クラブボクシング@ゴールドジム湘南神奈川

普通、湘南辻堂といえばサーフィンなのにボクシングでひたすら汗を流すオッさん達のうだうだ話!

母の願い、朴の想い

2018年05月01日 | あの頃 朴は若かった

あ、朴竜です。

亡き母の四十九日の法要を5月の第四週に執り行いたいのですが、会社経営の弟は葬儀や後片付けなどで一週間以上不在にしたため、現在はとても忙しいらしく、なかなか日取りを決められない状況です。

サラリーマンの兄ですが、それはそれで困っています。

法要などの仏事はなるべく慣例に従うべきだと思うものですから、国内・海外出張などの日程も決められないんです。

そうこう思っていたからかもしれませんが、想い出したことがひとつありました。


それは先週、27日(金)の明け方、亡くなった母の声がはっきりと聞こえたのです。

前日夢に出てきてくれた母は口元を僅かに動かして微笑むだけでしたが、はっきりと「お兄ちゃん、ヒロちゃん、ヒロちゃん(伽於と書くのも変なので・・・)」とまるで生前の優しい声で私の名前を呼んでくれました。

多分「ヒロちゃん、身体に気をつけてね。」「ヒロちゃん、家庭を大事にしてね。」「ヒロちゃん、トモ(弟)と仲良くするんだよ・・・」と願っているに違いないと思うのです。

そう言えば母の口癖は「ごめんね~」でした。

「ちゃんとご飯を作ってあげなくてごめんね。」「料理が下手でごめんね。」「家が散らかっていてごめんね。」「早くに家を出たのに何もしてあげられなくてごめんね。」「十分に仕送りをしてあげられなくてごめんね。」 

そう、いつもいつも「ごめんね。」でもそれは謝っているわけではなくて、それでもしっかりと生きてくれて「ありがとう」の意味だったと私は分かっています。

お母さん

「ごめんね。」は私の方です。

40年近くずっと離れて暮らしていて、そばにいられなくてごめんね。

便りを出さずにごめんね。

たまに帰ると口うるさくしてごめんね。

たくさん謝りたいから、もっともっと私の傍にいて「ヒロちゃん」と子供の時のように呼んでくれたら嬉しいよ。



夢で会えたら

2018年04月26日 | あの頃 朴は若かった
昨夜、母の夢を見ました。

それは生前の姿ではなく、亡くなった後の母の夢でした。

夢の中で何かを伝えようとする母の言葉を漏らさないように耳を傾けるのですが何も聞こえません。

優しい眼で私を見ながら小さく唇を動かずばかりです。

私はそれでも嬉しくて母が言わんとしていることに泣きながら頷いていました。

そして声が聞こえた気がした時に目が覚めてしまいました。

夢で泣いていた私は実際に涙を流していました。

自分の年齢を鑑みると周りでは既に多くの知人友人が親を亡くしていて、それが当たり前のように思っていましたが、実際、自分の親を亡くしてみると心がうっすらと窪んでしまった気がします。

うまく言えませんが、それは暗い深い穴ではなくて浅く広い窪みのようなもので、風も吹いてくるし光も届き、雨も溜まるくぼみ。

そこには母との思い出が横たわっていて、ふとした時にそれを想い出して両掌で掬い上げることが出来るのだけれど、同じ量だけ後悔や哀しみも埋まっているのです。

子供を持ってみて思うことは産むより育てることは難しい・・・。

そしてそれより難しいのはじっと見守ること・・・。

私の身体の半分は母の血肉で出来ていることを今ままで大きく意識したことはありませんでした。

血肉を分け、愛情を注ぎ、じっと見守り続けてくれた母を思うとき、たくさんの後悔が心に募っています。

夢の中で母は逝ってもなお私を心配していて、「死にたくなるほど一生懸命仕事したらだめだよ。」とか「家族と自分の身体を大切にするんだよ。」とか「交通事故や通勤は気をつけてね。」とか言ってくれてたに違いありません。

また夢に出てきてね・・・

さようならお母さん、ありがとうお母さん

2018年04月18日 | あの頃 朴は若かった
先週、4月10日に亡くなった母の話を少しさせてください。 

同日、夕刻にいよいよ呼吸も浅くなり、脈拍も低下していく母の手を握りながら、私は熊本に住む母の18歳離れた妹(私の叔母)に電話をかけました。

よく「意識はなくても人は最期まで耳は聞こえる」と聞いていましたので、最後に実の妹の声を聞かせてあげたかったのです。

スマホのスピーカーを母の耳元にそっと置きます。

妹は「美代子ねえちゃん、美代子ねえちゃん・・ 私だよ美枝子だよぉ。聞こえるかい?美代子ねえちゃん、ずっと苦しかったね。よく我慢したね。でも、もういいんだよ、お疲れさまでした・・ ありがとうありがとう・・・」と泣き笑いの声。

そして、私に「去年ん夏ね、美代子姉ちゃんば見舞うたときね。美代子姉ちゃん丁度寝とったんやばってん、うわ言でずっと、お母しゃんお母しゃんとずっとばあさんの名前ば呼んどったんやばい。」

「美代子姉ちゃんな6人兄妹ん一番上で、野良仕事で忙しかじいさんばあさんの代わりにずっとうちらん面倒ばっかりみていて、本当は甘えよごたったんにすっと我慢しとったんやろうね。」と。

「美代子姉ちゃん、うちん参観日にずっと親代わりで来てくれとって、どうもありがとうね。ごめんね。ごめんね。」と泣いています。

そして、母は最期に大切な妹の声に包まれて逝きました。

気のせいかもしれませんが、母の眼にはうっすらと涙が溢れていたように見えました。優しく穏やかな死に顔でした。

そして翌夜、母の亡骸と一緒に葬儀場の親族控室にて休んでいると叔母から電話がありました。 

「伽於(私)と伽幸(弟)に美代子姉ちゃんのことでどぎゃんしてん伝えとかなけばならんことがあって電話したんばい。ちょっと話してんよか?」

と昨年夏に母のお見舞いに行った時の話をしてくれたのです。

「美代子姉ちゃん、子供たちん顔も分からんくなっとると聞いとったけん、久々に会ううちんことば忘れてんしょうがなかと覚悟して会いに行ったんやばってん、病室んドアば開けて顔ば見すると、美代子姉ちゃんなうちば見るなり熊本弁で、あれぇ美枝子ちゃんどぎゃんしたと?急に来て元気やったかかとうちんこと覚えてくれとってたいぎゃうれしかったんばい。ほんなこつ会いに行ってよかったて思うたんや。」

「それからお互いに会うとらんこん何十年分ん写真も持って行ったと。子供や家族ん写真、親戚ん写真、熊本ん実家や町、それから熊本地震ん時ん街ん様子とかたくさん持って行って、ずっと話したんばい。」

「そん話ん中でどぎゃんしてん美代子姉ちゃんにずっと聞こごたったことがあったけん、初めて聞いてみたんばい。そりゃ今んごつ新幹線や飛行機もなかような時代に熊本から北海道に嫁いで不安じゃなかったと?どぎゃん覚悟で行ったと?美代子姉ちゃん幸せやった?って」

「そぎゃんしたら美代子姉ちゃんなこう言うとったんだばい。美枝子ちゃんな熊本で井坂しゃんちゅう立派な旦那しゃんば見つけたけん幸せになれた。たぶんうちゃ北海道まで来て父しゃんと一緒になることで幸せば見つけようとした。父しゃんな変わり者だばってん、うちに手ば上ぐることものう、まじめに働いてくれて、息子二人ば立派に育て上げたし、そん息子二人も愛する人ば見つけたけん二人ん娘がでけた。そしてしっか家族ば作ってくれたけん、今じゃ孫が6人、ひ孫が2人に囲まれて幸せだ。やけん北海道に来たことばいっちょん後悔しとらんし、北海道に来たけん幸せになれたんや。美枝子ちゃんも家族ば大切にするったい。」

「もう涙が止まらんかったばい。そして美代子姉ちゃん幸せで良かってん思うたばい。そして伽於は昔から今でもずっと自慢ん息子で誇らしかって言うとったばい。」

「そればどぎゃんしてん伝えよごたった。やけん残されたふたりは元気でいて欲しかし、美代子姉ちゃんにほんなこつ愛されて育てられたちゅうことばずっと覚えとって欲しか。」 

叔母の話をスピーカーフォンで聞いていた僕ら兄弟二人はもう涙が止まりませんでした。

母の気持ちを分かっていたはずなのに、十分に分かってあげられていなかったかもしれないと・・・ 

そう思いながら母の亡骸を見つめていました。

耳の遠いオヤジだけが一心不乱にエロ雑誌を読んでいるのが可笑しかった。

あなたは十分お袋を幸せにしたんだね。かっこいいよ。でも、エロ雑誌はなぁ。 

四十九日の法要が終わってホッとしたら、男3人で母の生まれ故郷熊本に行ってみようと思います。叔母に会って私たちの知らない母の話をもっともっと聞いてみたいと思っています。



ありがとうお母さん、さようならお母さん。


母と朴のふたりの「他人船」

2018年04月06日 | あの頃 朴は若かった
母は演歌歌手「三船和子」の「他人船」という曲が大好きでいつも口ずさんでいました。

作詞・作曲、遠藤実先生の1966年のヒット曲ですから、母は34歳の女盛り、私はまだ4歳でした。

まさしく「門前の小僧習わぬ経を読む」というもので、大人の男女の別れを歌ったこの曲を、幼きころから歌詞を諳んじていたのでした。

母は何があってこの曲が好きだったのか今ではもう知る由もありませんが、歌詞をノートに書き写したり、歌うのではなく読み上げたり、4歳の息子に読み聞かせたりしていた記憶があります。

一年の殆どを船上で暮らす父とそれを待つ母でしたから寂しくて、自分たちに重ねていたのかもしれません。

歌詞を裏読みすることなくなぞると、男が別れを告げて船で去っていく別れの曲ですね。

でも、私も大人になって曲を作るようになってから改めてこの「他人船」を読み返してみると、これは「ドロドロの不倫関係の男がその清算を迫った時の女性の哀しい心情」を歌ったものと理解したほうが演歌としては自然だと思うのです。

「別れてくれ!」と男が真剣に言い出すと「そんなこと言うくらいなら死ねと言ってよ!」と言ってるわけですから、単に付き合っていた独身男女が分かれたでは物語に奥行きがありません。

この派生ストーリーで男に違う女が出来たというのも違うような気がするのです。

俺はマドロス、寂しい想いばかりさせるのならいっそ別れた方がいいじゃね?というのも違うでしょう。

さすれば、不倫演歌と考えられる「他人船」を歌う母はその昔に誰かとそのようなことがあった、またはしていた、はたまた願望があった・・・ そんなこともふと想ったりします。

どうであれ、子供(私ですが)を抱えながら、姑や小姑に苛められて頼りたい父もそばにいない、寂しい、孤独だ・・・ 

とすれば、昔を思い出したり、誰か違う男に頼りたいと思っても不思議はありません。

寧ろ、女性としてロマンチックでいいなと思います。

「他人船」こんな歌詞です。

素晴らしい曲です。

別れてくれと 云う前に
死ねよと云って ほしかった
ああ この黒髪の 先までが
あなたを愛しているものを
引き離す 引き離す 他人船

背中を向けた 桟橋で
さよなら云えず 濡らす頬
ああ この指切りの 指までが
あなたを愛しているものを
引き離す 引き離す 他人船

いつか逢えると それだけを
のぞみにかけて 生きていく
ああ この目の下の ホクロさえ
あなたを愛しているものを
引き離す 引き離す 他人船


ああ、私もこの「他人船」にあやかって「寸止海峡」という演歌を作曲しました。

今度のライブで歌い上げますので、是非とも宜しくお願い致します。

朴と母のみちのく一人旅!

2018年04月04日 | あの頃 朴は若かった
20年ほど前に帰省すると「応接間」(昔で言えば家庭訪問時に先生を招くような部屋)にカラオケセットが設置されていました。

その昔の場末のスナックのカウンター隅においてそうなもので、演歌や懐メロのカセットが数十本ついていました。

閑に任せて母が謡ったり、同じように閑なご近所さんと愚痴を言い合いながら楽しむために買ったのでしょう。

母は私に聴いてほしかったのでしょう「お兄ちゃん、ほれ一曲歌いなさいって。」と前座を務めさせようとマイクを勧めます。

当時、私の所属するバンド「江の島マンボ」はNHK BS2の「おーいニッポン 今日はとことん神奈川県」という8時間番組の中で「秋元康&後藤次利」がプロデュースした「新しい神奈川県のうた」でCD「賞味期限の恋だから」を出してもらった直後。

VTRや生で随分とテレビにも出させて頂いており、その映像は室蘭市でも流れていて、「有名人の母」として近所に自慢していたらしいのです。

「歌ってもいいけど金取るぞ!」とふざけると「ほれ、金遣るから歌え!」と1,000円くれたので仕方なく「山本譲二」の「みちのく一人旅」を歌うことにしました。

但し、1,000円貰った以上、普通に歌ってもしょうがないと思い「変化球」を投げることにしました。

「みちのく一人旅」、寂しげなイントロが流れます。深々と母に頭を下げる私、拍手する母・・・。

ここでぇ 一緒にぃ 死ねたらいいとぉ~とこぶしを回しながら静かに歌い始めます。

ここで一緒に死ねたらいいとぉ~と繰り返すと「あれ、間違ったのかい?」と問う母。

それを無視しながら、ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、と一番のVerseを歌い、Bridgeに入ります。

ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、とさらにこぶしを回しすと、母はツボに填まったのか笑い始めます。

オケの演奏も徐々に盛り上がりながらサビに突入!

ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、母大爆笑!

ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、

母せき込みながら腹を抱えて笑い転げます!

ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、ここで一緒に死ねたらいいとぉ~

母、屁をプ、プ、プーとこきながら笑い転げます。

ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、ここで一緒に死ねたらいいとぉ~

屁は止まらないどころか、プ、プ、からブー、ブーへ。屁もBridgeからサビへと向かいます。

ここで一緒に死ねたらいいとぉ~、ここで一緒に死ねたらいいとぉ~

全力で歌いきる息子、屁で合いの手を入れる母の一大歌謡ショウは笑いと屁の臭いが部屋に広がって無事終了したのでした。

しばらくして母「いやぁ、お兄ちゃん、面白かったわ。今度、それ母さん人前でやってみるわ!」と1,000円でネタも譲ったのでした。


母と朴の こんにちは、さようなら 2

2018年03月23日 | あの頃 朴は若かった
高校生となった食べ盛りの朴竜、それまでの給食から弁当持参となりました。

父は船員でしたので一年のうち何日も家にいないため、母は旦那が好みそうな酒の肴も手料理も全く作らなくても構わないある種恵まれた環境におりました。

いつも近所には、いやぁ父さん家にいないから、テレビ見てゴロゴロできるし、たくさん稼いでくるっしょ、で、ご飯も作らなくていいから楽だぁ、極楽極楽〜と、何だか分からない自慢をしてばかり。

父も極端な偏食で食べることに興味もないので、料理下手というより料理することが嫌いな母とは食で喧嘩はまず起きない夫婦だったのでした。

そんな母が作る朝夕の食事のレパートリーはほんの数種類で、焼くか揚げるか、たまに気が向けば煮るというくらい。

ですから、弁当は殆ど夕食の残り物でした。

お袋さぁ、たまには夕食の残り物じゃなく、何か違うもの作ってくれよぉ。

いやぁ母さん、料理下手だし、面倒くさいわぁ。

面倒くさいって、じゃあせめてオニギリとかにしてくれよ。昼飯までに腹減るしさぁ。
って言うか、料理も勉強すればいいっしょ、面倒くさがらずに。

オニギリ、ほら母さんのオニギリ、形悪くて格好悪いっしょ? だから恥ずかしいわ、それ見られたら。

お袋ぉ、だったらキレイに握る練習すればいいっしょ。恥ずかしい恥ずかしいって、いつもそればかりで、飯のひとつ息子のいうこと聞かずに面倒がるってどうよ!

いやぁお兄ちゃん、もうアンタ煩いわ!
ほれ、小遣いと別に金遣るから、学食で蕎麦食えばいいっしょ。

お袋はなんでもいつでも金遣るだなぁ。学食は昼からしかやらないの。オレは昼前にオニギリ食いたいの。

だったらパン買って食えばいいっしょ!だから、ほら、金遣るから、持って行きなさい!

あのね、オレはオニギリ食いたいの。購買も昼飯時ちょっと前にしか開かないの。パン買う前に腹減るの!

いやぁ面倒くさい、アンタ早く大学受かって家から出ていけば毎日ごはんごはん聞かなくていいのに。

あ、そう? 飯ひとつでそこまで面倒臭がる母親なんてまともじゃねえぞ! もういいわ馬鹿馬鹿しいし、恥ずかしいわオレが!

と喧嘩。しばらくすると、悪いと思ったのか、勉強部屋にリンゴなどを向いて持ってきて、

どれ、お腹すいたかい? リンゴ食べなさい。ほれ、母さん料理下手だから恥ずかしいっしょ。と言い訳の続き。

あ、じゃあ、ちゃんと作ってくれよ、たまにはさぁ、と言うと

いやぁ面倒くさい、ほれ、金遣るから!

って高校3年間はほぼ毎日、それの繰り返しでした。結局、面倒くさいだけじゃねーか!

振り返ると、お袋の味ってなんだろう?
私も弟も全く覚えてないんですね。


母と朴の こんにちは、さよなら 1

2018年03月23日 | あの頃 朴は若かった
3月21日は母の誕生日。

86歳になりました。

誕生日の前週に見舞ったときは眼も開かず、話すこともできず、栄養は点滴から取り命を
繋いでいる状態でした。

十分に高齢ですからもう哀しまなくてもよいと言い聞かせ、ただ苦痛を感じないようにと祈ることしかできません。

この頃、昔の母の言葉、交わした会話をよく思い出します。

忘れないように小ブログにしばし書き留めておくことをお許しください。

就職後から今に至るまでの帰省時の会話


腹減ったなあ、おふくろ何か作ってくれよ。 

アンタ飯食うのかい? いやぁ大儀だぁ(面倒くさい)、金遣るから外で何か食ってくればいいべさ。

金はオヤジより稼いでるから要らんわ。

普通の母親は息子が帰ってきたら喜んでごちそう作るぞ!息子に飯作るのがそんなに面倒? 

いやぁ、私の仕事はこうやって
ゴロゴロすることだぁ。 

そんなもん仕事じゃねえよ、なんか作れよ! 

だから嫌だって、ほれ金遣るから・・・! 

だから金は要らないって!このクソババァ、ほんとに昔から何もしねぇな!

もうほんとにうるさいねアンタは!そんなにうるさいならもう帰って来なくていいから! 

お、開き直ったなクソババァ!普通の母親はそんなこと言わんぞ!


悪いと思ったのかしばらくして・・・・


アンタ証券会社で仕事して大変でしょ? ちゃんとご飯食べてるのかい? 

おう、そりゃ食べてるよ。まあ、独身だから外食だけどね、仕事終わった後疲れてるし。

いやぁ、そんなので栄養ととれないべさ。 

まあ、取れないだろうね、だからたまに帰ってきたらお袋の作ったもの喰いたいんだけどね。 何?作る気になった?

いやぁ、大儀だから、ほれ金遣るから外で食ってくればいいべ、ラーメンとか・・・ あ、父さんに作って貰え! ほれ父さん、お兄ちゃんに何か作ってやりなさい! 

もういいよ、だったら聞くなよこのクソババアが!何もしなかったら呆けるよ絶対!

ということが毎年毎年、繰り返されてました。

結局、37年間帰省しても何も作ってくれなかったなあ・・・ 

そして予言通り呆けちまったなあ・・・



それぞれの浅間山荘事件 1972年

2018年03月16日 | あの頃 朴は若かった
母を看に帰省した先週土曜日の居酒屋での兄と弟の情景・・・・

「兄貴さぁ、お袋ってな~んにもしないし出来ない女だったよなぁ。ごろごろ寝てテレビ観てさぁ。これじゃ足腰弱るし惚けるのあたりまえだわ。」

「確かに!料理も面倒くさがって嫌々作ってたし、掃除してるところも見たことないなぁ、そう言えば・・」

「俺たちにはお袋の味ってのもないような気がするね。洗濯は仕方なくやってたよねそれでも・・・。 あ、そうだ!俺の幼稚園のお迎えも嫌々来てたわ。」

「まぁ、家が山の上にあったら上り下りが面倒くせぇんだよ、お袋は。」

「あ、そうだテレビで思い出した!兄貴さぁ、あさま山荘事件って覚えてるかい?」

「おう、確か1972年だったよ。だからオレ10歳かぁ。小学校4年だったかなぁ・・・よく覚えているよ。でもどうしてこんなにに強烈に覚えてるんだろうね。」

「でさ、そん時オレ幼稚園の年長だったんだけど、あさま山荘事件の日、ほら鉄球でバーンとやった日なんだけど、お袋迎えにこねぇの。」

「そうだったっけ?でどうしたんだっけ?」

「兄貴が迎えに来てくれたのさぁ。」

「そうだっけ?」

「そうだよぉ。 でさ、お袋から幼稚園に今手が離せないから小学生の兄を迎えにやらすからと電話があったんだよ。」

「へぇ?で、手の離せないことって何だったんだろう?」

「幼稚園も心配して、それは何か聞いたらしいんだけど、それがさぁ、あさま山荘事件を観てるから忙しいって答えたらしいよ。」

「えぇー 信じられねぇ。正直に言うなよっていうか、迎えに来ない理由にならねぇな普通は・・・。確かにごろごろ横になりながら、今忙しいからお兄ちゃんお小遣い上げるから迎えに行ってと言われたような気がするわ、だんだん思い出してきた。あー腹立ってきた。」

「普通じゃないんだよお袋は、だってなーんにもしなかったもの。こんなのが積もり積もってアホみたいになったんだな。だからさっき病院でアワアワ言っててもそんなに悲しくなかったわ・・・」

「なんだぁそうか、そうだな。俺もそう言われたらまあしょうがねぇな、原因があって結果があるわけだからな。でも、そうかぁ、だからあさま山荘事件をこんに鮮明に覚えてるんだなオレ。」

「そう、オレも幼稚園だったけど、こんなことがあってあさま山荘事件のことは良く覚えてるんだわ・・・」

と昔を思い出しながら、40年超ぶりに兄弟水入らずで弟の誕生日を祝ったのでした。