春たちてまだ九日の野山哉 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「春たちてまだ九日の野山哉」。この句を味わってみない。
華女 これが蕉風の俳句なんだと思わせる句だと思うわ。
句郎 この句は『笈の小文』に載っている句なんだ。
華女 苦しみぬいた芭蕉がたどり着いた世界がこの句にはあるように思うわ。
句郎 そうなのかな。『笈の小文』冒頭の文章は苦しみぬいた芭蕉の気持ちが表現されているように感じるよね。
華女 『笈の小文』冒頭の文章は次のようなものよね。「百骸九竅の中に物有、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋に繫る。」
句郎 俳諧のことを狂句と言っている芭蕉の気持ちが分かるな。
華女 生活の足しにはならないということよね。
句郎 、誰だってまず生活のことを考えるよね。それなのに生活より俳諧のことをまず考えると言うことは狂句なんだろう。
華女 当時流行っていた談林風の俳句を詠んで自慢したところでそれが何でもないことが分かり、身を立てようとしても、それが何でもないことのように思われてしまう。そのような精神的な苦しみを経てたどり着いた時に詠んだ句の一つが「春たちてまだ九日の野山哉」だったのじゃないのかしら。私はそのように感じているわ。
句郎 「よもすがら秋風聞くや裏の山」という曾良の句が『おくのほそ道』に載っている。この句を山本健吉は名吟だと言っている。この句を読み、深い感動を覚えたと言っている。山本健吉が覚えた感動と同じような感動を華女さんは芭蕉の「春たちてまだ九日の野山哉」を読んで感じたということなのかな。
華女 そうなのかもしれないわ。どちらの句も何でもない句よね。何でもないように見えて、何でもあるのよ。それが俳句というものなんじゃないかしらね。
句郎、「九日」という数字が決まっていると言っている人がいたな。八日でも十日でもだめだ。九日でなくちゃ駄目だとね。
華女 私もそんな風に思うわ。「春は名のみの風の寒さや」という歌があるでしょ。だから九日なのよ。
句郎 『早春賦』だね。「春は名のみの 風の寒さや 谷のうぐいす 歌は思えど 時にあらずと 声もたてず」吉丸一昌の詩が表現している世界を芭蕉は三百年前に表現したということなのかな。
華女 「鶏頭の十四五本もありぬべし」子規の句があるじゃない。「十四五本」が決まっているのよね。七八本じゃ、句にならないのよ。なんとなく私には分かるのよ。
句郎 何でもない句なんだけれども、立派な句になっているということなんだよね。
華女 俳句って、結構難しいものなのね。
句郎 そうなんだろうね。