストからチェックし、いつも通りの仕事を続けることができます。または、神の知識と真実があなたの落ち着かない心に平穏をもたらすのを許すことができます。

静寂には、私たちを自分自身を超えて駆り立てる何かがあります。 静けさには、神の必要性に対する意識を高める何かがあります。

言葉で神を認めることと、人生における他のすべての良いこと、悪いこと、気を散らすことよりも神を優先すること、つまり神を敬い、高めるような生き方をすることは別です。

準備ができていようがいまいが、神がご自身を完全に明らかにする日が来ます。望んでいようがいまいが、すべての秘密が明るみに出る日が来ます。好むと好まざるとにかかわらず、神が諸国よりも高く上げられ、世界中で尊敬される日が来ます。

しかし、神を崇拝するのに待つ必要はありません。神を自分の神と呼ぶのに待つ必要はありません。神を自分の人生の主であり王とするのに待つ必要はありません。

あなたは今、静かにして、神が神であることを知ることができます。

神よ、あなただけが全知であり、存在し、力強いお方です。あなたは天と地、太陽と月、そしてすべての被造物を創造した神です。すべての人々はあなたの栄光と善良さを知るようになります。どうか、私があなたのそばにとどまり、静かにあなたの存在を意識できるように助けてください。イエス様の御名により、アーメン。