今回からAndroidスマホで書くしか方法がなくなった。日本語入力アプリケーションの操作が不慣れなので、舌足らずになりそうで怖い。不明な点があれば遠慮なく指摘して下さい。
「スペインに行こうよ」風の坂道を駆けながら言う行こうと思う(俵万智)
俵万智の本質は、爽やかさだと思う。その他の指摘は、色々あるようだが、些末なことだと思う。たとえば、読者が短歌を身近に感じられるようになったという特徴と、その功罪などが指摘されているが、それらは本質的な問題ではない。もっと単純な、たとえばルーツから分析するなどの研究が待たれる。
余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理(万葉集巻5No.793大伴旅人)
万葉仮名を読むとき、普通は現代人が解読した「訓」と照合しながら、正しい確率99%で読むケースが多いが、この歌は100%で次のように読める。
世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
正解を得ると、なんだか嬉しい。使われている言葉も現代と同じだから、旅人(たびと)さんの心に近くなった気もする。
亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり(寺山修司)
寺山ワールドの個性が光る1首と言える。
2014年の終わり頃、穂村弘がこの歌の文体という話をし出した。一見リアリズムのようだが、山鳩が大人しく梳かれ続けることは有り得ないので、虚構の文体で書かれているという話だ。補足するなら、「これはフィクションですよ」と表示された作品だということだ。ゆえに、寺山修司の母は現実には生きているが、読者は混乱しない。
穂村弘は頭がいいな、と思った。確かに、僕なども無意識のうちに、文体は使い分けている。
ありがたい古刹がくれた自転車は木製にしてブレーキはない(椎名夕声。短歌人2015年8月号)
この歌で、寺が僕に自転車をくれたというくだりも不思議だし、木製というのも余りに不思議過ぎる。加えて、ブレーキがない、となれば相当ぼんやりした人でもフィクションだと気付くはず。古刹というのは普通「〇〇山〇〇寺」という名前で、人家より高い場所にある。もちろん、高い場所が遠ければ、そうはならないことも多いが、歴史も格式もある寺としてイメージするのは高野山だ。
自転車をもらったのはいいが、この後下り坂なのにブレーキがない。ヤッホーと叫びながら乗るか?僕なら、押して歩く。