湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

井伊の赤備え

2012年11月21日 | 詩歌・歳時記

           関が原合戦屏風というものが、

今に残っている。左上には、笹尾山の西軍・石田三成の本陣があり、右下には、東軍・たぬき

親父が陣を構えた桃配り山である。

この狭隘な盆地に、両軍20万とも言われる軍勢がひしめいた西暦1600年のことだ。

          泣く声はわれの声なりもがり笛

家康軍の左手に、目にも鮮やかな朱塗りの軍団がいる。これが井伊家臣団の泣く子も黙ると

言われた、「赤備え」軍団である。 

                

信長はとにかく敵を殺しぬいた。秀吉は、かの比叡山焼き討ちのおり、実直な光秀が

信長の命を守り、山を降り逃げた僧兵・女・子供をみな殺しにしたのに比べ、すべて逃した

んだね。そして、自分の家臣に直した訳けなのだが。

          秋の夜やこのうすっぺらなパソコンの大宇宙

家康も降伏した敵を殺すよりも、自分の家臣に取り立てたんだ。武田信玄が滅亡した時も、

山縣ナンとかの一族を助け、家康の家臣に引き入れた訳けである。

この武田の軍団が真っ赤な甲冑で、戦火を走り回り名を馳せたのだ。井伊の殿様が貰いうけ、

それ以来、井伊の「赤備え」と恐れられた、屈強の軍隊になったわけである。

                 

          日本幼児化はよ死なむ秋ふかし

石田三成は、早く生まれすぎた秀才である。 井伊の赤備えで日本を平定した後に生まれた

ならば、この国はもう少し「まともな国」になったことであろう。