花をやどにはじめをわりやはつかほど 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「花をやどにはじめをわりやはつかほど」。芭蕉45歳の時の句。「瓢竹庵(ひょうちくあん)にひざをいれて、たびのおもひいと安かりければ」と前詞を置いて詠んでいる。
華女 一読しただけじゃ、何が詠まれているのか、分からない句ね。
句郎 何回か、読むうちに漠然と伝わって来るものがあるように感じるかな。
華女 上五の「花をやどに」が分かると全体が分かってくるように思うわ。
句郎 中七、下五の「はじめをわりやはつかほど」の意味が反響し、「花をやどに」の言葉の意味が明確になつてくるということなのかな。
華女 そうなのよ。一回読んで分からない。二回読んでもはっきりしない。三回読むとなるほどねと、少しにやにやしてくる感じね。
句郎 土芳の『くろそうし』の冒頭に師、芭蕉の言葉として「発句の事は行きて帰る心の味(あじわい)也」と書いているんだ。中七、下五の言葉を読み、上五の言葉の意味が分かって来る。上五の言葉の意味が分かって来るに従って、中七、下五の言葉の意味がはっきりしてくる。このようなことを芭蕉は述べているのではないかと考えているんだけれど。
華女 句郎君の意見にちょっと修正したいな。「花をやどにはじめをわりや」が一つの塊になって、「はつかほど」の言葉と反響し合うのよね。
句郎 、そうだと僕も思う。「花をやどにをわりはじめや」の「や」できれているんだものね。華女さんが言うようでなければ取り合わせの句にならないよね。
華女 そうよ。「花をやどに」と言う言葉がひねってあるのよ。花そのものを宿にして花を楽しめるのは初めから終わりまでおよそ二十日ばかりだと言っているのよね。
句郎 華の莟を見て、咲き始める日を楽しみ、二分咲き、三分咲き、花見に宴が始まり、夜桜の美しさに心を奪われ、花吹雪に見惚れ、花筏に名残を惜しむ。すべてが夢のような日々、二十日ぐらいなのかもしれない。
華女 花見の本質を表現しているのよね。
句郎 そうなんだ。ここに俳句の本質があるんだと山本健吉は述べている。『挨拶と滑稽』という評論のなかで「古池や蛙飛びこむ水の音」を取り上げ、「古池や」と「水の音」とが、この世界では同時的に存在しなければならぬのである。様式における時間性と内面における同時性とが、無限に摩擦し相克して、ここに俳句的な性格の確立をみるのである。俳句は時間性を抹殺すると主張している。
華女 俳句は読んですぐ分かったという気持ちになれないのね。
句郎 短歌はうたうが、俳句はよむ。短歌は詠嘆するが、俳句は認識する。短歌は女の文芸として完成したが、俳句は男の文芸として成立した。このようなことも山本健吉は述べている。
華女 横光利一が「俳句は哲学だ」と言ったことに通じる主張なのかしら。
句郎 そうなんじゃないのかな。俳句は歌うことができない。他人の俳句を読んで楽しみ、自分で俳句を詠んで楽しむもののようなんだ。そういう仲間なしには成り立たない。