きょうで1月は終わりで 明日から2月が始まります。能登半島で地震が起きて早や1カ月が経過し、報道によって被害の規模が明らかになるにつれ、その大きさに驚いています。震度7の経験はありませんが、過去に震度5で「この世が終わりか」と思ったことがあります。
簡単に「この世の終わり」はないと思いますが、人はいつか「この世にさようなら」をしなければなりません。生きているうちに身辺整理など円滑に行えるようにして、去って逝く必要がありますが、「終活」という造語の裏には、ブームを作り出して利益を得ようとしている組織や人の影が見え隠れし、「金額」と「しきたり」や「世間体」ばかりが強調され、「簡単には死ぬものか」という気持ちが湧いてきます。
2019年、新型コロナウイルスの感染が拡大して、通夜や告別式など宗教儀式をしないで、近親者や友人など、限られた関係者によって火葬のみ行う「直葬」あるいは「家族葬」が多くなり、人によっては「密葬」とし、後に「本葬」や「しのぶ会」を行い、先輩・知り合い・友人または その親が亡くなったと知らせを受けたとき、戸惑いを感じて来ました。
ウイルス感染の扱いが5類になって、家族葬でなく普通?に葬儀が行われるようになっても、退社してから何年も経過すれば、葬儀で弔問に訪れる人は少なくなり、年賀状を出す頃に喪中の知らせが届いて、半年以上も過ぎてから死を知ることがあります。
人はどの時代でも必ず死にます。しかも高齢者が増えているので、「派手な終活ブーム」にのる必要はありません。立派な社葬がある反面、地味で小規模な家族葬・直葬も増えました。二極化が進み、葬儀も経済情勢で変化したと思います。
自分の最後を思うとき、あらかじめ生き残るであろう人々と話し合って、文書などで残しておくことも必要でしょう。また、「認知症」で行方不明にならない様にしたいものです。