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聖霊の実 – 優しさ

2024-06-26 15:52:15 | 日記
聖霊の実 – 優しさ
Fruit of the Spirit – Kindness

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁じる律法はありません。」(ガラテヤ5:22-23)
“But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, forbearance, kindness, goodness, faithfulness, gentleness and self-control. Against such things there is no law.” (Galatians 5:22-23)

優しさは幼稚園で習うもののように聞こえます。指を振りながら「優しく接し、お互いに親切に接しなさい」と言う先生の声が聞こえてきそうです。
Kindness sounds like something you learn from a kindergarten class. You can hear that finger-wagging teacher now: “Make sure to be nice and treat one another with kindness.”

親切の訓練は、私たちの幼少期にまで遡ります。私たちは最初から、お互いに親切にするように教えられ、条件付けられています。しかし、親切とは、交流する人々に「お願いします」や「ありがとう」と言うことよりもずっと深い意味があります。それらはマナーなのです。
The discipline of kindness traces back to our childhood. From the very beginning, we are taught and conditioned to be kind to one another. However, kindness goes much farther than saying “please” and “thank you” to people you interact with. Those are manners.

優しさは感謝の気持ちから生まれるものですが、敬意と優しさを持ってお互いに接する誠実さからも生まれます。
Kindness comes from a heart posture of gratitude, but also sincerity in treating one another with respect and niceness.

「神は、キリスト・イエスにおいて、わたしたちをキリストとともによみがえらせ、キリストとともに天の王国に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにおいてわたしたちに示された慈愛による神の恵みの、比べるもののいない豊かさを、来たるべき世に示してくださるためです。」(エペソ2:6-7)
“And God raised us up with Christ and seated us with him in the heavenly realms in Christ Jesus, in order that in the coming ages he might show the incomparable riches of his grace, expressed in his kindness to us in Christ Jesus.” (Ephesians 2:6-7)

優しさは、人と接するときの単なる行動ではありません。それは、他の人の間で自分をどう見せるかです。あなたを通して輝くあなたの性格は、優しさの姿勢に身を包むことができます。
Kindness is more than an action when you interact with people. It’s how you present yourself amongst other people. Your character that shines through you can be dressed in the posture of kindness.

質問させてください。ビーチやグランドキャニオンなど、公共の観光地に行ったことがありますか? 一緒にいるグループの写真を撮りたいときがあります (自撮り以外のもの)。恥ずかしそうに見知らぬ人に近づき、愛用のテクノロジーを渡して、写真を撮ってもらいます。なぜその人を選んだのですか?
Let me ask you this: Have you ever gone to a public tourist location, like the beach or the Grand Canyon? Sometimes, you would like a photo of the group that you’re with (something other than a selfie). You sheepishly walk up to a perfect stranger, hand them your beloved technology and ask them to snap a photo. Why did you pick that person?

私がそうするときは、一番感じのいい人、怒ったり、しかめっ面をしたり、立ち去ったりしない人を選びます。私が的外れな質問をしたときに、「もちろんです!」と力強く答えてくれる人を選びます。
When I do this, I choose the person who looks the nicest, who isn’t going to huff, scowl and walk away. I choose the person who expresses an emphatic, “Absolutely!” when I beg the question.

優しさは私たちから溢れ出てきます。それは心と性格の姿勢です。それはすべての人が敬意と優しさを持って扱われるに値するという考えです。
Kindness flows from us. It is a heart and character posture. It is the notion that every person deserves to be treated with respect and kindness.

しかし、それだけではありません。聖書に目を通すと、「親切」という言葉が、エペソ人への手紙の上記の節のように、互いに対する慈悲と謙虚な奉仕の文脈で使われていることがわかります。「[神の]恵みの豊かさ」は、イエスを通して私たちに示された親切、イエスがどのような方で、何をしたか、そしてイエスが私たちのために犠牲を払って示された慈悲と奉仕のような愛を通して示されています。
But there’s more to it. If you look through the Scriptures, you see that the word “kindness” is used within the contexts of mercy and humble servitude to one another, much like the verse above in Ephesians. The “riches of [God’s] grace” is shown through the kindness shown to us through Jesus, who He was, what He did and the mercy and servitude-like love that was shown through His sacrifice for us.

ですから、小学校の先生の話を聞いて、グランドキャニオンで写真に夢中になっている家族から優しさについて学んでください。

しかし、最も重要なのは、十字架に目を向けることです。私たち一人一人のためにキリストが究極の犠牲を払って完璧に表現した優しさと慈悲を見てください。

So, listen to your elementary school teacher and take a lesson from the photo-obsessed families at the Grand Canyon about kindness.

But, most importantly, look to the cross. See the kindness and mercy that Christ perfectly portrayed in His ultimate sacrifice for each and every one of us.

人生を計画する方法

2024-06-26 15:38:52 | 日記
人生を計画する方法

ほとんどすべての人が計画を立てます。私たちは、夜や週末、休日をどう過ごすか計画を立てます。何人の子どもを持つか、教育について計画を立てる人もいます。私たちは財政と寄付について計画を立てる必要があります。個人には計画があります。企業には計画があります。教会には計画が必要です。私は自分の *一年で読む聖書* のこれらのページが大好きです。
1992 年 6 月、私は「あなたのなすことを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は成功する」 (箴言 16:3) という聖句の横に、92 年と 93 年の計画を書き留めました。神は、私たちが願ったり想像したりした以上に、これらの計画を祝福してくださいました。それ以来、毎年、私はその年の計画を書き留めています。主が長年にわたり私たちのためにどれほどのことをしてくださったかを振り返ると、とても励みになり、信仰が強まります。主の優しさと誠実さは、忘れやすいものです。

‭箴言 15:31-33 口語訳‬ [31] ためになる戒めを聞く耳をもつ者は、 知恵ある者の中にとどまる。 [32] 教訓を捨てる者はおのれの命を軽んじ、 戒めを重んじる者は悟りを得る。 [33] 主を恐れることは知恵の教訓である、 謙遜は、栄誉に先だつ。

‭箴言 16:1-7 口語訳‬ [1] 心にはかることは人に属し、 舌の答は主から出る。 [2] 人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、 しかし主は人の魂をはかられる。 [3] あなたのなすべき事を主にゆだねよ、 そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。 [4] 主はすべての物をおのおのその用のために造り、 悪しき人をも災の日のために造られた。 [5] すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、 確かに、彼は罰を免れない。 [6] いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる、 主を恐れることによって、人は悪を免れる。 [7] 人の道が主を喜ばせる時、 主はその人の敵をもその人と和らがせられる。

私たちの計画

私たちはいつも正しいことをできるわけではありません (もちろん私もそうではありません)。しかし、計画を立てることは悪いことではありません。実際、事前に計画を立てることは良いことです。指摘されているように、ノアが箱舟を造ったとき、雨は降っていませんでした。箴言の著者は、「心に思い描くことは人のものである…あなたがたのなすことを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は成功する」(16:1,3) と言っています。

ここに成功の鍵があります。あなたの計画は、決して主から独立して立てるべきではありません。あなたは主との関係に召されています。あなたの計画は主の計画と整合している必要があります。あなたのビジョンと計画は、聖霊によって導かれる必要があります。神の導きを感じたら、あなたの計画を主にゆだねてください。計画を主にもたらしてください。計画を主に差し出してください。そうすれば、神は「あなたの計画は成功する」(3節) と約束してくださいます。何をするにしても主にゆだねるとはどういう意味でしょうか。

1. 協力する
「コミットする」というヘブライ語の訳語の一つは、「向かって転がる」です。人生を歩むには二つの方法があります。一つは、神なしでも自分の人生を完璧に切り開くことができると決めることです。私たちは神から独立して、自分を満足させるために計画を立てます。これは高慢(5節)と独立の道です。高慢な人は、すでに知っていると思っているので、何も言うことができません。

もう一つは、自分の欲望を捨て去る覚悟を持つことです。これが信仰と謙遜の道です。「謙遜は名誉に先立つ」(15:33)。

神はあなたの人生に良い計画を持っておられます(エレミヤ 29:11、ローマ 12:2、エペソ 2:10)。謙虚に神に協力し、神の目的に反するものはすべて捨てる覚悟を持ちましょう。

2. 打ち明ける
あなたの計画を主に委ねるということは、主の計画について主に話すこと、つまり主と一緒に計画を立てることを意味します。毎日の始まりに、あなたの計画を主に委ねることができます。休日は、先を見越して計画を立て、数か月、あるいは1年先まで神に委ねるのに適した時間だと思います。

俳優のデビッド・スーシェが最近キリスト教徒になったとき、ラジオで断る役があるかどうか尋ねられたのを聞いたのを覚えています。彼はこう答えました。「それはとても難しい質問です。私が言えるのは、今は役をオファーされたらその場を離れて祈り、間違っていると感じたら断るということです。以前は「いくらですか?」と言っていました。」

3. 相談する
主はこう言われます。「わが計画に従わない者たちは災いを受ける。わたしに相談しないでエジプトに下る者たちは」 (イザヤ書 30:1–2a)。主に委ねるということは、主に相談し、計画について話し合い、主の知恵と助言を求めることを意味します (箴言 15:33a)。重要な決定を下すときは、賢明な人は他の人に相談して、主から正確に聞いたかどうかを確認します (31–32 節)。

計画を主に委ねれば、成功の約束を信頼することができます。神はあなたの計画を支配します。「人は綿密に計画を立てるが、神は最終決定権を持つ」(16:1、MSG)。「あなたは心の中で自分の道を計画するが、主はあなたの歩みを定める」(9 節)。

神はあなたに計画を立てる自由と責任を与えています。あなたがそうすることは間違いなく正しいことです。しかし、神はあなたの決断をあなたの目的地に結び付けます。これは受動的になったり宿命論的になったりする理由ではなく、むしろ神があなたの人生を最終的に支配していることを確信できるという励ましです。決断できないまま固まってしまう必要はありません。

神は神を愛する人々のためにすべてを善に導いてくださると信じることができます(6b、7節、ローマ8:28)。

主よ、私があなたに託す計画を祝福してくださる素晴らしい方法に賛美と感謝を捧げます。今年、私は将来のすべての計画をあなたに託したいと思います。

‭使徒行伝 19:14-41 口語訳‬ [14] ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。 [15] すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。 [16] そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。 [17] このことがエペソに住むすべてのユダヤ人やギリシヤ人に知れわたって、みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた。 [18] また信者になった者が大ぜいきて、自分の行為を打ちあけて告白した。 [19] それから、魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨てた。その値段を総計したところ、銀五万にも上ることがわかった。 [20] このようにして、主の言はますます盛んにひろまり、また力を増し加えていった。 [21] これらの事があった後、パウロは御霊に感じて、マケドニヤ、アカヤをとおって、エルサレムへ行く決心をした。そして言った、「わたしは、そこに行ったのち、ぜひローマをも見なければならない」。 [22] そこで、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストとのふたりを、まずマケドニヤに送り出し、パウロ自身は、なおしばらくアジヤにとどまった。 [23] そのころ、この道について容易ならぬ騒動が起った。 [24] そのいきさつは、こうである。デメテリオという銀細工人が銀でアルテミス神殿の模型を造って、職人たちに少なからぬ利益を得させていた。 [25] この男がその職人たちや、同類の仕事をしていた者たちを集めて言った、「諸君、われわれがこの仕事で、金もうけをしていることは、ご承知のとおりだ。 [26] しかるに、諸君の見聞きしているように、あのパウロが、手で造られたものは神様ではないなどと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説きつけて誤らせた。 [27] これでは、お互の仕事に悪評が立つおそれがあるばかりか、大女神アルテミスの宮も軽んじられ、ひいては全アジヤ、いや全世界が拝んでいるこの大女神のご威光さえも、消えてしまいそうである」。 [28] これを聞くと、人々は怒りに燃え、大声で「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と叫びつづけた。 [29] そして、町中が大混乱に陥り、人々はパウロの道連れであるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコとを捕えて、いっせいに劇場へなだれ込んだ。 [30] パウロは群衆の中にはいって行こうとしたが、弟子たちがそれをさせなかった。 [31] アジヤ州の議員で、パウロの友人であった人たちも、彼に使をよこして、劇場にはいって行かないようにと、しきりに頼んだ。 [32] 中では、集会が混乱に陥ってしまって、ある者はこのことを、ほかの者はあのことを、どなりつづけていたので、大多数の者は、なんのために集まったのかも、わからないでいた。 [33] そこで、ユダヤ人たちが、前に押し出したアレキサンデルなる者を、群衆の中のある人たちが促したため、彼は手を振って、人々に弁明を試みようとした。 [34] ところが、彼がユダヤ人だとわかると、みんなの者がいっせいに「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と二時間ばかりも叫びつづけた。 [35] ついに、市の書記役が群衆を押し静めて言った、「エペソの諸君、エペソ市が大女神アルテミスと、天くだったご神体との守護役であることを知らない者が、ひとりでもいるだろうか。 [36] これは否定のできない事実であるから、諸君はよろしく静かにしているべきで、乱暴な行動は、いっさいしてはならない。 [37] 諸君はこの人たちをここにひっぱってきたが、彼らは宮を荒す者でも、われわれの女神をそしる者でもない。 [38] だから、もしデメテリオなりその職人仲間なりが、だれかに対して訴え事があるなら、裁判の日はあるし、総督もいるのだから、それぞれ訴え出るがよい。 [39] しかし、何かもっと要求したい事があれば、それは正式の議会で解決してもらうべきだ。 [40] きょうの事件については、この騒ぎを弁護できるような理由が全くないのだから、われわれは治安をみだす罪に問われるおそれがある」。 [41] こう言って、彼はこの集会を解散させた。

パウロの計画

パウロは戦略的な考えの持ち主でした。彼は綿密な計画を立てました。「このすべての出来事が起こった後、パウロはマケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行くことに決めました。『そこに行った後、ローマにも行かなければなりません』と彼は言いました。彼は、自分の助手であるテモテとエラストの二人をマケドニアに派遣し、自分はアジア州にもう少し留まりました」(21-22節)。

パウロのビジョン、使命、計画は、知られている世界全体への福音宣教を中心に展開しました。彼の戦略は、エルサレム、ローマ、コリント、エフェソスといった都市に焦点を合わせました。

彼はこれらの都市で多くの時間を過ごして、会堂や講堂で、できるだけ多くの人に福音を説きました。

反対者がいなかったわけではありません。興味深いことに、エフェソスでの反対は教義や倫理ではなく、経済的なものでした。デメトリオスはパウロの説教によって金銭を失うかもしれないと考えました。そこで、彼は反対を煽りました(24~29節)。

しかし、神にも計画がありました。今日のもう一つの箴言は、「主はご自分の目的のためにすべてを成し遂げる」(箴言 16:4)と語っています。この例では、神は市の書記官を通して働きました(使徒行伝 19:35)。彼は神を信じていないように見えましたが(35-36節)、それでも彼の行動は暴動を止めました。神はしばしば、ご自分の計画を達成するために、信者ではない人々を通して働きます。

主よ、大きな反対に直面したパウロの計画、戦略、勇気の例に感謝します。あなたがご自分の目的のためにすべてを成し遂げてくださったことに感謝します。私のすべての計画を導いてください。戦略的で勇敢になれるよう助けてください。

1列王記

22:1-53

神の計画

神を出し抜こうとするのは良い考えではありません。これがアハブの問題でした。彼は神の計画を打ち破るために人々や出来事を操ろうとしました。

ヨシャパテは賢明にも、アラムと戦争する前に神の助言を求めるべきだと彼に告げました。「何をするにも、まず神の導きを求めなさい」(5節、MSG)。これは重要な原則のもう一つの例です。計画を成功させたいなら、計画を立てる際に神の導きを求める必要があります。

400 人の「操り人形」預言者は、単に給料をもらってやっているだけの、つまり王が言わせたいことを言うだけの、国に雇われたオウムだったのかもしれません。

しかし、ヨシャパテはこれが本物の預言ではないことを知っており、「ここには、私たちが尋ねることができる主の預言者はいないのですか」と尋ねます (7 節)。王は答えます。「私たちが主に尋ねることができる預言者がまだ一人いますが、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことを預言することはなく、いつも悪いことを預言するからです。彼はイムラの子ミカヤです」 (8 節)。

真の預言者であるミカヤは、彼らに主の言葉を語ります。400人の預言者が世間の意見を主張したのに対し、ミカヤは実際に主の心を知っていた唯一の人でした。主から来ていない世間の意見に左右されてはなりません。私たちが数で劣っているかもしれないという事実は決定的なものではありません。

ミカヤは権力に対して真実を語る勇気があります。「確かに神は生きておられます。神の言われることを私は言います」(14節、MSG)。彼は神の計画に逆らうことの危険性を彼らに警告します。彼はその苦労のせいで、パンと水だけを与えられ、牢に入れられます(27節)。

アハブは神の声に耳を傾けようとはしません。彼は神の操作を続けます。彼は変装することで神を出し抜くことができると考えています(30節)。しかし、私たちが読んだように、「主はご自分の目的のためにすべてを成し遂げる」(箴言16:4)。

この原則は、「誰かが無差別に弓を引き、イスラエルの王の鎧の間を射た。王は死んだ。主の言葉が告げたとおり、犬がその血をなめた」(列王記上22:34、37~38)という場面で発揮されます。

主よ、あなたが主権者であり、歴史の出来事を支配してくださっていることに感謝します。主よ、私が間違った道を歩んでいると知りながら、出来事を操作しようとしたことがあるかもしれませんが、お許しください。あなたの計画に常に従えるよう助けてください。私の計画があなたの計画となり、その計画が成功しますように。

ピッパはこう付け加えます
箴言 16:2
「人は自分の行いがすべて潔白だと思うが、主は動機を量られる。」

私たちの動機は時々少し複雑になることがあります。


Jesus believes in you

2024-06-26 14:48:45 | 日記
マタイ14:28-29 NIV [28] ペテロは答えた。「主よ、あなたでしたら、私に水の上を渡ってあなたのもとに行けとおっしゃってください。」[29] イエスは「来なさい」と言われた。するとペテロは舟から降り、水の上を歩いてイエスのもとに向かった。
‭Matthew 14:28-29 NIV‬ [28] “Lord, if it’s you,” Peter replied, “tell me to come to you on the water.” [29] “Come,” he said. Then Peter got down out of the boat, walked on the water and came toward Jesus.

イエスはあなたを信じています
Jesus believes in you

もしあなたが2000年前にイエスに従っていて、イエスがあなたにこの船から降りて、この水の上を一緒に歩くように頼んだとしたら、ほとんどの人はすぐに飛び込んだでしょう。水がこのように滑らかで穏やかであれば、信仰の一歩を踏み出すのは簡単でしょう。なぜなら、神が私たちに、簡単そうで私たちの計画に合致し、リスクを負う必要のない何かをするように命じたとき、信仰の一歩を踏み出すのは簡単だからです。
If you were following Jesus 2000 years ago and he asked you to get out of THIS boat and walk on THIS water with him, I bet most of us would jump straight in. If the waters were this smooth and calm it would be easy to take a step of faith. That’s because when God calls us to do something that seems easy and fits in with our plans or doesn't require us to take a risk, it's easy to take a step of faith.

しかし、イエスがペテロに安全な船から出るよう呼びかけたとき、物語によると、強風と高波が襲ってきたそうです。屈強な漁師は怖がりましたが、とにかく船から出ました。そして、ペテロが恐怖に支配され、沈み始めたとき、イエスはペテロの信仰のなさを指摘しました。まだ水の上を歩いていたイエスに対する信仰ではなく、ペテロ自身に対する信仰のなさです。イエスはペテロが呼びかけられたことを実行できると信じていました。そしてイエスは、あなたもイエスが呼びかけていることは何でもできると信じています。
But when Jesus called Peter to step out of the safety of his boat, the story says there was a strong wind and high waves! The burly fisherman was frightened, but he stepped out anyway. Then, as Peter's fear took over and he started to sink, Jesus called out his lack of faith - not in Jesus who was still walking on the water, but in himself. Jesus believed Peter could do what he was being called to do - and Jesus believes you can do whatever he is calling you to do as well.

もしあなたが今日、荒れ狂う嵐の中に踏み込んでいるなら、イエスはあなたがそれを成し遂げられると信じており、あなたと共に立ち上がる用意ができています。今日こそあなたが船から出る日です!
If you're stepping into a howling storm today, Jesus believes you can do it, and is ready to stand with you. Today is your day to get out of the boat!

まだまだあります

2024-06-26 00:52:45 | 日記
‭コリント人への第二の手紙 4:18 NIV
[18] ですから、私たちは見えるものではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠だからです。
2 Corinthians 4:18 NIV‬ [18] So we fix our eyes not on what is seen, but on what is unseen, since what is seen is temporary, but what is unseen is eternal.

まだまだあります

私たちが見ることができるものはたくさんあります。木、星、山、海、人々、ペンギン、親友の笑顔、象、高層ビル、コーヒー豆、夕焼け、チューリップなど、ほんの数例を挙げるだけでも。

神はこれらすべてを創造しました。神は自然界とそれを支配する法則を創造しました。

しかし、私たちには見えないものもあります。風の息吹の背後、宇宙の奥深く、愛の基盤の下などです。キリストを通して、天と地、目に見えるものも見えないものも、すべてのものが創造されました(コロサイ1:16)。

そして、私たちの死すべき目では風や赤外線、神の霊を見ることはできないかもしれませんが、それでも私たちはそれらの影響を経験します。なぜなら、目に見えるもの以上のものがあるからです。この人生を超えたものがあるのです。

パウロの友人であるコリントの人々は大きな苦難を経験していました。 彼らは、イエスが待ち望まれていた救世主であると信じていたために、追い詰められ迫害されていました。中には死に直面している者もいました。しかしパウロは、この世を超えた希望をもって、そのようなつかの間の試練に耐えるよう彼らを励ましました。彼はこう書いています。

「ですから、私たちは見えるものではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」

コリント人への手紙第二 4:18 NIV

人間の目は限られたことしか見ることができません。人間の心は限られたことしか理解できません。しかし、私たちは、見たり理解したりできないことすべてを神に委ねることができます。

神は実在します。私たちは今日、肉眼で神を見ることはできないかもしれませんが、神の命の影響を体験することができます。イエスはあなたが生きられるように自らを犠牲にされました。そして、地上でも天国でも、豊かな人生があなたを待っています。今この瞬間を超えたものがあります。

では、あなたは見えるものに目を留めますか、それとも見えないものに目を留めますか? あなたは自分の五感を信頼しますか、それとも心を神に向け信頼しますか?

There’s More

There are plenty of things we can see: trees, stars, mountains, oceans, people, penguins, our best friend's smile, elephants, skyscrapers, coffee beans, sunsets, and tulips, to name a few.

God created all those things. He made the natural world, as well as the laws that govern it.

But there are also things we cannot see: behind the breath of the wind, beyond the depths of the universe, beneath the foundations of love. Through Christ, all things were created—in heaven and on earth, both visible and invisible (Colossians 1:16).

And while our mortal eyes might not be able to see the wind or infrared light or the Spirit of God, we still experience their effects. Because there’s more than what meets the eye. There’s more beyond this life.

Paul’s friends, the Corinthians, were experiencing great hardship. They were being hunted and persecuted because of what they believed about Jesus—that He was the long-awaited Messiah. Some were even facing death. But Paul encouraged them to endure such fleeting trials with a hope that’s beyond this world. He wrote:

“So we fix our eyes not on what is seen, but on what is unseen, since what is seen is temporary, but what is unseen is eternal.”
‭‭2 Corinthians‬ ‭4‬:‭18‬ ‭NIV‬‬‬‬‬‬‬

Human eyes can only see so much. Human minds can only grasp so much. But we can trust God with all that we cannot see or comprehend.

God is real. We might not be able to see Him today, with our physical eyes, but we can experience the effects of His life. Jesus sacrificed Himself so that you might live, and an abundant life awaits you—both on earth and in heaven. There is more beyond the here and now.

So, will you fix your eyes on what’s seen or unseen? Will you trust your five senses, or turn your heart to trust in Him?

イエスを中心とするための祈り
A Prayer for Jesus to Be the Center

イエス様、私は今あなたに目を向けています。私の人生にはたくさんのことが起こっていますが、私はあなたがすべての中心であってほしいと思っています。私の目があなたに集中し続けるように助けてください。あなたが見ているものを見て、すべてにおいてあなたを崇拝できるように助けてください。アーメン。

Jesus, I look to you right now. There's so much going on in my life, but I want You to be the center of everything. Help me to keep my eyes focused on You. Help me to see what You see and worship you in everything. Amen.