1945年1月13日午前3時38分、愛知県三河湾で、震源の深さ11メートルの「直下型地震」が発生し、マグニチュウード6,8、震度5、死者2,306人、行方不明1,126人、負傷者3,866人の被害が出たそうです。きょうは、今からちょうど80年前「三河地震」の出来事でした。
地震が発生したのは戦時中であり、政府は国民の戦意を低下させない事や、軍事工場の被害を伏せるため、厳しい報道規制が敷かれ、被害規模やその後の状況は伏され、救援活動も小規模だったようです。
この地震が起きた前年の12月7日には“東南海地震”が発生していて、1,200人以上の死者を出し、それに比べ「はるかに小さい三河地震が発生した」と小さく報道されていたようです。当時、政府が情報を支配していたため、正確には報道されず、被災者は地震と戦争中という二重の困難な状況だったようです。
戦時中の日本は、報道規制が敷かれ、天気予報でさえ伝わらなかったといいます。しかし、戦況は周囲の状況判断から、多くの人々は大本営発表の表向き報道とは別に、地下情報から敗戦を意識していたと言います。
地震は地下の地殻変動で発生しますが、当時は地震情報さえも地下に伏せて、「地下」は、地面の下にあることから、転じて「表に出ない」という意味にも使われます。
地下放送、地下経済など、情報が表面に出ない姿で伝わり、隠した内容や公的に把握されない経済活動「アングラ経済」など、現在では犯罪組織が密接に関っていることが多いと言われます。
今は報道の自由を守るための努力がなされていますが、過去の過ちを繰り返さないためにも、私たちは情報の扱いを冷静に見つめなければなりません。
写真:名古屋駅前・ミヤコ地下街 2025年1月6日 AM9:00 撮影