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私たちの理解を超えて

2024-06-14 18:29:13 | 日記
私たちの理解を超えて

愛は、障害があっても、私たちが他の人に向かって進む動機となります。

ピリピ人への手紙 2:5-8 NIV [5] 互いに交わり合う際には、キリスト・イエスの思いを抱きなさい。[6] キリストは神のご性​​質でありながら、神と等しい者であることに固執せず、[7] かえって自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じ者になられました。[8] そして、人の姿で現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、しかも十字架の死にまで従われました。

‭Philippians 2:5-8 NIV‬ [5] In your relationships with one another, have the same mindset as Christ Jesus: [6] Who, being in very nature God, did not consider equality with God something to be used to his own advantage; [7] rather, he made himself nothing by taking the very nature of a servant, being made in human likeness. [8] And being found in appearance as a man, he humbled himself by becoming obedient to death— even death on a cross!

イエスは、しもべとしての完璧な模範でした。「イエスは、ご自分を無にして、奴隷の姿をとり、… へりくだって、死に至るまで従順になりました。」(ピリピ人への手紙 2:7-8)言い換えれば、イエスは私たちを贖い、罪から救うために、神性を捨て去ったのです。

5節でパウロは、私たちもこの態度を持つべきだと言っています。しかし、私たちは人類の救済のために自分を犠牲にするよう求められているわけではないので、同じ謙遜さは私たちにも可能なのでしょうか。はい、確実性と安全を求める気持ちが、周りの人々に近づくこと、そしてさらに重要なことに、彼らを愛し受​​け入れることを妨げるのを拒むことによって、可能です。

クリスチャンとして、私たちは、他の人々がまだ福音の現実と約束を受け入れていないことを知っています。自分自身に問いかけてください。イエスは彼らにどのように近づくでしょうか。今日の聖句は私たちにこう告げています。「イエスは神でありながら、自分を空にされました。イエスは、他の人々がまさにいた場所に出向くために、愛と謙遜さをもって謙虚に手を差し伸べました。」

イエスのように、私たちは愛と慈悲の心で他の人に近づくことができます。それは自己犠牲的な生き方です。私たちの従順は肉体の死につながるわけではありませんが、他の人がキリストを知り、キリストが与えてくださる豊かな人生を経験できるように、私たちは古い生き方を捨てなければなりません。

御霊の実 – 忠実さ

2024-06-14 18:18:48 | 日記
御霊の実 – 忠実さ

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁じる律法はありません。」(ガラテヤ人への手紙 5:22-23)

「実際に見なければ信じない」

あなたはこんな風に考えたことはありませんか?

疑いや皮肉の考え方に陥るのは簡単です。私たちは壊れた世界に住んでおり、他人への信頼を失うような辛い経験をしたことがあるかもしれません。

このため、聖霊の実である忠実さは、身につけるのが難しい特性となることがあります。

忠実さは信頼と忠誠心から生まれます。ヘブル人への手紙 11 章 1 節には、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、見ていない事実を確認することです」とあります。

キリスト教徒として、神に忠実であることは重要です。神を信じるということと、神に忠実であることは別問題です。神に本当に忠実であるとき、それが私たちの生き方を形作ります。たとえば、私たちはこの地上での人間関係において誠実であり、他の人を心から愛することができます。

忠実であるためには、神に自分のやり方を従う必要があります。それは、自分たちには救い主が必要であり、救い主が私たちの人生を支配しておられることを認識することから生まれます。

箴言19章21節には、「人の心には多くの計画がある、しかし主の計らいは必ず成る」とあります。神が私たちに対して忠実であるように、私たちも神に対して忠実でなければなりません。

聖書の中で、アブラハムの物語は忠実さの大切さを示しています。アブラハムと妻のサラは神を信頼するのに苦労しましたが、神に従うことで忠実さの価値を学びました。

例えば、アブラハムとサラは、神が息子を与えるという約束を果たすのを何年も待ちました。サラは信仰が足りなかったため、召使いのハガルに息子を産むよう強く求めました。その結果、苦しみと葛藤が生じました。しかし、アブラハムとサラが神に信仰を置いたとき、サラは出産年齢を過ぎていたにもかかわらず、イサクを産むことができました。

結局のところ、アブラハムの物語は、神が忠実で神の計画を信頼する人々を祝福する様子を示しています。

では、私たちはどのように忠実さを増すのでしょうか?

キリストと個人的な関係を持つことで、私たちは忠実さを増すことができます。私たちが本当に主に忠実であり、主の命令に従うなら、それは私たちの生活に明らかになります。

私が皆さんに課す課題は、神への忠誠心をどのように示すかを考えることです。あなたの忠誠心を邪魔するものはありますか?人生のどの部分を神に委ねていないでしょうか?祈りに時間を費やして、これらのことを明らかにしてくださり、神があなたの忠誠心を成長させてくだされるようお願いしてください。

あなたの祈りは変化をもたらします

2024-06-14 18:08:06 | 日記
あなたの祈りは変化をもたらします

聖ヨハネ・クリュソストムス(349-407)はこう書いています。「祈りは…千の祝福の根源であり、泉であり、母である…祈りの力は火の力を鎮め、ライオンの怒りを抑え…戦争を鎮め、自然を鎮め、悪魔を追い払い、死の鎖を断ち切り、天国の門を広げ、病気を和らげ…都市を破壊から救い…雷の進行を止めた。」
私たちの教会の敷地内にある[HTB](https://www.htb.org/)には、24時間年中無休の祈祷室があります。その部屋に行って神と二人きりで過ごすのは、私にとって1週間のハイライトの一つでした。祈りは、私たちが[HTB](https://www.htb.org/)で行うすべてのことの根源であり源です。昼夜を問わず、毎時間、誰かがその部屋で祈っていることを知ることは、大きな励みになります。

‭箴言 15:1-10 口語訳‬ [1] 柔らかい答は憤りをとどめ、 激しい言葉は怒りをひきおこす。 [2] 知恵ある者の舌は知識をわかち与え、 愚かな者の口は愚かを吐き出す。 [3] 主の目はどこにでもあって、 悪人と善人とを見張っている。 [4] 優しい舌は命の木である、 乱暴な言葉は魂を傷つける。 [5] 愚かな者は父の教訓を軽んじる、 戒めを守る者は賢い者である。 [6] 正しい者の家には多くの宝がある、 悪しき者の所得には煩いがある。 [7] 知恵ある者のくちびるは知識をひろめる、 愚かな者の心はそうでない。 [8] 悪しき者の供え物は主に憎まれ、 正しい者の祈は彼に喜ばれる。 [9] 悪しき者の道は主に憎まれ、 正義を求める者は彼に愛せられる。 [10] 道を捨てる者には、きびしい懲らしめがあり、 戒めを憎む者は死に至る。

祈り、祝福する

箴言の著者は、「邪悪な者」と祈る者を対比しています。「神に忠実な人々の人生は栄える…彼は真の祈りを喜ぶ。無駄にされた人生は神をうんざりさせる。彼はゴールに向かってまっすぐに走る人々を愛する」(6a、8b、9節、MSG)。このように生きるなら、あなたは他の人々に大きな祝福をもたらすでしょう。

この点の重要な側面は、あなたが何を言うかです。あなたの言葉は人生を変えることができます。「辛辣な言葉は傷つけ、不具にする」のに対し、「優しい言葉は癒し、助ける」のです(4節、MSG)。他の人が私たちに対して怒っているときでも、「優しい対応は怒りを和らげる」ことを思い出してください(1a節、MSG)。あなたの言葉を使って他の人を癒し、助け、励ましてください。「癒しをもたらす舌は命の木です」(4節)。

主よ、私が祈り、言葉を使って他の人に祝福をもたらすことができるよう助けてください。

‭使徒行伝 11:19-30 口語訳‬ [19] さて、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。 [20] ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシヤ人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。 [21] そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった。 [22] このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。 [23] 彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。 [24] 彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。 [25] そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、 [26] 彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。 [27] そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケにくだってきた。 [28] その中のひとりであるアガボという者が立って、世界中に大ききんが起るだろうと、御霊によって預言したところ、果してそれがクラウデオ帝の時に起った。 [29] そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた。 [30] そして、それをバルナバとサウロとの手に託して、長老たちに送りとどけた。

‭使徒行伝 12:1-19 口語訳‬ [1] そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、 [2] ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した。 [3] そして、それがユダヤ人たちの意にかなったのを見て、さらにペテロをも捕えにかかった。それは除酵祭の時のことであった。 [4] ヘロデはペテロを捕えて獄に投じ、四人一組の兵卒四組に引き渡して、見張りをさせておいた。過越の祭のあとで、彼を民衆の前に引き出すつもりであったのである。 [5] こうして、ペテロは獄に入れられていた。教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた。 [6] ヘロデが彼を引き出そうとしていたその夜、ペテロは二重の鎖につながれ、ふたりの兵卒の間に置かれて眠っていた。番兵たちは戸口で獄を見張っていた。 [7] すると、突然、主の使がそばに立ち、光が獄内を照した。そして御使はペテロのわき腹をつついて起し、「早く起きあがりなさい」と言った。すると鎖が彼の両手から、はずれ落ちた。 [8] 御使が「帯をしめ、くつをはきなさい」と言ったので、彼はそのとおりにした。それから「上着を着て、ついてきなさい」と言われたので、 [9] ペテロはついて出て行った。彼には御使のしわざが現実のこととは考えられず、ただ幻を見ているように思われた。 [10] 彼らは第一、第二の衛所を通りすぎて、町に抜ける鉄門のところに来ると、それがひとりでに開いたので、そこを出て一つの通路に進んだとたんに、御使は彼を離れ去った。 [11] その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。 [12] ペテロはこうとわかってから、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行った。その家には大ぜいの人が集まって祈っていた。 [13] 彼が門の戸をたたいたところ、ロダという女中が取次ぎに出てきたが、 [14] ペテロの声だとわかると、喜びのあまり、門をあけもしないで家に駆け込み、ペテロが門口に立っていると報告した。 [15] 人々は「あなたは気が狂っている」と言ったが、彼女は自分の言うことに間違いはないと、言い張った。そこで彼らは「それでは、ペテロの御使だろう」と言った。 [16] しかし、ペテロが門をたたきつづけるので、彼らがあけると、そこにペテロがいたのを見て驚いた。 [17] ペテロは手を振って彼らを静め、主が獄から彼を連れ出して下さった次第を説明し、「このことを、ヤコブやほかの兄弟たちに伝えて下さい」と言い残して、どこかほかの所へ出て行った。 [18] 夜が明けると、兵卒たちの間に、ペテロはいったいどうなったのだろうと、大へんな騒ぎが起った。 [19] ヘロデはペテロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえ、彼らを死刑に処するように命じ、そして、ユダヤからカイザリヤにくだって行って、そこに滞在した。

情熱を持って祈る

それは今日のロンドン、パリ、ニューヨークに相当するものでした。ギリシャの都市アンティオキアは、東方における裕福で国際的な首都の 1 つでした。アンティオキアは、その建物や文化、そして緩い道徳基準と蔓延する腐敗で有名でした。

この都市は変貌し、著名なキリスト教都市となり、異邦人世界全体へのキリスト教宣教の出発点となりました。主の御手が彼らとともにあり、「大勢の人々が信じて主に立ち返った」(11:21)。

神はバルナバをお使いになりました。バルナバの名前は「励ましの子」という意味です。励ましとは、お世辞や空虚な賞賛ではなく、言葉による太陽の光のようなものです。何の費用もかからず、人々の心を温め、希望と信仰への自信を与えます。私たちはバルナバのような人を周囲に必要としています。あなたも他の人々にとってバルナバのようになれます。

バルナバは「皆を励まし、心から主に忠実であり続けた。彼は良い人で、聖霊と信仰に満ちていた。そして、大勢の人が主のもとに導かれた」(23~24節)。

それは突発的な訪問ではありませんでした。「バルナバとサウロは丸一年、教会に集まり、大勢の人々を教えた。弟子たちはアンティオキアで初めてキリスト教徒と呼ばれた」(26節)。

資金援助がありました。各自が「自分の能力に応じて…援助」し、困っている人たちを助けました(29節)。これはクリスチャンコミュニティの重要な原則です。援助できる人ができない人のためにお金を払うのです。

これは大きな祝福と教会の大きな成長の時期でした。しかし、彼らは反対の波にも直面しました。

ユダヤ王ヘロデ・アグリッパ1世(紀元前10年頃~紀元後44年)は残酷な性格で、キリスト教徒を迫害しました。彼は民衆の人気を得ようとした悪徳政治家でした(12:1~3)。彼はヤコブを処刑しました。ペテロは牢獄にいて、ヘロデは公衆のリンチを計画しました(4節、MSG)。

ペテロは4人の兵士からなる4つの分隊に監視されていました(4節)。彼は通常の2倍の警備員を従え、両手に鎖をはめていました(6節)。ペテロ自身は「赤ん坊のように眠った」(6節、MSG)。良心の清らかさほど柔らかい枕はありません!

教会は、一見不可能と思われる状況に直面しました。初期の教会の存在そのものが危機に瀕しているようでした。彼らはどうしたでしょうか。一見不可能と思われる状況で、あなたは何をすべきでしょうか。その答えは、5節にあります。「教会は、ペテロのために神に熱心に祈っていた。」

*神に*祈る
祈るとき、あなたはただ独り言を言ったり、聞く人に感銘を与えるために雄弁な祈りを捧げているのではありません。神への祈りは、神と会うことを意味します。それは実際に神の前に出て、求め、受け取ることを意味します。

一緒に祈る
「教会は」(5節)一緒に祈りました。「大勢の人が集まって祈っていた」(12節)。新約聖書は個人的な祈りについて多くを教えていますが、一緒に祈ることについてはさらに多くを教えています。

*情熱的に*祈る
彼らがまったく祈らなかった理由は2つあります。第一に、ヤコブは処刑されていました(2節)。神はヤコブに対する彼らの祈りに答えませんでした。その理由は分かりません。しかし、彼らは祈ることをやめませんでした。

第二に、ペテロの状況は不可能に思えました。彼らの選択は、祈るのをやめるか、熱心に祈るかのどちらかでした。ギリシャ語の「エクテノス」(ここでは「熱心に」と訳されています)は、全速力で走る馬を表すのに使われました。これは、運動選手のように、精力的で持続的な努力によって緊張した筋肉を意味します。

未完了形は、彼らが一度きりの祈りではなく、かなり長い間祈ったことを示唆しています。彼らは粘り強く祈りました。

他の人のために祈る
彼らはペテロのために祈りました(5節)。祈りには礼拝、賛美、感謝、嘆願など多くの種類がありますが、ここでは執り成しの祈りについて書かれています。彼らはペテロを愛していたので、彼のために祈りました。執り成しの祈りは愛の行為です。

歴史は執り成しをする人たちのものです。あなたは祈りを通してあなたの世代を形作ることができます。あなたは歴史の流れに影響を与えることができます。

これは並外れた祈祷会であり、その結果は明らかです(6-15節)。彼らの祈りに応えて、神は超自然的に行動しました。ペテロは裁判の前夜に解放されました。神の答えには幻、天使、鎖が外れるというものでした(6-9節)。障害は取り除かれました。警備員は囚人の逃走を阻止せず、町への鉄の門が彼らの前に開きました(10節)。

その後、ペテロは祈祷会に現れましたが、彼の解放はあまりにも異例なことだったので、ドアを開けた少女ローダは彼を中に入れ忘れ、誰もそれが本当に彼だと信じませんでした(12~15節)。彼らはローダに、彼女は気が狂ったと言いました(15節)が、実際には神は彼らの熱心な祈りに応えて、不可能と思われることを成し遂げました。

神の言葉は増え続け、広まり続けました(24節)。ジョン・ストットが書いたように、「この章は、ヤコブが死に、ペテロが牢に入れられ、ヘロデが勝利するところで始まり、ヘロデが死に、ペテロが解放され、神の言葉が勝利するところで終わります。」

主よ、初期の教会のように祈れるよう私たちを助けてください。あなたの御手が私たちと共にありますように。私たちも、多くの人々が主を信じ、立ち返り、神の言葉が勝利するのを見ることができますように。

1列王記

2:13-3:15

知恵を祈る

ソロモンは統治の初期に敵をすべて一掃することで、その長い在位期間を確保しました (第 2 章)。このダビデの子の行動は、すべての人に命をもたらし、敵を愛することを教えた「ダビデの子」イエスと比べて、なんと異なっていたことでしょう。イエスは永遠に統治する方です。

しかし、ソロモンが間違いなく正しく行ったことが少なくとも 1 つありました。神は彼に、「あなたが与えたいものを何でも求めなさい」と言われました (3:5)。彼の応答は謙虚さと、神の必要性を認識していることを示していました。ソロモンは、「あなたの民を治め、善と悪を見分けるために、しもべに分別のある心を与えてください」と祈りました (9 節)。

神はソロモンの応答に喜びました。彼は彼に言いました。「あなたはこれを願い、長寿も富も敵の破滅もつかまず、よく導き、統治する能力を求めた。だから私はあなたが求めたものを与えよう。あなたに賢く成熟した心を与えよう。あなたのような人はかつていなかったし、これからもいない。おまけに私はあなたに、あなたが求めなかった富と栄光を与えよう。さらにあなたに長寿を与えよう」(10~14節、MSG)。

イエスはこう言いました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。実際、知恵を祈り求めることによって、ソロモンはまず神の国を求めていたのです。その結果、他のすべてのものも彼のものになると神は彼に言いました。

知恵の申し出はソロモンだけに当てはまるのではありません。ヤコブはこう書いています。「あなたたちのうち、知恵に欠けている人があれば、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与えてくださる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(ヤコブ1:5)。

主よ、私はあなたの知恵が必要です。私が直面するあらゆる状況において、賢く洞察力のある心をください。主よ、私は天から来る知恵を祈ります。それは何よりも純粋で、平和を愛し、思いやりがあり、従順で、あわれみと良い実に満ち、公平で誠実なものです(3:17)。

ピッパはこう付け加えます
箴言 15:3 にはこうあります
「主の目はどこにでもあって、悪人にも善人にも目を光らせている。」
あなたが自分が善人だと思うか悪人だと思うかに関わらず、神はあなたを見守っています…これは慰めになりますか、それともそうではありませんか?

満足して生きることを学ぶ

2024-06-14 02:41:42 | 日記
コロサイ 3:2 NIV [2] 地上のものではなく、上にあるものに心を留めなさい。
‭Colossians 3:2 NIV‬ [2] Set your minds on things above, not on earthly things.

申命記 31:8 NIV [8] 主は自らあなたの前に進み、あなたと共におられる。主は決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。落胆してはならない。」 ‭Deuteronomy 31:8 NIV‬ [8] The Lord himself goes before you and will be with you; he will never leave you nor forsake you. Do not be afraid; do not be discouraged.”

満足して生きることを学ぶ
Learning to Live in Contentment

内なる満足感を持って生きるには、人生のすべての焦点を主イエス・キリストに置かなければなりません。
To live in inner contentment, the entire focus of your life must be the Lord Jesus Christ.

私の人生には、特定の問題や状況が原因で、何時間も寝返りを打ち、眠れない夜が続いた時期が短期間ありました。特定の問題、会話、批判について考えずにはいられないときにできる最善のことは、ベッドから出てひざまずき、神に叫ぶことだとわかりました。「どうか、これを乗り越えるのを助けてください。あなただけに集中できるように助けてください。」
I’ve had short periods in my life when a particular problem or situation would cause me nights of tossing and turning, hour after hour, unable to sleep. I’ve discovered the best thing I can do when I can’t seem to let go of thinking about a particular problem, conversation, or criticism, is to get out of bed, get down on my knees, and cry out to God: “Please help me through this. Help me focus on You alone.”

眠りは、私が主に、そして主が私に特定の状況に対してどのように考え、感情的に反応してほしいかということに集中しているときに訪れます。他の人が言ったこと、起こりうるすべてのこと、または前途にある困難に私の集中力が移ってしまうと、眠りはつかなくなります。選択は非常に簡単です。主と、主の豊かな恵み、保護、愛について考えるか、あなたから恵みを奪い、あなたの人生を破壊し、あなたに憎しみをぶつけようとするすべての人々や状況について考えるかです。
Sleep comes when my focus is on the Lord and on how He’d have me think or respond in my emotions to a particular situation. Sleep is elusive when I allow my focus to shift to what others have said, all the things that might happen, or the difficulty of a challenge that lies ahead. The choice is quite simple—think about the Lord and His abundant provision, protection, and love, or think about all the people and circumstances trying to rob you of provision, destroy your life, or heap hatred upon you.

主について考えると、人は平安を得ます。それ以外のことを考えることは、たいていの場合、不安、恐れ、心配への近道です。
Thinking about the Lord brings a person peace. Thinking about anything else is usually a shortcut to anxiety, fear, or worry.

主に焦点を合わせるとき、主がまさにその瞬間に、あなたと共にいると見ることが大切です。あまりにも多くの人が、神は遠くにいると考えています。彼らは、神が自分たちの生活の即時に近づくことができる、あるいは利用できる存在であるとは考えていません。真実は、神は毎日、あらゆる瞬間に私たちと共にいるということです。
When you focus on the Lord, it’s important that you see Him as being in your situation with you, right at that moment. Too many people think of God being far away. They don’t see God as being accessible or available to them in the immediacy of their lives. The truth is, He’s present with us in every moment of every day.

私が今まで訪れた中で最も平和な場所を覚えています。ガリラヤ湖です。何年も前、私は海辺の場所にいましたが、そこは私にとってまさに平和と静けさの定義のように思えました。しかし、今日の世界では、ほとんどの人はおそらくその地域を平和だとは思わないでしょう。そこからシリアとレバノンまではわずか数十マイルです。人々はイスラエルを世界の紛争地帯、つまりほとんど平和のない場所と考える傾向があります。
I can remember the most peaceful place I’ve ever been—the Sea of Galilee. Years ago, I was at a spot by the sea that seemed to me the very definition of peace and tranquility. However, in today’s world, most people probably wouldn’t think of that area as being peaceful. It’s only a few dozen miles to Syria and Lebanon from there. People tend to think of Israel as a hot spot in the world, a place of virtually no peace.

しかし、私はそこで大きな平安を感じました。なぜでしょうか?そこに主を感じたからです。主の存在を感じたのです。
But I felt great peace there. Why? Because I felt the Lord there. I sensed His presence.

目を閉じて、ガリラヤ湖沿いを主が私のすぐそばを歩いている姿を思い浮かべるのは、私にとっては簡単なことです。また、私が世界中で経験した数々の美しい自然の中で、主が私のすぐそばを歩いている姿を思い描くのも、簡単で有益だと感じています。
It’s easy for me to close my eyes and see the Lord walking right beside me along the Sea of Galilee. I also find it easy and beneficial to envision the Lord walking right beside me in any number of beautiful natural settings I’ve experienced around the world.

平和をもたらすのは、こうした環境ではありません。平和を生み出すのは、こうした環境にいるときに心で感じる神の意識です。人生に困難が訪れたとき、私にとって「神は私とともにある」という感覚を取り戻し、思い描き、霊的な目で見ることが大切なのです。
It’s not these environments that give peace. It’s the awareness of God that I feel in my heart when I’m in these environments that produces peace. It’s that sense of “God with me” that’s important for me to recapture, envision, to see with spiritual eyes, when times of trouble hit my life.

友よ、あなたがどこにいようと、いつでもイエスがあなたの満足の源です。主があなたと共に平和に歩んでくださるのを見てください。主の存在を感じてください。あなたの人生に対する主の素晴らしい力と権威に気づいてください。信仰によってキリストとの個人的な関係に入り、あなたの人生における主の存在と備えを確信して生きるとき、あなたは真の平和を経験することを私は約束します。
Friend, no matter where you are at any given time, Jesus is the source of your contentment. See the Lord walking with you in peace. Sense His presence. Become aware of His awesome power and authority over your life. When by faith you enter into a personal relationship with Christ, living with the assurance of His presence and provision in your life, I promise you will experience true peace.



待つことへの忍耐

2024-06-14 02:19:09 | 日記
哀歌 3:25-26 NIV [25] 主は、主に望みを置く者、主を求める者に恵み深い。[26] 主の救いを静かに待つのは良いことだ。
‭Lamentations 3:25-26 NIV‬ [25] The Lord is good to those whose hope is in him, to the one who seeks him; [26] it is good to wait quietly for the salvation of the Lord.

待つことへの忍耐

あなたが望み、祈ったことをすべてすぐに手に入れることができたら、あなたの人生はどんなものになるか想像してみてください。あなたが求めた贈り物、あなたが望んだ関係、あなたが追い求めた機会すべてに「はい」と答えられたら、あなたはどんな人になるでしょうか。

私たちが神に何かを願うとき、神がしばしば「いいえ」と答えるのには理由があります。私たちが望むものが得られないことは、忍耐と謙虚さを教えてくれます。私たちはこれらのことにおいて成長するにつれて、キリストに似た者になります。

何かを欲しがってからそれを待たなければならないのはもどかしいことですが、神は待つ間に私たちの願望を洗練させ、その時間を実りあるものにしてくださいます。時には、それについて考える時間ができた後、私たちはまったく違うことを願うことがあります。

寒い冬の月は死の季節のように思えるかもしれませんが、木々が葉を落として寒さを「待つ」ように、根はより深く伸び、栄養システムが補充されます。根の深い木のように、神に属する人にとって、待つ時間は無駄ではありません。 神と共に待つことを求めるなら、待つことは価値のある時間です。表面上は何も起こっていないように見えるときでも、神は良い働きをしています。

神が私たちに命じられたすべての重要なことを考えると、毎週の安息日を休むことは「生産的」ではないように思えるかもしれませんが、私たちは神がその静かな日々にも働いておられることを信じることができます。主は、主と共に、そして主のために待つ人々に恵みを与えてくださいます。

Patience in the Waiting

Imagine what your life would be like if you had received everything you wished and prayed for right away. What would you be like as a person if you got every gift you asked for, every relationship you hoped for, and a “yes” to every opportunity you pursued?

There’s a reason God often answers “no” when we ask Him for things. Not getting what we want teaches us patience and humility. We become more like Christ as we grow in these things.

Wanting something and then having to wait for it can be frustrating, but God makes that time fruitful as He refines our desires in the waiting. Sometimes we ask for a very different thing once we’ve had some time to think about it!

Cold winter months may seem to be a dead season, but as trees shed their leaves and “wait” out the cold, their roots go deeper and their nourishment systems are replenished. Like a tree with deep roots, time spent waiting is not wasted for those who belong to God. Waiting is a worthwhile time, if we seek to wait with Him. Even when it seems like nothing is happening on the surface, God is doing a good work.

Taking a weekly Sabbath rest might not seem “productive” in light of all the important things God has called us to do, but we can trust that He’s at work in those days of quiet, too. The Lord is good to those who wait with and for Him.

父なる神よ、あなたは、私が我慢できないときでも、私の中で働いてくださるほど忍耐強く、忠実な方です。私が待っているとき、あなたを信頼し、あなたをもっとよく知ろうと努め、あなたが愛し大切にしてくださることにもっと深く従うように教えてください。アーメン。

Father, You are so patient and faithful to be at work in me, even when I am impatient. Teach me to trust You, to seek to know You better, and to align myself more deeply with the things You love and value in seasons when I am waiting. Amen.