彼はあなたに力を与える
私は友人グループと定期的にスカッシュをしていました。私たちはみんな同じレベルでした。勝ったり負けたりを交互に繰り返していました。それでも、勝つのは気持ちがいいものです。勝利に伴う喜びと満足感はごく自然なものです。
もちろん、これは些細な例です。今日の聖句の中心にある勝利は、まったく別の次元と意義を持っています。しかし、最も小さく取るに足らない勝利でさえ、その意味と喜びを味わうことができます。
新約聖書で読む神の偉大な勝利は、旧約聖書で予示されていました。神の究極の勝利は、イエスの生、死、復活、昇天、そして勝利の人生を生きる力を与えるイエスの聖霊の注ぎによってもたらされました。
箴言 知恵の泉 14:5-14 JCB
[5] 真実な証人はうそをつかず、 偽りの証人はうそを語ります。 [6] 人をさげすむ者に知恵は寄りつかず、 思慮のある人には、知恵のほうからやって来ます。 [7] 正しい忠告をもらいたいなら、 愚か者を相手にしてはなりません。 [8] 知恵のある人は先を見越し、 愚か者は自分をごまかして事実を直視しません。 [9] 神の教えに背く者たちは過ちを犯し、 神を恐れる者たちは人を思いやります。 [10] 悲しみも喜びも、真にわかるのはその人自身で、 他の人が完全に共有することはできません。 [11] 悪者の働きは失敗し、 神を恐れる人だけが成功します。 [12] だれでも、広く歩きやすい道が正しい道と考えますが、 それは死に通じる道です。 [13] 笑っても苦しみは隠せません。 笑ったあと、悲しみがそのまま残っています。 [14] 信仰をなくした人は自分に嫌気がさしますが、 神を恐れる人の生活には活気があります。
善の勝利
箴言の「愚か者」とは、知性に欠ける人という意味ではありません。むしろ、反逆者(特に神と礼儀と正義の法に反抗する者)を意味します。「あざける者…愚かな者…邪悪な者…不誠実な者」(6、7、9、11、14節)は悲惨な結末を迎えます(11~14節)。彼らの道は死で終わります。
一方、箴言には正義と神聖さの重要性についての教えが満ちています。ここでは「真実の証人…正しい人…善良な人」(5、9、11、14節)について書かれています。
その意味は、義人は何らかの形で死を乗り越え、「栄え」、「報いを受ける」(11-14節)ということです。言い換えれば、彼らは最終的に勝利するのです。「道徳的な人生は恵まれた人生である」(9節b、MSG)。
主よ、あなたの聖霊の力によって、私がすべての道において忠実であり、あなたが私のためにあらかじめ用意しておられる善行を行えるように助けてください。(エペソ2:10)
使徒の働き 2:22-47 JCB
[22] ああ、皆さん。これから申し上げることを聞いてください。よくご存じのように、ナザレのイエスは、あなたがたの前で、力ある奇跡を行われました。神様はそれによって、だれにもはっきりわかるように、イエス様の身元を保証なさったのです。 [23] 神様はあらかじめ計画したとおり、この方を、あなたがたの手でローマ政府に引き渡し、十字架で処刑することをお許しになりました。 [24] そうした上で、この方を死の苦しみから解放し、復活させたのです。この方が、ずっと死んだままでいることなど、ありえないことだからです。 [25] ダビデ王は、イエス様のことをこう言っています。 『主はいつも私と共におられる。 主が私を助け、 神の大きな力が私を支える。 [26] だから、心は喜びにあふれ、 私の舌は主をほめたたえる。 たとい死んでも、私には望みがある。 [27] あなたは、私のたましいを地獄に放置せず、 あなたの聖なる息子の体を、 朽ち果てさせることもない。 [28] 私を生き返らせ、 あなたの前で、すばらしい喜びにあふれさせる。』(詩篇16・8-11) [29] 愛する皆さん。考えてください。ダビデはここで、自分のことを語っているわけではありません。そうでしょう。ダビデは死んで葬られ、その墓は今でも、ちゃんと残っているではありませんか。 [30] しかし、彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人がメシヤ(ヘブル語で、救い主)となり、ダビデの王座につくと神が誓われたことを知っていたのです。 [31] それで、遠い将来を望み見ながら、メシヤの復活を預言しました。メシヤのたましいは地獄に放置されず、その体が朽ち果てることもない、と語ったのです。 [32] そのとおり、神様はイエスを復活させました。私たちはみな、そのことの証人です。 [33] いまイエス様は、天で最も栄誉ある神の右の座についておられます。そして、約束どおり、父なる神は聖霊を送ってくださいました。その結果、たった今、あなたがたが見聞きしたことが起こったのです。 [34-35] ダビデは、決して自分のことを言ったのではありません。ダビデは天にのぼったことはないからです。それに、当のダビデがこうも言っています。 『神は私の主に言われた。 「わたしがあなたの敵を 完全に征服するまで、 わたしの右に座っていなさい。」』(詩篇110・1) [36] ですから、イスラエルのすべての人に、はっきり言っておきます。神様が主とし、キリスト(ギリシャ語で、救い主)とされたイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」 [37] ペテロのことばは、人々の心を強く打ちました。「それでは、私たちはどうすればいいのでしょう。」あちらからもこちらからも、使徒たちへの質問の声があがりました。 [38] ペテロは答えました。「一人一人、罪の生活から悔い改めて神に立ち返りなさい。そして、罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい。そうすれば、聖霊という賜物をいただけます。 [39] それはキリストが約束してくださったことです。あなたがたは言うまでもなく、あなたがたの子孫、また遠くにいても、私たちの神である主がお招きになったすべての人に与えられるのです。」 [40] このあとも、ペテロの説教はえんえんと続きました。イエスのことや、悪に満ちたこの時代から救われなければならないことを、ことばを尽くして訴えたのです。 [41] この日、ペテロの言うことを信じた人はバプテスマを受けましたが、その数は全部で三千人ほどでした。 [42] 彼らは、使徒たちの教えをよく守り、聖餐式(パンと杯によりキリストの体と血の祝福にあずかる、キリスト教の礼典の一つ)や祈り会に加わっていました。 [43] だれもが心から神を恐れ敬うようになり、また、使徒たちは次々と奇跡を行いました。 [44] 信者たちはみないっしょにいて、それぞれの持ち物を分け合い、 [45] 必要がある人には、財産を売り払って与えました。 [46] 毎日、神殿で礼拝をし、聖餐の時は、少人数に分かれてめいめいの家に集まり、心から喜びと感謝にあふれて食事を共にし、 [47] 心から神を賛美しました。彼らは町中の人に好感をもたれ、神も、救われる人を毎日、仲間に加えてくださいました。
イエスの勝利
教会は「祝賀、歓喜、喜び」の場であるべきです(46節、MSG)。私たちは世界で最も前向きな人々であるべきです。常にイエスと神の勝利を祝うべきです。
ペンテコステの日に、聖霊に満たされたペテロは、イエスの偉大な勝利を説明します。彼はイエスの生涯、奉仕、死、そして特に復活について語ります。彼は、イエスが死からよみがえったことを確信できる4つの理由、そしてそれゆえ、あなたの中にあるイエスの力によって、あなたもイエスと共によみがえらされることを確信できる4つの理由を挙げています。
1. 論理的
サタンの死の力は、神の救世主の命の力より強いはずがありません。ペテロは、「神は彼を死からよみがえらせ、死の苦しみから解放しました。死は彼を捕らえることはできなかったからです」(24節)と説明しています。
2. 聖書的
ペテロは、復活が詩篇16:8–11(使徒行伝2:25–28)で預言されていたことを指摘しています。ペテロは、「ダビデは預言者であり、神が彼の子孫の一人を王座に就けると誓われたことを知っていました。彼は、将来のことを見越して、キリストの復活について語ったのです」(30–31節)と述べています。
3. 個人的
ペテロは自らの証言をします。「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(32節)。ペテロは事実上、「私たちはみな、イエスを見たのです」と言っています。
4. 経験的
聖霊の経験は、それ自体が復活の証拠です。イエスの生、死、復活、昇天の後、救いの働きの最後の行為が起こりました。「神の右に上げられ、父から約束された聖霊を受けて、あなたがたが今見聞きしているものを注ぎ出したのです」(33節)。
この経験は、ペンテコステの日にその場にいた人々だけに限られたものではありません。それはすべてのクリスチャンのためのものです。それはあなたのためのものです。「この約束は、あなたがたと、あなたがたの子どもたち、また遠くにいるすべての人、すなわち、私たちの神である主がお召しになるすべての人に与えられているのです」(39節)。聖霊を経験するたびに、それは復活のさらなる証拠となります。聖霊に満たされる人を見たり、聖霊が人生を変えたという証言を聞いたりするたびに、それは復活のさらなる証拠となります。
聖霊は、ペテロの言葉「あなたがたはナザレのイエスを十字架につけた」(36節)の真実を私たちに認識させてくれます。イエスは私の罪のために死なれました。私はイエスを殺しました。私の個人的な罪は十字架にありました。私がこれに気づいた日、私も「心を刺されました」(37節)。この啓示こそが真の悔い改めへと導きます。
約束を受ける方法は、悔い改め、イエスへの信仰、洗礼、そして聖霊の賜物を受けることです(37~38節)。聖霊を受けた証拠は、人生の変化とコミュニティの変化に表れます(42~47節)。教会は祝賀、歓喜、喜びの場であるだけでなく、何よりも愛の場でなければなりません。
1. 神への愛
教会は神への愛に満ちた場所です。彼らは聖書に対する新たな愛を抱きました。「彼らは使徒たちの教えに心を尽くした」(42節)。この教えの多くは、現在、新約聖書に収められています。
彼らは聖餐に対する新たな愛を抱きました。「彼らはパンを裂くことに心を尽くした」(42節)。「彼らは家でパンを裂いた」(46節)。
彼らは祈りに対する新たな愛を抱きました(42節)。聖霊に満ちた教会は、祈る教会です。
2. 互いへの愛
教会は互いへの愛によって特徴づけられるべきです。彼らは共に集まるという新たな望みを持っていました。「彼らは……交わりに励みました」(42節)。「彼らは共に集まり続け」、そして「心から喜びをもって共に食事をしました」(46節)。財政面で新たな解放があり、惜しみなく与えることができました(44~45節)。
聖霊に満たされた教会は、団結した教会です。
3. 世界への愛
教会は世界への愛で満たされるべきです。彼らは外向きの共同体であり、しるしや不思議を行っていました(43節)。「主は毎日救われる人々を彼らの仲間に加えられました」(47節)。聖霊に満ちた教会は外向きの教会です。
主よ、罪と死に対するイエスの偉大な勝利に感謝します。どうか、あなたの聖霊の力で私を満たしてください。
2サミュエル
7:1-8:18
どこへ行っても勝利
イエスの勝利はダビデの生涯に予兆されていました。聖書にはダビデに関する記述が千回以上あります。彼は油を注がれた(救世主)王でした。主は彼に「周囲のすべての敵から安息を与え」ました(7:1)。預言者ナタンはダビデに言いました。「あなたが心に思うことは何でも、それを実行してください。主はあなたと共におられます」(3節)。「主はダビデがどこへ行っても勝利を与えてくださいました」(8:6,14)。
ダビデの祈りには、従うべき模範が見られます。
1. 神の偉大さを讃える
ダビデは、神の御前で自分が無価値であることを自覚し(7:18)、同時に神の偉大さを悟りました。「主なる神よ。あなたはなんと偉大な方なのでしょう。あなたに並ぶ者はありません」(22節)。彼は、神が民を救われたことを讃えます(23節)。
2. 神の名に対する情熱
ダビデは神の名が尊ばれるのを見ることに情熱を傾けています。「約束どおりに行ってください。そうすれば、あなたの名はとこしえに偉大になります」(25~26節)。
3. 神の家族に対する約束
ダビデは神の言葉を信頼しています(28節)。彼はさらにもう一つのことを祈ります。「私の家族を祝福してください。いつも彼らに目を留めてください。主なる神よ、あなたはすでにそうするとおっしゃったとおりです。ああ、あなたの祝福が私の家族に永遠にありますように!」(29節、MSG)。
神はダビデと契約を結びました。神は天幕に住んでいましたが(7:2)、ダビデのために家を建てることを約束しました(7,10–11節)。神は約束します。「わたしはあなたの子孫をあなたの跡継ぎとして起こす…わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅くする…あなたの家とあなたの王国はわたしの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く立つ」(12–13,16節)。
ダビデの契約の約束はイエスにおいてのみ成就しました。人間の王は失敗しましたが、王権の理想を成就する将来の王の希望は残っていました。イエスはダビデの子でした(例えばマタイ1:1を参照)。イエスがエルサレムに入城すると、人々は叫びました。「わたしたちの父ダビデの来たるべき王国は祝福されます!」(マルコ11:10)。
しかし、イエスの勝利とイエスの王国は、誰も予想していなかったほど偉大なものでした。それらは、征服王が物理的な戦いに勝利することによってではなく、死にゆく救世主が罪、罪悪感、依存症、恐怖、そして死そのものに対して偉大な霊的勝利を収めることによって達成されたのです。
イエスの例から、勝利は必ずしも華やかで明白なものではないことがわかります。しかし、神はダビデに約束したように、あなたがどこへ行っても神の力があなたとともにあり、キリストにおいて最終的にあなたが勝利することを約束しています。
主よ、ダビデのように、私はあなたの前で無価値感を感じています。「主なる神よ、私は何者でしょうか」(7:18)。キリストにおいて、あなたが私にあなたの力を与え、私がどこへ行っても私とともにいて、私を助けてくださると約束してくださったことに感謝します。
ピッパはこう付け加えます
使徒行伝 2:22-41 には、ペテロが立ち上がって最初の説教をしたとき、きっと喜び、誇らしく思ったであろうペテロの友人たちの姿が描かれています。彼らはペテロの浮き沈みや失敗のすべてに付き添っていました。今、神の油注ぎが彼に注がれています。この 3 年間は、この瞬間のための準備でした。
苦難を乗り越えて自分の使命を見つけた人々を見るのは素晴らしいことです。