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他人の利益のために

2024-06-13 21:43:47 | 日記
他人の利益のために

自分の利益よりも他人の利益を優先するとき、私たちはイエスのように愛していることになります。

In the Interest of Others

When we put the welfare of others before our own, we are loving like Jesus.


ピリピ人への手紙 2:3-8 NIV [3] 何事も利己心や虚栄心から行ってはいけません。むしろ、謙遜に互いに相手を自分より大切にしなさい。[4] 自分の利益ではなく、お互いの利益を考えなさい。 [5] 互いに相手との関係において、キリスト・イエスと同じ思いを持ちなさい。[6] キリストは、神のご性質でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 [7] かえって、ご自分を無にして、僕の身分をまとい、人間と同じ者になられました。 [8] そして、人の姿で現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、しかも十字架の死にまで従われました。

‭Philippians 2:3-8 NIV‬ [3] Do nothing out of selfish ambition or vain conceit. Rather, in humility value others above yourselves, [4] not looking to your own interests but each of you to the interests of the others. [5] In your relationships with one another, have the same mindset as Christ Jesus:

[6] Who, being in very nature God, did not consider equality with God something to be used to his own advantage; [7] rather, he made himself nothing by taking the very nature of a servant, being made in human likeness. [8] And being found in appearance as a man, he humbled himself by becoming obedient to death— even death on a cross!


マタイ5:3-10 NIV [3] 「心の貧しい人は幸いです。天国はその人たちのものです。[4] 悲しむ人は幸いです。彼らは慰められるからです。[5] 柔和な人は幸いです。彼らは地を受け継ぐでしょう。[6] 義に飢え渇く人は幸いです。彼らは満たされるでしょう。[7] あわれみ深い人は幸いです。彼らはあわれみを受けるでしょう。[8] 心の清い人は幸いです。彼らは神を見るでしょう。[9] 平和を実現する人は幸いです。彼らは神の子と呼ばれるでしょう。[10] 義のために迫害される人は幸いです。天国はその人たちのものです。

‭Matthew 5:3-10 NIV‬ [3] “Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven. [4] Blessed are those who mourn, for they will be comforted. [5] Blessed are the meek, for they will inherit the earth. [6] Blessed are those who hunger and thirst for righteousness, for they will be filled. [7] Blessed are the merciful, for they will be shown mercy. [8] Blessed are the pure in heart, for they will see God. [9] Blessed are the peacemakers, for they will be called children of God. [10] Blessed are those who are persecuted because of righteousness, for theirs is the kingdom of heaven.


私たちは、まず自分自身を大切にすることが最優先される世界に住んでいます。しかし、フィリピ人への手紙の中で、パウロはクリスチャンは違ったやり方で行動すべきだと示唆しています。「何事も利己心や虚栄心から行わず、謙遜に互いに自分よりも大切な者と考えなさい」(2:3)とパウロは書いています。

We live in a world where taking care of yourself first is often top priority. But in his letter to the Philippians, Paul suggested that Christians are to operate differently. “Do nothing from selfishness or empty conceit,” he wrote, “but with humility consider one another as more important than yourselves” (2:3).


今日では、この言葉が1世紀にどれほど過激であったかに気付かないかもしれません。イエスの山上の垂訓を少し見てみましょう(マタイ5:1-48)。福音の謙遜のより高い基準に到達するために、主は信者の期待を超えることをされました。自分自身を扱うのと同じように他人を扱うことは第一歩ですが、さらに進むと、イエスの謙遜がいかに過激であったかがわかります(ピリピ2:5-8)。

Today, it might be easy to miss how radical this statement was in the first century. Let’s look at Jesus’ Sermon on the Mount for a moment (Matthew 5:1-48). In order to get to the gospel’s higher standard for humility, the Lord pushed beyond what His followers might have expected. Treating others as well as you treat yourself is a start, but go further and you will see how radical Jesus’ humility was (Philippians 2:5-8).


このような謙遜さを養うには、単に謙遜な態度を取る以上のことが求められます。パウロが「何事もむなしい思い上がりから行わないように」と言っているのは、まさにこのためです(フィリピ 2:3)。自分に都合がよい、または利益があるなら、謙遜を装うことは誰でもできます。信者として、私たちは他人を第一に考え、自分の利益よりも他人の利益を優先することが求められています。

Cultivating this kind of humility requires more than simply acting humble. That’s what Paul means when he says we should “do nothing from … empty conceit” (Phil. 2:3). Anyone can feign humility if it suits or benefits them. As believers, our call is to truly consider others first and to look out for their interests before our own.


誰もが自分よりも他人を優先したら、私たちのコミュニティがどのように変わるか想像してみてください。それを実現するためにあなたが実行できる 1 つのステップは何でしょうか?

Imagine how our communities would be transformed if everyone put others before themselves. What’s one step you can take to make that happen?




神に従い、神に逆らわない

2024-06-13 11:05:29 | 日記
神に従い、神に逆らわない

カトリック教会で [Alpha](https://www.alpha.org) が始まったときのことをよく覚えています。ニューキャッスルとヘクサムのアンブローズ司教は、いくつかの英国国教会で [Alpha](https://www.alpha.org) がどのような活動を行っているかを聞きました。彼は興味を持ち、もっと知りたいと思ったのです。
しかし、彼は興味があることを私たちに知らせたくありませんでした。そこで、彼は変装して 2 人のカトリック司祭をロンドンの [Alpha](https://www.alpha.org) 会議に派遣しました。彼らは教区に戻り、[Alpha](https://www.alpha.org) の運営を開始し、大成功を収めました。
その結果、ヒューム枢機卿はウェストミンスター大聖堂でカトリック信者向けの会議を開くよう私たちを招待してくれました。その会場は450人のカトリックの司祭と信徒でいっぱいでした。
カトリック教徒向けの会議を私たちが開催することに対して、非常に批判的な人が数人いました。1、2の教会は、会議を続行すれば[Alpha](https://www.alpha.org)の運営を中止するとさえ脅しました。今にして思えば、反対する人がいるのは非常に異常なことのように思えますが、当時は多少の懸念がありました。
会議の初日の夜、聖霊が大いに注がれ、今まで聞いたことのないような異言の歌が響きました。その夜、私は家に帰り、今日の聖句を読みました。「神が私たちに与えたのと同じ賜物を彼らにも与えたのなら、私が神に逆らえるとどうして思うだろうか。」(使徒行伝 11:17)
彼らにも私たちにも注がれたのは同じ聖霊でした。私たちが協力し続けなければ、私は神に敵対することになるだろうと悟りました。人間が犯す最も愚かなことは、神に敵対することです。
イエスは反対されました。「彼らはイエスを木にかけて殺したが、神は三日目にイエスを死からよみがえらせ、見えるようにされた」(10:39–40)。
対照的に、人間が持つことのできる最も素晴らしい特権は、「神が聖霊と力とをもって油を注がれた」ナザレのイエスに従うことです(10:38)。

‭詩篇 74:10-17 口語訳‬ [10] 神よ、あだはいつまであざけるでしょうか。 敵はとこしえにあなたの名をののしるでしょうか。 [11] なぜあなたは手を引かれるのですか。 なぜあなたは右の手を ふところに入れておかれるのですか。 [12] 神はいにしえからわたしの王であって、 救を世の中に行われた。 [13] あなたはみ力をもって海をわかち、 水の上の龍の頭を砕かれた。 [14] あなたはレビヤタンの頭をくだき、 これを野の獣に与えてえじきとされた。 [15] あなたは泉と流れとを開き、 絶えず流れるもろもろの川をからされた。 [16] 昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。 あなたは光と太陽とを設けられた。 [17] あなたは地のもろもろの境を定め、 夏と冬とを造られた。

神の力

反対に直面したとき、神の力を思い出すのは良いことです。詩編作者は、神の名をののしる敵に直面しています(10節)。彼は、まず自分の人生において(12節)、次にすべての被造物に対して(13~17節)神の力を思い出します。

これらの節は、古代近東の豊かな神話に基づいています。創造は、荒れ狂う海や「怪物」(別名「リヴァイアサン」)によってしばしば表される混沌と破壊の力に対する神々の勝利と見なされていました(13~14節)。太陽と月は神として崇拝されていました。しかし、この詩編で作者はそれらの神話を一掃し、世界を創造し確立したのは神であり、無から秩序をもたらし、「太陽と月を確立した」(16節)と宣言しています。

神との関係よりも「他のもの」を重要視する誘惑は常に存在します。「他の神々」への信仰は、旧約聖書における神の民の主な誘惑と弱点の 1 つでした。この詩篇は、神がどのような方であるか、そして他の神々を追い求めて神に逆らうことがなぜ愚かであるかを私たちに思い出させます。

主よ、あなたが地上に救いをもたらす唯一の真の神であることに感謝します。私の人生において、あなたよりも他の何かを重要視する誘惑に抵抗できるよう助けてください。

‭使徒行伝 10:23-48 口語訳‬ [23] そこで、ペテロは、彼らを迎えて泊まらせた。 翌日、ペテロは立って、彼らと連れだって出発した。ヨッパの兄弟たち数人も一緒に行った。 [24] その次の日に、一行はカイザリヤに着いた。コルネリオは親族や親しい友人たちを呼び集めて、待っていた。 [25] ペテロがいよいよ到着すると、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝した。 [26] するとペテロは、彼を引き起して言った、「お立ちなさい。わたしも同じ人間です」。 [27] それから共に話しながら、へやにはいって行くと、そこには、すでに大ぜいの人が集まっていた。 [28] ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。 [29] お招きにあずかった時、少しもためらわずに参ったのは、そのためなのです。そこで伺いますが、どういうわけで、わたしを招いてくださったのですか」。 [30] これに対してコルネリオが答えた、「四日前、ちょうどこの時刻に、わたしが自宅で午後三時の祈をしていますと、突然、輝いた衣を着た人が、前に立って申しました、 [31] 『コルネリオよ、あなたの祈は聞きいれられ、あなたの施しは神のみ前におぼえられている。 [32] そこでヨッパに人を送ってペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は皮なめしシモンの海沿いの家に泊まっている』。 [33] それで、早速あなたをお呼びしたのです。ようこそおいで下さいました。今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです」。 [34] そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 [35] 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。 [36] あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。 [37] それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。 [38] 神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。 [39] わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。 [40] しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 [41] 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。 [42] それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 [43] 預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。 [44] ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。 [45] 割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。 [46] それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、 [47] 「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。 [48] こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、なお数日のあいだ滞在してもらった。

‭使徒行伝 11:1-18 口語訳‬ [1] さて、異邦人たちも神の言を受けいれたということが、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちに聞えてきた。 [2] そこでペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を重んじる者たちが彼をとがめて言った、 [3] 「あなたは、割礼のない人たちのところに行って、食事を共にしたということだが」。 [4] そこでペテロは口を開いて、順序正しく説明して言った、 [5] 「わたしがヨッパの町で祈っていると、夢心地になって幻を見た。大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、天から降りてきて、わたしのところにとどいた。 [6] 注意して見つめていると、地上の四つ足、野の獣、這うもの、空の鳥などが、はいっていた。 [7] それから声がして、『ペテロよ、立って、それらをほふって食べなさい』と、わたしに言うのが聞えた。 [8] わたしは言った、『主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません』。 [9] すると、二度目に天から声がかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。 [10] こんなことが三度もあってから、全部のものがまた天に引き上げられてしまった。 [11] ちょうどその時、カイザリヤからつかわされてきた三人の人が、わたしたちの泊まっていた家に着いた。 [12] 御霊がわたしに、ためらわずに彼らと共に行けと言ったので、ここにいる六人の兄弟たちも、わたしと一緒に出かけて行き、一同がその人の家にはいった。 [13] すると彼はわたしたちに、御使が彼の家に現れて、『ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。 [14] この人は、あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう』と告げた次第を、話してくれた。 [15] そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。 [16] その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。 [17] このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。 [18] 人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と言った。

神の霊

聖霊はペテロを幻を通してコルネリオの家へ導きました。ペテロがそこに着くと、神が別の幻を通してコルネリオにも語っていたことを知りました。これを聞いてペテロは「良い知らせで大いに喜びました」(10:34、MSG)- 万物の主であるイエス・キリストを通しての平和の良い知らせです(36節)。

ギリシャ語の「平和」はヘブライ語の「シャローム」の意味を帯びています。それは敵意がないという以上の意味を持っています。それは「完全」、「健全」、「幸福」、「あらゆる祝福と善」を意味します。それは人々の間の調和と一致を意味します。それは霊的な幸福、神の恵みの下で生きることを意味します。

良い知らせは、イエス・キリストを通して神との平和があなたにはあるということです。十字架上でのイエスの死は、あなたと神との和解をもたらしました。イエスは平和を作り、あなたはその平和を贈り物として受け取りました。

あなたも、他の人を神との平和に導くよう努め、家庭、職場、教会、地域社会、国家に平和をもたらすとき、平和の創造者になるべきです。

ペテロは続けて、「神がナザレのイエスに聖霊と力とを注がれたこと、そしてイエスが巡り歩いて善を行い、神が共におられたので、悪魔に支配されていたすべての人を癒されたこと」について語ります(38節)。ペテロは十字架と復活、信仰と罪の赦しについて語りました(43節)。

ペテロがイエスについての良い知らせを宣べ伝えている間に、聖霊がメッセージを聞いたすべての人に降りてきました(44節)。「ペテロと一緒に来た信仰深いユダヤ人たちは、聖霊の賜物が「よそ者」である非ユダヤ人に注がれたことを信じられなかった」(45節、MSG)。

彼らは、これが聖霊の注ぎであることを知っていました。なぜなら、ペンテコステの日に使徒たちに起こったことが、今このグループに起こっているからです。「彼らが異言を話し、神を賛美しているのを彼らは聞いたからです」(46節)。

ペテロの答えは、「だれが、この人たちが水で洗礼を受けるのを妨げられるでしょうか。彼らも私たちと同じように聖霊を受けたのです」(47節)でした。

この知らせはすぐに広まりました。ユダヤ人の信者たちは、これらの「非ユダヤ人」と「肩を並べる」ことで自分たちの名誉が損なわれるのではないかと心配していました(11:3、MSG)。

当時そこにいなかった人たちは「彼を批判した」(2節)。しかしペテロは説明しています(4節)。彼は聖霊に導かれた経緯を語ります。「聖霊が私に告げた…」(12節)。

彼は続けて言います。「私が話し始めると、聖霊が彼らにも臨みました。初めに私たちに臨んだのと同じです…ですから、神が主イエス・キリストを信じる私たちに与えてくださったのと同じ賜物を彼らにも与えてくださったのなら、私が神に逆らえると考えたはずがありません」(15~17節)。

「このようにすべてを説明すると、彼らは静まりました。そして、理解が深まると、彼らは神を賛美し始めました。「本当に起こったのです!神は他の国々にまで突き進み、彼らを命へと導いたのです!」(18節、MSG)。ペテロの説明は批判に対する答えでした。批判されたとき、答えは単に説明をすることです。

主よ、あなたを信じるすべての人に、彼らが教会や宗派のどの部分から来ているかに関係なく、同じ聖霊の賜物が与えられていることを私たちは見ることができて感謝します。私たちが決してあなたに反対するのではなく、あなたの聖霊の導きに従うことができますように。

1列王記

1-2:12

神の油注ぎ

ソロモンは神に油を注がれたダビデの後継者でした。祭司ザドクと預言者ナタンが彼をイスラエルの王に油を注いだのです(1:34)。

アドニヤは神に頼らずに自らを王にしようとしたという過ちを犯しました。「彼は自ら進んで言った。『私が王になる』」(5節)。神を無視するのは愚かなことです。この場合、それは実際にソロモンに対する神の計画に反対することを意味しました。彼は成功しませんでした。

ダビデは油を注がれた後継者に次の命令を与えました。「私は全地の人々が行く道を歩もうとしているが、あなたは強くあれ。あなたの本性を見せよ。神があなたに告げることを行え。神が示す道を歩め。人生の地図に絶対に従い、道しるべ、モーセへの啓示で示された人生の道筋に目を光らせよ。そうすれば、何をしても、どこへ行ってもうまくいくだろう」(2:2–3、MSG)。

ダビデの言葉は、私たちにとって素晴らしい教訓です。神がすべての信者に聖霊を注いでくださったからといって、神の言葉に従う必要性がなくなるわけではありません。神の言葉に従うこと (3a 節) は、神の油注ぎ (3b 節) を伴わなければなりません。あなたには神の御霊が与えられ、神の言葉に従う力を与えられます。

ダビデもソロモンも、イスラエルの他のどの王も、神の法令や命令を完全に守ることはできませんでした。ダビデ王朝の最後の王であるイエスだけが、完全に従順で永遠の、油を注がれた王です。イエスは「心と魂を尽くして、神の前に忠実に歩む」方です (4 節)。

ユージン・ピーターソンが言うように、列王記は「失敗の容赦ない説明」です。しかし、神は主権の目的を遂行し続け、しばしば静かに隠れて行われます。 神の主権は、たとえ深刻な罪を犯した指導者(「王」)によっても無効にされることはありません。これは、あなたの人生、あなたの教会、そしてあなたの文化において神の主権を信頼できることを意味します。

主よ、神が聖霊と力で油を注がれたイエスに従うことができるよう、私を助けてください。私が「反対と敵」に直面するとき、あなたの聖霊の力と油注ぎが必要です。私が決して神に反対する立場に立たされることのないよう、私を助けてください。私が強くなり、あなたの道を歩み、全身全霊であなたの前に忠実に歩むことができるよう、私を助けてください(4節)。

ピッパの補足
列王記上 1 章には、次のように書かれています。

「ダビデ王は年老いて、かなり年老いていたため、毛布をかけても暖まることができませんでした。そこで家来たちは彼に言いました。『王に仕えて世話をするために、若い処女を捜しましょう。彼女が王のそばに寝れば、私たちの主君である王が暖まるでしょう。』」(1-2 節)

私はダビデ王にとても同情しています。私は寒さがひどく苦手です。でも、彼にとっての解決策はよくわかりません。湯たんぽのほうがいいと思います。

恐怖を克服する

2024-06-13 09:45:32 | 日記
‭サムエル記上 19:1-24 口語訳‬ [1] サウルはその子ヨナタンおよびすべての家来たちにダビデを殺すようにと言った。しかしサウルの子ヨナタンは深くダビデを愛していた。 [2] ヨナタンはダビデに言った、「父サウルはあなたを殺そうとしています。それゆえあすの朝、気をつけて、わからない場所に身を隠していてください。 [3] わたしは出て行って、あなたがいる野原で父のかたわらに立ち、父にあなたのことを話しましょう。そして、何かわたしにわかれば、あなたに告げましょう」。 [4] ヨナタンは父サウルにダビデのことをほめて言った、「王よ、どうか家来ダビデに対して罪を犯さないでください。彼は、あなたに罪を犯さず、また彼のしたことは、あなたのためになることでした。 [5] 彼は命をかけて、あのペリシテびとを殺し、主はイスラエルの人々に大いなる勝利を与えられたのです。あなたはそれを見て喜ばれました。それであるのに、どうしてゆえなくダビデを殺し、罪なき者の血を流して罪を犯そうとされるのですか」。 [6] サウルはヨナタンの言葉を聞きいれた。そしてサウルは誓った、「主は生きておられる。わたしは決して彼を殺さない」。 [7] ヨナタンはダビデを呼んでこれらのことをみなダビデに告げた。そしてヨナタンがダビデをサウルのもとに連れてきたので、ダビデは、もとのようにサウルの前にいた。 [8] ところがまた戦争がおこって、ダビデは出てペリシテびとと戦い、大いに彼らを殺したので、彼らはその前から逃げ去った。 [9] さてサウルが家にいて手にやりを持ってすわっていた時、主から来る悪霊がサウルに臨んだので、ダビデは琴をひいていたが、 [10] サウルはそのやりをもってダビデを壁に刺し通そうとした。しかし彼はサウルの前に身をかわしたので、やりは壁につきささった。そしてダビデは逃げ去った。 [11] その夜、サウルはダビデの家に使者たちをつかわして見張りをさせ、朝になって彼を殺させようとした。しかしダビデの妻ミカルはダビデに言った、「もし今夜のうちに、あなたが自分の命を救わないならば、あすは殺されるでしょう」。 [12] そしてミカルがダビデを窓からつりおろしたので、彼は逃げ去った。 [13] ミカルは一つの像をとって、寝床の上に横たえ、その頭にやぎの毛の網をかけ、着物をもってそれをおおった。 [14] サウルはダビデを捕えるため使者たちをつかわしたが、彼女は言った、「あの人は病気です」。 [15] そこでサウルは、ダビデを見させようと使者たちをつかわして言った、「彼を寝床のまま、わたしの所に連れてきなさい。わたしが彼を殺そう」。 [16] 使者たちがはいって見ると、寝床には像が横たえてあって、その頭には、やぎの毛の網がかけてあった。 [17] サウルはミカルに言った、「あなたはどうして、このようにわたしを欺いて、わたしの敵を逃がしたのか」。ミカルはサウルに答えた、「あの人はわたしに『逃がしてくれ。さもないと、おまえを殺す』と言いました」。 [18] ダビデは逃げ去り、ラマにいるサムエルのもとへ行って、サウルが自分にしたすべてのことを彼に告げた。そしてダビデとサムエルは行ってナヨテに住んだ。 [19] ある人がサウルに「ダビデはラマのナヨテにいます」と告げたので、 [20] サウルは、ダビデを捕えるために、使者たちをつかわした。彼らは預言者の一群が預言していて、サムエルが、そのうちの、かしらとなって立っているのを見たが、その時、神の霊はサウルの使者たちにも臨んで、彼らもまた預言した。 [21] サウルは、このことを聞いて、他の使者たちをつかわしたが、彼らもまた預言した。サウルは三たび使者たちをつかわしたが、彼らもまた預言した。 [22] そこでサウルはみずからラマに行き、セクの大井戸に着いた時、問うて言った、「サムエルとダビデは、どこにおるか」。ひとりの人が答えた、「彼らはラマのナヨテにいます」。 [23] そこでサウルはそこからラマのナヨテに行ったが、神の霊はまた彼にも臨んで、彼はラマのナヨテに着くまで歩きながら預言した。 [24] そして彼もまた着物を脱いで、同じようにサムエルの前で預言し、一日一夜、裸で倒れ伏していた。人々が「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」というのはこのためである。

‭1 Samuel 19:1-24 NIV‬ [1] Saul told his son Jonathan and all the attendants to kill David. But Jonathan had taken a great liking to David [2] and warned him, “My father Saul is looking for a chance to kill you. Be on your guard tomorrow morning; go into hiding and stay there. [3] I will go out and stand with my father in the field where you are. I’ll speak to him about you and will tell you what I find out.” [4] Jonathan spoke well of David to Saul his father and said to him, “Let not the king do wrong to his servant David; he has not wronged you, and what he has done has benefited you greatly. [5] He took his life in his hands when he killed the Philistine. The Lord won a great victory for all Israel, and you saw it and were glad. Why then would you do wrong to an innocent man like David by killing him for no reason?” [6] Saul listened to Jonathan and took this oath: “As surely as the Lord lives, David will not be put to death.” [7] So Jonathan called David and told him the whole conversation. He brought him to Saul, and David was with Saul as before. [8] Once more war broke out, and David went out and fought the Philistines. He struck them with such force that they fled before him. [9] But an evil spirit from the Lord came on Saul as he was sitting in his house with his spear in his hand. While David was playing the lyre, [10] Saul tried to pin him to the wall with his spear, but David eluded him as Saul drove the spear into the wall. That night David made good his escape. [11] Saul sent men to David’s house to watch it and to kill him in the morning. But Michal, David’s wife, warned him, “If you don’t run for your life tonight, tomorrow you’ll be killed.” [12] So Michal let David down through a window, and he fled and escaped. [13] Then Michal took an idol and laid it on the bed, covering it with a garment and putting some goats’ hair at the head. [14] When Saul sent the men to capture David, Michal said, “He is ill.” [15] Then Saul sent the men back to see David and told them, “Bring him up to me in his bed so that I may kill him.” [16] But when the men entered, there was the idol in the bed, and at the head was some goats’ hair. [17] Saul said to Michal, “Why did you deceive me like this and send my enemy away so that he escaped?” Michal told him, “He said to me, ‘Let me get away. Why should I kill you?’ ” [18] When David had fled and made his escape, he went to Samuel at Ramah and told him all that Saul had done to him. Then he and Samuel went to Naioth and stayed there. [19] Word came to Saul: “David is in Naioth at Ramah”; [20] so he sent men to capture him. But when they saw a group of prophets prophesying, with Samuel standing there as their leader, the Spirit of God came on Saul’s men, and they also prophesied. [21] Saul was told about it, and he sent more men, and they prophesied too. Saul sent men a third time, and they also prophesied. [22] Finally, he himself left for Ramah and went to the great cistern at Seku. And he asked, “Where are Samuel and David?” “Over in Naioth at Ramah,” they said. [23] So Saul went to Naioth at Ramah. But the Spirit of God came even on him, and he walked along prophesying until he came to Naioth. [24] He stripped off his garments, and he too prophesied in Samuel’s presence. He lay naked all that day and all that night. This is why people say, “Is Saul also among the prophets?”

恐怖を克服する
Overcoming Fear

多くの人は、恐怖の反対は希望、勇気、強さだと考えています。恐怖の本当の反対は信仰です。恐怖が麻痺を引き起こすと、人の平穏が失われるだけでなく、その平穏の基盤、つまり信仰が攻撃されます。恐怖が存在すると、平穏は窓の外に消えてしまいます。

Many people think the opposite of fear is hope, courage, or strength. The true opposite of fear is faith. And when fear causes paralysis, it not only quenches one’s peace, but it attacks the foundation of that peace—namely, our faith. Peace goes out the window when fear is present.

恐れの多くは、神がそこにいて、正義や助けを与え、目の前の危機に対処できるかどうかという疑いに根ざしています。信仰は、「そうです、神はここにいます。そうです、神は備えてくださいます。そうです、神はすべてのことを行うことができます!」と言います。

Much of fear is rooted in doubt that God will be present, provide justice or help, or be capable of dealing with the crisis at hand. Faith says, “Yes, God is here. Yes, God will provide. Yes, God is capable of all things!”

恐怖の多くは脅迫に根ざしています。脅迫的な言葉や脅迫的な行動が原因となることもあります。フェイスはこう言います。「私は脅迫によってトラウマを負うことはありません。恐れることなく、賢明に行動します。神がどんな脅迫も決して起こらないようにしてくださると信じています。そして、もし脅迫が実際に起こったとしても、神が私に投げつけられるどんなことにも対処できるよう助けてくださると信じています。」

Much of fear is rooted in threats—sometimes threatening words, sometimes threatening behavior. Faith says, “I will not be traumatized by threats. I will act wisely, not fearfully. I believe God will prevent whatever the threat is from ever coming to pass. And if the threat does come to pass, I believe God will help me deal with whatever is thrown at me.”

イスラエル王サウルは、神が(彼の傲慢さと不従順のせいで)油注ぎと祝福の手を彼から取り去り、代わりに若者ダビデに与えたことに気づいたとき、激怒しました。彼はダビデを見つけて殺す運動を始めました。自分の命からこの脅威を取り除くためでした(サムエル記上 19章)。一方、ダビデはサウルの軍隊に脅かされていると感じ、何度か命の危険を感じました。しかし、聖書は、ダビデが、彼を守り、いつの日かイスラエルの王にするという神の約束によって強められたことを語っています。

When Saul, king of Israel, realized that God had taken His hand of anointing and blessing from him (because of his arrogance and disobedience) and had placed it instead upon the young man, David, he was furious. He began a campaign to find David and kill him—to remove this threat from his life (1 Sam. 19). On the other hand, David felt threatened by Saul’s army and on several occasions feared for his life. But Scripture tells us that David was strengthened by God’s promises to protect him and one day make him king of Israel.

現代社会では、病気や事故、危険に脅かされながらも、拒絶、敗北、そして時には勝利といった不確かな結末に向かって突き進んだ人々の話を聞くことがよくあります。北極探検家、オリンピック選手、宣教師、ベンチャーキャピタリスト、慈善家などが思い浮かびます。ですから、脅威に阻まれて行動が制限される必要はありません。

In our modern world, we often read of people who, in spite of intimidation by disease, accident, or danger, pressed ahead to uncertain outcomes—rejection, defeat, and, yes, sometimes victory. Arctic explorers, Olympic athletes, missionaries, venture capitalists, and philanthropists come to mind. So threats do not have to stymie and cripple us.

脅威にさらされている時代に私たちが直面する課題は、現実になるかもしれないことに焦点を当てることではなく、真実であると確信できることに焦点を当てることです。

Our challenge in times of threat is not to focus on what might become a reality, but rather, to focus on what we can count on being true.

今日、多くの人々が脅威の暗い雲の下で暮らしています。病気の脅威にさらされている人もいれば、子供が怪我をする恐れに直面している人もいれば、失業に関する脅威を聞いている人もいます。

Many people are living under a dark cloud of threat today. Some are experiencing the threat of disease, some are facing the threats of injury to their children, and some are hearing threats related to the loss of their job.

これらすべての種類の脅威に対する答えは、神について、そして神が私たちを愛し、気遣ってくださっていること、そして私たちが必要とするものすべて、特にどんな困難も乗り越える助けとなる神の平安を与えてくださることについて、私たちが真実であると知っていることを信じることです。

The answer to all these types of threats is faith in what we know to be true about God and about His love and care for us and His ability to provide for all we need—especially His peace, which can help carry us through anything.

回復のために休む

2024-06-13 01:01:10 | 日記
マルコ6:31-32 NIV [31] すると、大勢の人が出入りしていて、食事をする暇もなかったので、イエスは彼らに言われた。「わたしと一緒に静かな場所に来て、少し休みなさい。」 [32] そこで彼らは舟に乗って、寂しい所へ行った。

‭Mark 6:31-32 NIV‬ [31] Then, because so many people were coming and going that they did not even have a chance to eat, he said to them, “Come with me by yourselves to a quiet place and get some rest.” [32] So they went away by themselves in a boat to a solitary place.

回復のために休む

急ぐ。せかせかする。行く。やる。達成する。直す。あなたの一日のうち、このような考えが頭の片隅にある状態で始まる日がいくつありますか? 大人になると、やるべきことが山ほどあるのに時間が足りないというプレッシャーに悩まされます。期限、支払うべき請求書、話すべき人、注意を払うべきことなど、さまざまなものがあります。

子供の頃と同じように、私たちは、たとえ家事リストを終わらせなかったとしても、時には休む時間があることを思い出す必要があります。イエスの弟子たちは元気で技術力のある健康な男性でしたが、絶え間なく押し寄せるニーズに対応するストレスに圧倒されてしまいました。イエスはこれに気づき、彼らを一人になって、必要な休息を取るように呼びました。

どんなに能力が高くても、私たちには限界があります。並外れたエネルギーと情熱を持っている人でも、休息の時間が必要です。それは失敗の兆候ではありません。神への信頼の兆候です。

イエスは昼寝をし、元気を取り戻して休むために一人で時間を過ごしました。 イエスは弟子たちにも同じことをするように計画しました。イエスのパターンと招待は私たちにも当てはまります。イエスは私たちが休息を必要としていることをご存知です。

もしあなたが疲れ果てているなら、イエスはどのようにしてあなたを離れてイエスの御前で休むように招いているのでしょうか。周りを見回して、疲れ果てて重荷を背負っている人たち(おそらく食事さえ休まない)を見たら、彼らに休憩を取るよう助けることでどのように彼らを祝福できるでしょうか。

Resting to Restore

Hurry. Hustle. Go. Do. Achieve. Fix. How many of your days begin with thoughts like these at the front of your mind? Adulthood is marked by the pressures of so much to do and never enough time. There are due dates, bills to pay, people to speak to, and things that demand our attention.

We need reminding—as we did when we were children—sometimes it’s time to rest, even if we didn’t get our list of chores done. Jesus’ disciples were healthy men with energy and skills, but even they became overwhelmed by the strain of attending to a constant stream of needs. Jesus noticed this and called them away to be alone and get some much-needed rest.

No matter how great our capacity is, we all have limits. Even those with tremendous energy and passion need time to rest. It's not a sign of failure. It's a sign of trust in God.

Jesus took naps and spent time alone to regroup and rest. He made plans for His disciples to do the same. His pattern and invitation are there for us, too. He knows we need downtime.

If you’re exhausted, how might Jesus be inviting you to get away and rest in His presence? As you look around and see others who are weary and heavy-laden—maybe not even stopping to eat—how might you bless them by helping them to take a break?

イエス様、あなたは私の魂を回復させるために私を緑の牧草地や静かな水辺に導いてくださる善き羊飼いです。私が圧倒され疲れているときにそれに気づき、あなたの御前で休むというあなたの招きを受け入れることができるように助けてください。アーメン。

Jesus, You are the Good Shepherd who leads me into green pastures and beside quiet waters to restore my soul. Help me notice when I’m overwhelmed and tired and then accept Your invitation to rest in Your presence. Amen.