連れ合いの事を“役立たずのゴミ”などと書くとパッシングを受ける。
自分の事はどうなの?
あなた自身も役立たずのゴミの部分があるでしょう?。
『はい もちろんです あるなんて半端で生易しいもんではありません』と思っているし 又そう答える。
言葉は両刃の剣だと思う。
書いた責任は私に帰するものだ。
当たり前のど真ん中の話。
相手に対して言っているように見えても結局わが身に跳ね返るのが言葉だ。
肝に銘じている。
その上で尚 役立たずの‥‥と言える家族は、健康だ。
言われた人間は、お前もそうだよなぁ。
‥と返す余裕がある。
今朝 台所で目の前に白い靄がかかって、いよいよ白内障になってしまったのかと思った。
日頃 老眼で遠くが霞んでぼやけている。
認識がある。
ウンでも‥ どう見ても 、いや目が見えているとは言いがたいが、隣家の屋根が白い。
表に出た。
雪が積もっている。
四月の雪。
韓流ドラマの題名ではないか‥見てはいないがそんなドラマがあったと思う。
一瞬感慨にふける。
記憶は確かなのか?という思念と、寒さで凍える身体という老化現象の真ん中で頭が止まる。
にしても 春なのに雪は驚く。
自分は確かに役立たずのゴミの部分を持っているし、抱えているし、身の内にある。
ただ それは私と言うものの一部分であるだけで、全てではない。
私が言葉を投げつけている相手もそうだ‥社会生活に不向きだとしても、類い稀なる部分も内在している。
家族仲良く‥は厄介だ。
副作用が出る。
依存と利用と憎悪の対象になりやすいのも家族なのだ。
年齢と共にそれが見える。
依存は共存 利用は無用 憎悪は愛‥と嘘をつく。
意識もなく無意識に言葉を置き換える脳みそ。
年(とし)というのは恐ろしい。
経験というか劣化というかはそれぞれの勝手だが‥都合よく納得したいための嘘をついているじぶん。
初めは、我が子の行く末が不憫でついてきた嘘が‥そのうち自分の為の嘘になっている。
にしても 春なのに雪は驚く。
肌が刺す寒さは現実だ。
四月だというのに。