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聖霊の実 – 優しさ

2024-06-12 07:05:16 | 日記
聖霊の実 – 優しさ
Fruit of the Spirit – Gentleness

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁じる律法はありません。」(ガラテヤ人への手紙 5:22-23)
“But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, forbearance, kindness, goodness, faithfulness, gentleness and self-control. Against such things there is no law.” (Galatians 5:22-23)

優しさについて考えるとき、何を思い浮かべますか? 優しさは弱さや受動性であるというのはよくある誤解です。しかし、本当の優しさは正反対です。優しさには大きな強さと自制心が必要です。
What comes to your mind when you think of gentleness? A common misconception is that gentleness is weakness or passivity. True gentleness, however, is just the opposite. It requires great strength and self-control.

優しさは謙虚な状態から生まれます。したがって、優しさに欠ける人は、しばしばプライドが高く、怒りやすく、復讐心も感じます。
Gentleness comes from a state of humility. Therefore, someone who lacks gentleness is often prideful and easily angered, or feels the need for revenge.
優しくあるためには、自分を他の人より優れていると考えてはいけません。優位性を主張するのではなく、優しい人は、たとえ自分が不当な扱いを受けたとしても、他の人を助けたいと願います。
In order to be gentle, we must not view ourselves as better than someone else. Rather than asserting superiority, someone who is gentle wants to help others, even when they have been done wrong.

優しさの例はヨハネ8章に見られます。パリサイ人が姦淫の現場で捕まった女性をイエスのもとに連れてきた場面です。パリサイ人はイエスに、モーセの律法ではそのような女性を石で打ち殺せと命じられていると言いました。それに対してイエスはこう答えました。「あなたたちのうちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
An example of gentleness can be seen in John 8, when the Pharisees bring a woman who was caught in adultery to Jesus. The Pharisees told Jesus that the Law of Moses commanded them to stone such a woman, to which Jesus responds, “Let any one of you who is without sin be the first to throw a stone at her” (John 8:7).

皆が去った後、イエスはその女性を非難せず、彼女にこう言いました。「今すぐ行きなさい。そして、罪深い生活を捨てなさい。」 (ヨハネ 8:11)
After everyone left, Jesus did not condemn the woman, and said to her, “Go now and leave your life of sin” (John 8:11).

この物語の中でイエスが女性に優しく接したように、神は私たちに対しても優しく接します。私たちが罪を犯しても、神は私たちを愛し続けます。神は私たちの過ちを記録しませんが、私たちが神のもとに来るなら赦しを与えてくださいます。
Just like how Jesus was gentle with the woman in this story, God is gentle with us. Even in our sin, He continues to love us. He does not keep record of our wrongs, but offers forgiveness if we come to Him.

神は私たちが他人に対して優しくあることを望んでおられます。マタイ6:14-15にはこうあります。「もしあなたがたが他人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの罪を赦して下さるであろう。しかし、もしあなたがたが他人の罪を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪を赦して下さらないであろう。」
God wants us to be gentle to others. Matthew 6:14-15 says, “For if you forgive other people when they sin against you, your heavenly Father will also forgive you. But if you do not forgive others their sins, your Father will not forgive your sins.”

優しい心は、他人に対する愛から生まれます。これは私たちの考え方や、周りの人々との関わり方に表れます。
A gentle heart comes from having love for others. This is shown in our thoughts and in the way we interact with those around us.

では、どうすれば私たちは優しさを育むことができるのでしょうか?
So how do we grow in our gentleness?

優しさとは何かを正確に認識することが重要です。優しさは弱さとしてではなく、むしろ強さとして捉えるべきです。このように捉えると、より優しくなるために努力を始めることができます。
It is important to have an accurate perception of what gentleness is. It should not be seen as a weakness, but rather as a strength. When we see it this way, we can begin to work toward becoming gentler.

さらに、神が私たちに対して優しく接してくださる方法を認識することも重要です。神は宇宙の創造主ですが、私たちの罪深い性質にもかかわらず、私たちに対して優しく愛情深く接してくださるのです。
In addition, it is important to acknowledge the ways in which God is gentle with us. He is the Creator of the universe, yet He is still gentle and loving toward us despite our sinful nature.

最後に、私たちは優しさを自分の生活に取り入れることができます。祈りを通して、神に優しさの精神を与えてもらい、独善的な気持ちを取り除いてもらうようにお願いすることができます。神の性格を反映できるように、他の人に優しさを示す方法を明らかにしてくださるようにお願いすることができます。
Finally, we can incorporate gentleness into our own lives. Through prayer, we can ask God to give us a spirit of gentleness and take away any feelings of self-righteousness. We can ask Him to reveal ways we can show gentleness to others so that we may reflect His character.

神を理解できないとき 

2024-06-12 06:37:34 | 日記
神を理解できないとき

昨日その生涯を取り上げましたが、ジョン・ニュートンはウィリアム・カウパー (1731-1800) という人物を指導しました。カウパーは悲劇を経験しました。6 歳のときに母親が亡くなり、幼いころに父親が亡くなりました。彼は法廷弁護士の資格を取得しました。表面的には成功していましたが、深刻な鬱病に悩まされていました。正式な試験を受ける貴族院の行政職に応募したとき、彼は試験の見通しに非常に動揺し、自殺を図りました。
彼はその後ずっと精神疾患に苦しみました。30 代の頃、ジョン・ニュートンはカウパーに賛美歌の作曲を始めるよう勧めました。彼は日々の生活の喜びと悲しみを力強く歌いました。
1774 年、彼は重度の精神病を患い、メアリー・アンウィンとの結婚を諦めざるを得なくなり、落胆した。
その後すぐに、おそらく彼の最も有名な賛美歌で、彼はこう歌いました。「神は神秘的な方法で動く」 「神は奇跡を起こす」
神は善良である。神は愛である。神はあなたを愛している。神はイエスにおいて自らを至高に明らかにした。私たちはこれらすべてを知っています。
それから、あなたは聖書の中で、神についての自分の理解に合わないと思われる箇所を読みます。
あなたも人生の中で、どちらにも当てはまらないような経験をするかもしれません。神を一つの枠にはめ込むことはできません。神はあなたが想像できるよりもはるかに偉大です。聖書には神秘的な箇所があります。イエスはあるとき、「あなたがたは今、わたしのしていることが分からないが、あとで分かるようになる」(ヨハネ13:7)と言いました。その理解は生きている間に得られることもあります。主に会って初めて理解できることもあります。神を理解できないとき、どのように対応すべきでしょうか。

‭詩篇 74:1-9 口語訳‬ [1] 神よ、なぜ、われらをとこしえに捨てられるのですか。 なぜ、あなたの牧の羊に怒りを燃やされるのですか。 [2] 昔あなたが手に入れられたあなたの公会、 すなわち、あなたの嗣業の部族となすために あがなわれたものを思い出してください。 あなたが住まわれたシオンの山を 思い出してください。 [3] とこしえの滅びの跡に、あなたの足を向けてください。 敵は聖所で、すべての物を破壊しました。 [4] あなたのあだは聖所の中でほえさけび、 彼らのしるしを立てて、しるしとしました。 [5] 彼らは上の入口では、おのをもって 木の格子垣を切り倒しました。 [6] また彼らは手おのと鎚とをもって 聖所の彫り物をことごとく打ち落しました。 [7] 彼らはあなたの聖所に火をかけ、 み名のすみかをけがして、地に倒しました。 [8] 彼らは心のうちに言いました、 「われらはことごとくこれを滅ぼそう」と。 彼らは国のうちの神の会堂をことごとく焼きました。 [9] われらは自分たちのしるしを見ません。 預言者も今はいません。 そしていつまで続くのか、われらのうちには、 知る者がありません。

神に正直になりましょう

人生の中で、なぜ自分に特定のことが起きているのか全く理解できないときがありますか? まるで神に拒絶されたように感じますか? もしそうなら、あなたの経験は神の民の歴史の中でよくあることです。この詩篇は次のような質問で始まります。「神よ、なぜあなたは私たちを永遠に拒絶されたのですか?」(1節)。

時には、神は沈黙し、あなたを助けるために介入してくれないように見えるかもしれません。詩篇作者が言うように、「神のしるしや象徴は見当たらず、神の名を語る者もなく、何が起こっているのかを知る者もいない」(9節、MSG)。

このような時期を経験すると、それが「どれくらい続くか」は決してわかりません(9節)。人生の一部がなぜ今のようにうまくいっているのか疑問に思うかもしれません。あるいは、神が遠くにいるように感じるだけかもしれません。聖ヨハネ・オブ・ザ・クロス(1542年~1591年)は、このような時期を「魂の暗夜」と呼びました。

こんな時はどうすればいいのでしょうか?

質問する
詩篇作者は遠回しに言いません。神に心を注ぎ出します。神に難しい質問をします。「あなたは私たちを見捨てて立ち去り、振り返ることもありませんでした。神様、どうしてそんなことがおできになるのですか。私たちはあなたの羊です。どうしてあなたは怒って立ち去ることができるのですか。」(1節、MSG)

答えを求める
「私たちのことを思い出してください... あなたは実際にここに住んでいたのです! 災害の現場を訪れてください...」(2-3節、MSG)。

このような経験や感情を抱くとき、あなたは一人ではありません。詩篇の大きな恵みの一つは、不可解な苦しみのときに詩篇に頼り、心の中で祈りを繰り返すことができることです。

主よ、自分に何が起こっているのか理解できないときでも、祈りを捧げるときは正直にあなたに接することができ、心から感謝します。

‭使徒行伝 9:32-43 口語訳‬ [32] ペテロは方々をめぐり歩いたが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。 [33] そして、そこで、八年間も床についているアイネヤという人に会った。この人は中風であった。 [34] ペテロが彼に言った、「アイネヤよ、イエス・キリストがあなたをいやして下さるのだ。起きなさい。そして床を取りあげなさい」。すると、彼はただちに起きあがった。 [35] ルダとサロンに住む人たちは、みなそれを見て、主に帰依した。 [36] ヨッパにタビタ(これを訳すと、ドルカス、すなわち、かもしか)という女弟子がいた。数々のよい働きや施しをしていた婦人であった。 [37] ところが、そのころ病気になって死んだので、人々はそのからだを洗って、屋上の間に安置した。 [38] ルダはヨッパに近かったので、弟子たちはペテロがルダにきていると聞き、ふたりの者を彼のもとにやって、「どうぞ、早くこちらにおいで下さい」と頼んだ。 [39] そこでペテロは立って、ふたりの者に連れられてきた。彼が着くとすぐ、屋上の間に案内された。すると、やもめたちがみんな彼のそばに寄ってきて、ドルカスが生前つくった下着や上着の数々を、泣きながら見せるのであった。 [40] ペテロはみんなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。それから死体の方に向いて、「タビタよ、起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起きなおった。 [41] ペテロは彼女に手をかして立たせた。それから、聖徒たちや、やもめたちを呼び入れて、彼女が生きかえっているのを見せた。 [42] このことがヨッパ中に知れわたり、多くの人々が主を信じた。 [43] ペテロは、皮なめしシモンという人の家に泊まり、しばらくの間ヨッパに滞在した。

‭使徒行伝 10:1-23 口語訳‬ [1] さて、カイザリヤにコルネリオという名の人がいた。イタリヤ隊と呼ばれた部隊の百卒長で、 [2] 信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈をしていた。 [3] ある日の午後三時ごろ、神の使が彼のところにきて、「コルネリオよ」と呼ぶのを、幻ではっきり見た。 [4] 彼は御使を見つめていたが、恐ろしくなって、「主よ、なんでございますか」と言った。すると御使が言った、「あなたの祈や施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている。 [5] ついては今、ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい。 [6] この人は、海べに家をもつ皮なめしシモンという者の客となっている」。 [7] このお告げをした御使が立ち去ったのち、コルネリオは、僕ふたりと、部下の中で信心深い兵卒ひとりとを呼び、 [8] いっさいの事を説明して聞かせ、ヨッパへ送り出した。 [9] 翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。 [10] 彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。 [11] すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。 [12] その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。 [13] そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。 [14] ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。 [15] すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。 [16] こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。 [17] ペテロが、いま見た幻はなんの事だろうかと、ひとり思案にくれていると、ちょうどその時、コルネリオから送られた人たちが、シモンの家を尋ね当てて、その門口に立っていた。 [18] そして声をかけて、「ペテロと呼ばれるシモンというかたが、こちらにお泊まりではございませんか」と尋ねた。 [19] ペテロはなおも幻について、思いめぐらしていると、御霊が言った、「ごらんなさい、三人の人たちが、あなたを尋ねてきている。 [20] さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼らと一緒に出かけるがよい。わたしが彼らをよこしたのである」。 [21] そこでペテロは、その人たちのところに降りて行って言った、「わたしがお尋ねのペテロです。どんなご用でおいでになったのですか」。 [22] 彼らは答えた、「正しい人で、神を敬い、ユダヤの全国民に好感を持たれている百卒長コルネリオが、あなたを家に招いてお話を伺うようにとのお告げを、聖なる御使から受けましたので、参りました」。 [23] そこで、ペテロは、彼らを迎えて泊まらせた。 翌日、ペテロは立って、彼らと連れだって出発した。ヨッパの兄弟たち数人も一緒に行った。

神に心を開く

イエスは弟子たちに、病人を癒し、死者を蘇らせ、福音を宣べ伝えるように言われました。初期の教会はイエスが言われた通りに行動しました。彼らは起こったことにとても驚いたに違いありません。しかし、彼らはイエスの導きに心を開いていました。

癒しの神秘

彼らは神の並外れた力が働いているのを目撃し続けました。ペテロは8年間寝たきりだった男に言いました。「イエス・キリストがあなたを癒してくださるのです」(9:34)。彼はすぐに「ベッドから飛び起きました」(34節、MSG)。「皆が…神が彼らの間で生き、活動していることに気づき、目覚めました」(35節、MSG)。

しかし、すべての人が癒されるわけではありません。なぜ神はすべての人を癒さないのでしょうか? わかりません。私たちがあれほど祈った人を神が癒さない理由を理解するのは本当に難しいことがあります。それは神秘です。

死者を蘇らせるという神秘

次に、ペテロは死者を蘇らせました! 死者が蘇ったという話は聖書ではまれです。 旧約聖書では、エリヤとエリシャの 2 回起きています。 イエスは 3 回、パウロは 1 回、ペテロはドルカスを蘇らせました。 死者を蘇らせるという命令は 1 回だけあります (マタイ 10:8)。

ほとんどの場合、蘇ったのは若者でした。 永遠に生きた人はいませんでしたが、命が早すぎる死に方をしたわけではありませんでした。 ごくまれに、神がこのように介入します。 理由はわかりません。 神秘です。

ここで神は介入しました。 「いつも善行をし、貧しい人々を助けていた」 (使徒行伝 9:36) ドルカスが病気になり、亡くなりました。 ペテロはひざまずいて祈りました。 彼女は目を開けて起き上がり、ペテロは彼女の手を取って立ち上がらせました。 その結果、「多くの人が主を信じた」 (42 節)。

福音の神秘

使徒パウロは後にこう説明しています。「この神秘とは、福音によって異邦人がイスラエルと共に相続人となり、キリスト・イエスにおいて共に一つのからだの肢体となり、共に約束にあずかる者となることです」(エペソ3:6)。

使徒行伝のこの時点まで、イエスの信奉者はすべてユダヤ人でした。実際、彼らはユダヤ人でなければキリスト教徒になることはできないと考えていました。しかし、神は彼らを驚かせました。神はペテロにビジョンを与えました。ペテロはトランス状態の中で天が開くのを見て、「汚れた」動物や鳥を殺して食べるように言われました。彼の答えは、「主よ、それはあり得ません!」でした(使徒行伝10:14)。

この幻と、それに伴う神の声は、ペテロに、清い食物と汚れた食物を区別しないようにと命じました(13-15節)。しかし、ペテロはまた、この幻が「清い」人々と「汚れた」人々、つまりユダヤ人と非ユダヤ人を区別してはならないことを意味していることにも気付きました。明日の朗読では、ペテロが「どの人種も他の人種より優れているわけではない」と言っているのが分かります(28節、MSG)。

当時、それは謎でした。「ペテロは困惑しながら、そこに座り、そのすべてが何を意味するのか考えていた」(17節、MSG)。彼は神が何をしているのか理解していませんでした。後になって初めて理解しました。神は彼らの計画よりもはるかに大きな計画を持っていました。イエスの福音はユダヤ人だけに限定されるべきものではなく、世界中のすべての人のためのものでした。ありがたいことに、ペテロは、幻を通してであれ、「聖霊が彼にささやいた」(19節、MSG)ときであれ、神の導きに応じるほど心を開いていました。

主よ、私たちがこの人生でいくつかの謎を理解できなくても、あなたを信頼し、あなたには常に理由があることを知ることができることを感謝します。

2サミュエル

23:8-24:25

神に驚かされる

これは聖書全体の中でも最も神秘的な一節です。すべてが順調に進んでいるように見えました。ダビデの周りには善良な人々がいました。3人の勇士と、さらに広い側近である「三十人」から大いに助けられ、支えられていました。

しかし、恐ろしいことが起こりました。ダビデに戦士の数を数えるようそそのかしたのは誰でしょうか。この一節では、それは神であるように見えます。しかし、歴代誌の同等の一節では、「サタンはイスラエルに逆らって立ち上がり、ダビデにイスラエルの人口調査をさせようとそそのかした」(歴代誌上 21:1)と書かれています。これは旧約聖書でサタンについて言及されている3箇所のうちの1つです。

ダビデは明らかに、自分がしていることが間違っていることを知っていた(「彼は国民を数え、信頼を統計に置き換えていた」、サムエル記下 24:10、MSG)。彼は「良心の呵責を感じ、主に言った。「私は自分のしたことで大きな罪を犯しました。主よ、どうか、しもべの罪を除き去ってください。私は非常に愚かなことをしました」』(10節)。

預言者ガドが語った様々な選択肢を与えられた彼は、主の御手に身を委ねることを選びました。「主の慈悲は大きい」(14節)。彼は何の代償も伴わない犠牲を捧げることを拒否しました(24節)。犠牲を捧げた後、「主は国のために祈りに応えられました」(25節)。

理解しにくい部分はまだたくさんあります。しかし、この一節は希望と新たな関係の音で終わります。

主よ、混乱と不確実さの真っ只中でもあなたを信頼できるよう助けてください。いつの日かあなたの知恵が完全に明らかにされることに感謝します。あなたが善良で、あなたの愛が永遠に続くことに感謝します。

ピッパが付け加えます
サムエル記下 24章
人口調査で混乱している人は他にいますか?

他の人々と平和に暮らす

2024-06-12 05:43:34 | 日記
ローマ人への手紙 12:18 NIV [18] できるなら、あなた方次第で、すべての人と平和に暮らしなさい。

‭Romans 12:18 NIV‬ [18] If it is possible, as far as it depends on you, live at peace with everyone.

他の人々と平和に暮らす
Living in Peace With Others

これは私たち一人ひとりが常に直面する課題です。他の人々と平和に暮らし、争いが起こったときに平和を取り戻すにはどうすればよいのでしょうか?
It’s a challenge we each face regularly: How can we live in peace with other people and restore peace when conflict erupts?

実際、神は私たちが他の人々と平和に暮らすことを望んでおられます。また、私たちが常に他の人々と平和に暮らせるわけではないことも神はご存知です。争いは起こります。時には争いは簡単に解決できないこともあります。実際、争いが解決できない場合もあります。しかし、神は私たちがすべての人と平和に暮らすためにできる限りのことをすることを望んでおられます。
The fact is, God desires for us to live in peace with others. He also knows that we’ll not always be at peace with others. Conflicts occur. At times, conflicts aren’t easily resolved. In fact, there are occasions when conflicts cannot be resolved. However, God wants us to do all we can to be at peace with everyone.

キリストに従う私たちは、神が私たちの人生を完全に支配していないとき、不信者と同じくらい卑劣な行動をとる可能性があることを十分知っています。私たちが救われたからといって、意地悪、嫉妬、憎しみ、怒りから自動的に守られるわけではありません。聖霊が私たちの中で、そして私たちを通して働くようにお願いし、私たちの性質を神の性質に従わせ、私たちが持つあらゆる関係においてこの地上で神の代表者となるよう努めるときにのみ、私たちはプライドを超えて平和を確立する行動に移ることができるのです。
We who are followers of Christ know full well that when God isn’t in full control of our lives, we can act just as despicably as an unbeliever. Our salvation doesn’t automatically keep us from being mean, jealous, hateful, or angry. It’s only as we ask the Holy Spirit to work in us and through us, only as we yield our nature to His nature, only as we seek to be His representatives on this earth in every relationship we have that we’re going to move beyond pride into the behaviors that establish peace.

では、争いが起こったときにどう対処し、平和な結末を迎えるのでしょうか。
So how do we deal with conflict when it arises and establish a peaceful outcome?

まず、関係の価値を判断します。他の人と平和に暮らすつもりなら、「この関係は私にとって維持する価値があるか? 関係をうまく機能させるために、いくつかの点で妥協する用意があるか?」と決めなければなりません。恵みによって救われ、聖霊に宿っている人は、両者が関係の維持を重視するとき、関係において真の平和を見出すことができると私は固く信じています。
First, determine the value of the relationship. If you’re going to live in peace with another person, you have to decide, “Is this relationship valuable enough to me to preserve it? Am I willing to compromise on some things to make the relationship work?” I firmly believe that those who are saved by grace and indwelled by the Holy Spirit can find genuine peace in their relationship when both value the maintenance of the relationship.

2 番目に、話し始めてください…そして、話し続けてください。2 人が話し、お互いに話し続け、耳を傾ける意志を持っている場合、対立を迅速に解決し、お互いに平和に暮らす可能性がはるかに高くなります。
Second, start talking … and keep talking. When two people are talking—and willing to keep talking and listening to each other—they’re much more likely to quickly find resolution to their conflicts and live in peace with each other.

3 番目に、透明性を保ちましょう。心の奥底に隠された意図や操作的な計画がありながら、平和な関係を望むことはできません。対立が生じたときに他の人にオープンで正直であることは、関係において平和的な解決に到達するのに役立ちます。
Third, be transparent. You can’t have a hidden agenda or a manipulative scheme at work in the back of your mind and hope for a peaceful relationship. Being open and honest with others when conflicts arise helps you to reach peaceful solutions in your relationships.

最後に、問題の核心に迫ります。他の人とオープンにコミュニケーションを取り、対立の根底にあるものを正直に見つめることで、どんな困難も乗り越えて平和を築くことができるようになります。
Finally, get to the core of the problem. As you communicate openly with others, taking an honest look at what is at the root of the conflict, you’ll be better able to work through any difficulty and establish peace.

神の言葉の真理に立ち、他の人と平和に暮らそうと努力するとき、神があなたと共にあることを知ってください。神は、あなたが経験するどんな対立や迫害も、あなたの永遠の利益に変えてくださいます。神は、あなたの中に霊的成長、より大きな信仰、そしてより強い忍耐力をもたらしてくださいます。
As you strive to live at peace with others, standing on the truth of God’s Word, know that God stands with you. He will turn any conflict or persecution you experience to your eternal benefit. He’ll bring about spiritual growth, greater faith, and stronger enduring power within you.


サポートが必要なとき

2024-06-12 04:36:35 | 日記
ガラテヤ人への手紙 6:2 NIV [2] 互いに重荷を担い合いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

‭Galatians 6:2 NIV‬ [2] Carry each other’s burdens, and in this way you will fulfill the law of Christ.

サポートが必要なとき

誰もが重荷を背負っており、私たちが経験する出来事が世界や自分自身に対する見方を形作ります。しかし、私たちは重荷を一人で背負うようには作られていません。

実際、イエスは従う人々にこう言っています。

「疲れた人、重荷を負っている人は皆、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。私のくびきを負いなさい。…私のくびきは負いやすく、私があなたがたに与える荷は軽いからです。」

マタイ 11:28-30 NLT

くびきとは、2頭の牛に渡された重い木の梁で、牛が運ぶ荷物の重さを均等に分散させます。しかし、この言葉はユダヤ教のラビも使っていました。「律法のくびき」は神の律法への完全な服従を象徴し、ラビは律法に縛られることでユダヤ人は世の奴隷状態から解放されると教えました。

イエスは、ユダヤ人の追随者なら簡単に理解できるフレーズを使っていますが、その後、その例えをひっくり返しています。 イエスは群衆に、イエスが彼らの律法の成就者なので、イエスとくびきを共にしなければならないと告げます。

彼らがそうするとき、彼らが背負う重荷はまったく重くなくなります。イエスが彼らの重荷の重さを負ってくれるからです。

パウロはガラテヤのクリスチャンへの手紙の中でこの教えに言及しています。

「互いに重荷を分かち合いなさい。そのようにしてキリストの律法を守りなさい。」

ガラテヤ6:2 NLT

キリストの律法とは、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛し、また他人を自分自身のように愛することです(マタイ22:37-40)。しかし、キリストの律法を成就できる唯一の方法は、イエスと自分を結びつけることです。私たちがイエスとくびきを共にするとき、イエスは私たちの力の源になります。

イエスは私たちが困難な状況に耐えるのを助け、誤った決断から立ち去れるようにしてくれます。イエスは私たちを愛で満たし、私たちがイエスの愛を他人に注ぐことができるようにしてくださいます。 神は、私たちを支えるのと同じように、他のキリスト信者を支える力を私たちに与えてくださいます。

イエスが私たちの罪と苦しみを負われたように、私たちは他の人の苦しみを負うように求められています。このようにして、私たちは彼らにキリストの愛を示し、彼らをイエスのもとへ導きます。

今すぐ、あなたが背負うのに助けが必要な重荷について神に数分間話し、そして神があなたの人生であなたに支えてほしいと思っている人々を見せてください。

When You Need Support

Everyone carries burdens, and the things we go through shape the way we view the world, and ourselves. But we weren’t meant to carry our burdens alone.

In fact, Jesus says to the people following Him—

"Come to me, all of you who are weary and carry heavy burdens, and I will give you rest. Take my yoke upon you. … For my yoke is easy to bear, and the burden I give you is light."
Matthew 11:28-30 NLT

A yoke is a heavy wooden beam that lies across a pair of oxen, evenly distributing the weight of the loads they carry. But the term was also used by Jewish Rabbis. “The yoke of the law” symbolized complete submission to God’s law, and Rabbis taught that becoming yoked to it would free the Jews from enslavement to the world.

Jesus is using a phrase that His Jewish followers would have easily understood, but then He flips the illustration. He tells the crowd that they must yoke themselves to Him—because He is the fulfillment of their law.

When they do this, the burdens they carry won’t be heavy at all—because He will bear the weight of their burdens.
Paul references this teaching in his letter to the Galatian Christians:

“Share each other’s burdens, and in this way obey the law of Christ.”
Galatians 6:2 NLT

The law of Christ is to love God with all our heart, soul, mind, and strength, and to love others as ourselves (Matthew 22:37-40). But the only way we can fulfill the law of Christ is if we bind ourselves to Him. When we are yoked to Jesus, He becomes our source of strength.

He helps us endure hard situations and enables us to walk away from poor decisions. He fills us up with His love so that we can pour His love out onto others. He gives us the capacity to support other Christ-followers just like He supports us.

Just as Jesus bore our sins and suffering, we are called to bear the suffering of others. In this way, we show them the love of Christ and guide them toward Jesus.

Right now, spend a few minutes talking to God about the burdens you need help carrying, and then allow Him to show you the people in your life He wants you to support.

神様、キリストの御体に互いの重荷を担うよう呼びかけてくださり感謝します。私ができるときにすぐに他の人を助け、必要なときに喜んで助けを受け入れることができるよう助けてください。聞き上手になり、他の人のために祈り、愛をもって周りの人を励ますことができるよう教えてください。もっとあなたのようになりたいと思っています。イエス様の御名により、アーメン。

God, thank You for calling the body of Christ to carry each other’s burdens. Help me to be quick to help others when I can, and to be willing to accept help when I need it. Teach me to be a good listener, to pray for others, and to lift those around me up in love. I want to be more like You. In Jesus’ name, Amen.