伊吹嶺は
左の肩を削られて
なほ悠然とひとの世の秋
むかしむかし、伊吹の山の神の毒にあたって、熱にうなされたヤマトタケルノミコトも、
麓の市場の村に住む莫逆の友、国学者・長野主膳を訪ねた、幕末の英傑・井伊直弼も、
そして幼い頃のわが母も、見てはいない現在の伊吹山の姿である。
左の肩先がくぼんでいるのは、大阪セメントが石灰岩を取るために、発破をかけた無残な
傷跡なのである。 そんなものを気にもかけない、悠々たる伊吹山ではある。
死ぬるため生きる哀れを
重ねつつ
伊吹の山の秋を寂しむ
伊吹の語源は、「息吹く」である。つまりは、「ふいご」の謂いである。
伊吹山の少し北に 「金糞山」 がある。 つまりは製鉄の工程の末にでた、金屑を捨てた
山なのであろう。
百済の国からもたらされた製鉄の技術は、決して鋤、鍬のたぐいの農機具のためではなく、
戦場での武器の製造のためであろう。 湖北に観音像が多く残されている所以である。
十一のちさき仏を頭にのせて
湖北に秋を招く
観音
古橋は、石田三成のご母堂の生まれ在所である。