醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  624号  御子良子(おこらご)の一もとゆかし梅の花(芭蕉)  白井一道

2018-01-18 12:23:39 | 日記

 御子良子(おこらご)の一もとゆかし梅の花  芭蕉

句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「御子良子(おこらご)の一もとゆかし梅の花」。芭蕉45歳の時の句。『笈の小文』には「神垣のうちに梅一木もなし。いかに故有事にやと、神司などに尋ね侍ば、只何とはなし、をのづから梅一もともなくて、子良の館のうしろに一もと侍るよしをかたりつたふ」とある。
華女 「御子良子(おこらご)」とは、何なのかしら。
句郎 御子良子(おこらご)というのは、伊勢神宮で、神饌(しんせん)、神に供える飲食物(供物)を調え、奉仕する少女、この少女らのことを御子良子(おこらご)と言った。その少女たちのいるところが「子良(こら)の館(たち)。
華女 「一もと」とは、何。
句郎 草木の助数詞、だから一本ということかな。
華女 伊勢神宮の神域には一本の梅の木もないが、ただ子良の館の後ろに一本の梅の木があるという。ただそれだけの話のなのね。
句郎 俗人である芭蕉は伊勢神宮の神域にある子良の館に入ることは許されない。ただ子良の館の後ろに梅の木が一本あるという話を聞いた。この話を聞き、芭蕉は句を詠んだ。この句は嘱目吟ではない。
華女 芭蕉の気持ち、なんとなく分かるわ。自分は入ることができない神宮の奥にある子良の館の後ろには梅の花が咲ている。なんておくゆかしいのだろうと、そういうことなのよね。男氏禁制の女子寮の庭に咲く梅の花なんて、若い男の子にとって、おくゆかしく、憧れの庭なのかもしれないじゃない。そういうことよね。
句郎 、芭蕉もごく平凡な男の気持ちを詠んでいるんじゃないのかな。
華女 芭蕉が等身大の男として感じられるような句だと思うわ。
句郎 芭蕉の発案は、「梅稀(うめまれ)に一もとゆかし子良の館」だった。この句を推敲し「御子良子(おこらご)の一もとゆかし梅の花」と改作したようだからね。
華女 聞いた話を単に五七五にしただけのような句だったのね。
句郎 「御子良子(おこらご)の一もとゆかし梅の花」。『笈の小文』に載せられている句になると神に仕える童女が天女になっているように感じるね。
華女 芭蕉は発案の句をひねったのね。
句郎 そうひねったのかな。ひねるとは、芭蕉の主観が入るということなのかもしれないな。
華女 そうよ。御子良子、神に仕える童女は天女なんだという芭蕉の認識なんじゃないのかしら。
句郎 現実の御子良子に接することもなく、単に想像しただけのことだからね。白い着物に赤い衣をまとった少女の姿に現実の少女ではない姿を感じたということだよね。
華女 アレゴリーということね。俳句はアレゴリーなのかしらね。
句郎 俳句は象徴詩だという主張する人がいるが、そうではなく寓意詩だと山本健吉が『純粋俳句』という評論で述べている。「俳句の本質は象徴詩ではなく寓意詩であるいうのが、私の結論であります」。このように述べている。確かに芭蕉の俳句を読んでいるとアレゴリーになっている。そのように感じるんだ。芭蕉作品を山本健吉は研究し、そのような結論になったのかもしれないな。