醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  638号  酒のみに語らんかゝる瀧の花(芭蕉) 白井一道

2018-01-31 13:19:10 | 日記

 酒のみに語らんかゝる瀧の花  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「酒のみに語らんかゝる瀧の花」。芭蕉45歳の時の句。「龍門」と前詞を置き、「龍門の花や上戸の土産にせん」と並べて『笈の小文』に載せている。
華女 芭蕉は龍門の滝に咲く花を見ながらお酒を飲んだのかしら。
句郎 そうじゃないよ。酒好きの俳句仲間にこのような見事な龍門の滝に咲く桜の花を土産話にしてあげようということなんじゃないのかな。
華女 じゃー、「龍門の花や上戸の土産にせん」の句と同じことを詠んでいるのね。
句郎 芭蕉にとって俳句仲間は家族のような存在だったんだろうな。
華女 秀句だと言われていない句を読むと芭蕉の人柄と言うか、性格のようなものが伝わってくるように感じるわね。
句郎 きっと花見酒を楽しみしていた俳句仲間のことを思い出していたのかもしれないな。
華女 きっと、そうなんでしよう。
句郎 酒を詠んだ芭蕉の句は人情のようなものが詠まれているように感じるな。例えば、「朝顔は酒盛知らぬ盛り哉」。私の好きな芭蕉の句があるんだ。朝顔を詠んでいるんだが、酒盛の楽しさが偲ばれる句になっているように思っているんだ。
華女 夜通しお酒を楽しんだ後だったのよね。そんな気持ちが伝わって来る句よね。
句郎 、「御命講や油のような酒五升」というお酒そのものを詠んだ句がある。
華女 「御命講」って、何。
句郎 日蓮の命日を祝う儀式のようだ。
華女 そのような「講」に集う信者たちがいたのね。信者たちがお酒を寄進したのね。
句郎 この句はなかなかな秀句なのかもしれないな。体言と体言とを並べただけで立派な句になっている。これが俳句だというようなくなのかもしれないよね。
華女 「油のような酒」とは、どんなお酒なのかしら。
句郎 この句にも静かさがあるよね。だから心が静まるようなお酒なんじゃないのかな。泡がでて賑やかさを醸し出すビールのようなお酒は油のような酒とは言わない。美味しい日本酒を譬える言葉が油のような酒なんじゃないのかな。
華女 盃に盛り上がってくるようなお酒なのかしら。
句郎 きっと甘口のボディのあるお酒なんじゃないかと思う。当時にあっては、甘口のお酒が美味しいお酒だったんじゃないのかな。
華女 高級酒は甘口だったのね。
句郎 油のような酒とは高級酒ということかな。澄んだお酒、清酒が当時は高級酒だったのではないかと思う。普段、芭蕉が楽しんだお酒は白濁したお酒だったんじゃないかと思うよ。
華女 「御命講」で芭蕉は油のようなお酒を頂くことができたのかしらね。
句郎 疑問だな。御命講でお酒が五升上がっていたのを見て、詠んだのかもしれない。大変なお酒が上がっているなぁーと、芭蕉は賛嘆しているということなんじゃないのかな。ただ芭蕉はお酒を眺めて手を合わせて、拝んだのかもしれない。昔、果物屋の棚の上に桐の箱に入ったメロンがあった。そのようなものだよ。

醸楽庵だより  637号  龍門の花や上戸の土産(つと)にせん(芭蕉)  白井一道

2018-01-31 13:19:10 | 日記

 龍門の花や上戸の土産(つと)にせん  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「龍門の花や上戸の土産(つと)にせん」。芭蕉45歳の時の句。「龍門」と前詞を置き、『笈の小文』に載せている。
華女 この句は、竜門の花、桜ね、これを詠んでいるのよね。
句郎 本当に龍門の花がお土産になったのかな。
華女 酒のみが土産に貰ってありがたがるようなものだったのかしら。
句郎 龍門寺という白鳳時代に創建された寺があったようだよ。
華女 龍門という場所にあったの。
句郎 龍門嶽(りゅうもんだけ)という山が奈良県桜井市にある。その龍門嶽に滝がある。滝といっても崖を水が走り落ちるようなもののようだ。その滝の頂付近に龍門寺の伽藍跡がある。礎石が今も残っている。龍門の滝に覆いかぶさって咲く桜の花があった。その花が見事だという噂があったんじゃないのかな。
華女 そんな噂があったのね。それで分かったわ。この花を土産に持って帰れたら酒好きの仲間たちはきっと喜んでくれるにちがいないになぁーと、いうことね。
句郎 桜の花はすぐ萎んでしまうわけだから、土産に持って帰れるはずはないのに、この龍門の花を土産に持って帰ったら、仲間たちがどれほどか喜んでくれるのになぁーということかな。
華女 芭蕉はお酒の好きな人だったのね。
句郎 、芭蕉が尊敬した中国の詩人に李白がいる。李白に「廬山の瀑布を望む」という詩がある。
日は香炉を照らして紫烟を生ず
遥かに看る瀑布の長川を挂くるを
飛流直下三千尺
疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと
華女 雄大な詩ね。
句郎 芭蕉は龍門の滝を見て、こんなところで、独り李白の詩を思い、酒を飲んだら詩人になれるだろうと想像していたのかもしれないな。
華女 李白はとてもお酒の好きな詩人だったんでしよう。
句郎 中国唐時代の官僚は皆、詩を詠んだ。詩を詠むことによって皇帝の考えや気持ちをすべての地方の役人たちに伝えることができたからね。漢字というのは、表意文字だから言葉が通じなくても漢詩の意味を伝えることができた。だから官僚たちは漢詩を詠む訓練をした。官僚は優れた詩人になろうと皆、件名だったから。その中にあって李白は特に優秀な官僚であると同時に詩人だった。
華女 この句は龍門の花を見て芭蕉が想像したことを詠んだ句なのね。
句郎 そうなんだろうな。
華女 現実の龍門の花と芭蕉の心の中のものとを取り合わせした句ということなのよね。
句郎 アマチュア写真家が富士山を撮っている写真をみて、俳句と同じだと思った。富士山と雲との取り合わせ、富士山と太陽との取り合わせ、富士山と月との取り合わせ、そこに千変万化する富士山がある。その写真にはその写真撮影者の世界観や人生観が表現されているんだとプロの山岳写真家が述べていた。
華女 そうなのかもね。この句には俳句仲間に対する芭蕉の人生観が表現されているのかもしれないわ。
句郎 人へのやさしさかな。