2年前の春に逝った母
母が逝く前日にようやく母の枕元に着くことができました
まだ寒い北海道の春の日の夕刻
私はいよいよ呼吸も浅くなり、脈拍も低下していく母の手を握りながら、熊本に住む母の18歳離れた妹(私の叔母)に電話をかけました
よく「意識はなくても人は最期まで耳は聞こえる」と聞いていたので、母の人生の最期に実の妹の声を聞かせてあげたかったのです
スマホのスピーカーを母の耳元にそっと置きます
妹は「美代子ねえちゃん、美代子ねえちゃん・・ 私だよ美枝子だよぉ。聞こえるかい?美代子ねえちゃん、ずっと苦しかったね。よく我慢したね。でも、もういいんだよ、お疲れさまでした・・ ありがとうありがとう・・・」
と泣き笑いの声。
そして、私に
「去年ん夏ね、美代子姉ちゃんば見舞うたときね。美代子姉ちゃん丁度寝とったんやばってん、うわ言でずっと、お母しゃんお母しゃんとずっとばあさんの名前ば呼んどったんやばい。」
「美代子姉ちゃんな6人兄妹ん一番上で、野良仕事で忙しかじいさんばあさんの代わりにずっとうちらん面倒ばっかりみていて、本当は甘えよごたったんにすっと我慢しとったんやろうね。」
「美代子姉ちゃん、うちん参観日にずっと親代わりで来てくれとって、どうもありがとうね。ごめんね。ごめんね。」
と泣いています
そして、母は最期に大切な妹の声に包まれて逝きました
気のせいかもしれませんが、母の眼にはうっすらと涙が溢れていたように見えました
優しく穏やかな死に顔でした
そして翌夜、母の亡骸と一緒に葬儀場の親族控室にて休んでいると叔母から電話がありました
「朴(私)と智(弟)に美代子姉ちゃんのことでどぎゃんしてん伝えとかなけばならんことがあって電話したんばい。ちょっと話してんよか?」
と昨年夏に母のお見舞いに行った時の話をしてくれたのです
「美代子姉ちゃん、子供たちん顔も分からんくなっとると聞いとったけん、久々に会ううちんことば忘れてんしょうがなかと覚悟して会いに行ったんやばってん、病室んドアば開けて顔ば見すると、美代子姉ちゃんなうちば見るなり熊本弁で、あれぇ美枝子ちゃんどぎゃんしたと?急に来て元気やったかかとうちんこと覚えてくれとってたいぎゃうれしかったんばい。ほんなこつ会いに行ってよかったて思うたんや。」
「それからお互いに会うとらんこん何十年分ん写真も持って行ったと。子供や家族ん写真、親戚ん写真、熊本ん実家や町、それから熊本地震ん時ん街ん様子とかたくさん持って行って、ずっと話したんばい。」
「そん話ん中でどぎゃんしてん美代子姉ちゃんにずっと聞こごたったことがあったけん、初めて聞いてみたんばい。」
「そりゃ今んごつ新幹線や飛行機もなかような時代に熊本から北海道に嫁いで不安じゃなかったと?どぎゃん覚悟で行ったと?美代子姉ちゃん幸せやった?って」
「そぎゃんしたら美代子姉ちゃんなこう言うとったんだばい。美枝子ちゃんな熊本で井坂しゃんちゅう立派な旦那しゃんば見つけたけん幸せになれた。たぶんうちゃ北海道まで来て父しゃんと一緒になることで幸せば見つけようとした。」
「父しゃんな変わり者だばってん、うちに手ば上ぐることものう、まじめに働いてくれて、息子二人ば立派に育て上げたし、そん息子二人も愛する人ば見つけたけん、二人ん娘がでけた。そしてしっか家族ば作ってくれたけん、今じゃ孫が6人、ひ孫が2人に囲まれて幸せだ。やけん北海道に来たことばいっちょん後悔しとらんし、北海道に来たけん幸せになれたんや。美枝子ちゃんも家族ば大切にするったい。」
「もう涙が止まらんかったばい。そして美代子姉ちゃん幸せで良かってん思うたばい。そして朴は昔から今でもずっと自慢ん息子で誇らしかって言うとったばい。」
「そればどぎゃんしてん伝えよごたった。やけん残されたふたりは元気でいて欲しかし、美代子姉ちゃんにほんなこつ愛されて育てられたちゅうことばずっと覚えとって欲しか。」
叔母の話をスピーカーフォンで聞いていた僕ら兄弟二人はもう涙が止まりませんでした
母の気持ちを分かっていたはずなのに、十分に分かってあげられていなかったかもしれないと・・・
そう思いながら母の亡骸を見つめていました。
耳の遠いオヤジだけが一心不乱にエロ雑誌を読んでいるのが可笑しかったなあ
オヤジは十分お袋を幸せにしたんだね。かっこいいよ。でも、エロ雑誌はなぁ。
でも、そのオヤジは母の後を追うように、その一年後の同じ日に逝ってしまうし
きっと寂しかったんだな
オヤジごめんね 弟とふたりで後悔してるよ
先週帰省した時に、弟とふたり分の母子手帳が見つかったよ。大切に保存してくれてたんだ
湘南に持って帰ったからね
ありがとうお母さん、さようならお母さん
ありがとうお父さん、さようならお父さん