このほどを花に礼いふ別れ哉 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「このほどを花に礼いふ別れ哉」。芭蕉45歳の時の句。「たび立つ日」と前詞を置いて詠んでいる。
華女 この句は旅立ちの挨拶吟ね。
句郎 この度は本当に花を楽しませていただきました。ありがとうございましたと、瓢竹亭の主人に挨拶し、芭蕉と杜国は奈良、吉野へ向けて出発して行った。
華女 「このほど」と言う言葉はなかなか上品な言葉だなぁーと感じちゃったわ。
句郎 「花に礼いふ」という中七の言葉を芭蕉はひねっているんだな。
華女 その捻りが効いているのよ。
句郎 そう、「花に礼いふ」中七の言葉が俳句にしているだろうね。
華女 芭蕉の旅立ちの挨拶吟はいいわね。
句郎 、そうだね。高校生だったころ、初めて芭蕉の授業を受けた。その時、担当の教師が言った言葉を今でも覚えている。
華女 どんなことを言ったのかしら。
句郎 「麦の穂を便につかむ別かな」という句をあげて芭蕉の句には力強さが漲っているんだ。俺はこういう句が好きだと言っていた。
華女 麦の穂が真っすぐに立っている姿には人を元気付けるような力が漲っているような気がするわ。
句郎 芭蕉がこの句を詠んでいるのが調べてみると元禄七年51歳の時に詠んでいる。「このほど」の句と比べてみると若々しさがあるね。
華女 そうね。芭蕉の句はもしかしたら年と共に若くなっていったのかもしれないわよ。
句郎 『おくのほそ道』旅立ちの挨拶吟は「行春や鳥啼き魚の目は泪」だったかな。
華女 ちょっと湿っぽいわね。
句郎 この三つの旅立ちの挨拶吟の中で華女さんはどの句が一番好きかな。
華女 私は「このほどを花に礼いふ別れかな」、この句がとても上品な感じしていいかなと感じているのよ。
句郎 上品な静かな句なのかな。しかし俳句として鑑賞するとやはり、私は「行春や鳥啼き魚の目は泪」の句の方が優れているのかなと感じているんだ。
華女 「行春や鳥啼き魚の目は泪」。この句のどこがいいのかしら。
句郎 鳥が啼き目に泪を、魚が目に泪を浮かべるなんていうことありしないでしよう。これは虚構でしょ、言ってみればね。そのような虚構と行春とを取り合わせているところに凄さがあるということなのかな。
華女 虚構ということは、嘘ということよね。
句郎 そうなんだ。嘘なんだ。嘘を述べて真実を述べる。これが文学というものだと私は考えているからね。
華女 フィクションが真実を表現するということなのね。
句郎 そう、小説という形式の文学が文学を文学たらしめているということなんだと思う。
華女 俳句の文学性に句郎君は疑問を持っているすしら。
句郎 いや、そんなことはないよ。ただ、文学としての俳句は、芭蕉で終わっているという山本健吉の主張になるほどねと納得させるような説得力があると思っているんだ。