1300年に2人だけ!千日回峰行を満行した塩沼亮潤大阿闍梨が得た学びとは?
塩沼亮潤さんインタビュー【第1回】
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44343
そのときに自分の過去の人生が映画のように頭に流れてきたんです。いろんな人にお世話になってきたなあ、と。その映像の最後に出てきたのが、出家のときに母が私にかけた「砂をかむような思いをして修行をしてきなさい」という言葉でした。そこで倒れたまま地面の砂を口に含んでみたところ、ものすごい違和感があって「こんなところで倒れてはいられない」という猛烈な情熱が湧いてきたんです。そして、起き上がって山に向かって走り出しました。走れるわけがないのに、山頂を目指して走っている自分がいる。不思議な体験でしたね。
人間というのは、極限状態を超えると生きる力が湧いてくるんだと実感しました。
塩沼: 無理に追い込まなくても、生きていたら誰にでも人生の試練はあると思います。大事なのは、そこから逃げないこと。その修羅場みたいなものを体験して、痛みを自分で感じないと成長しません。成長には必ず痛みが伴うものです。私も修行を体験したからこそ、今の自分があります。山に入らなくても、日常において、あるがままに自分の周りで起きるさまざまな試練を乗り越えていかないと、人間は成長しないと思うのです。
塩沼: それはやはり慈しみの心ではないでしょうか。仏教の神髄は慈しみの愛。愛という字は「受」けるという字に「心」を挟みます。相手と向き合う心がなければなりません。どんな人でも嫌わず向き合う心です。でも99%むずかしいときでも1%は嫌わないでいることです。けっして相手をうらんだり憎んだりしてはいけません。
慎: それこそ修行を重ねて、日々培っていくものなんですね。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44344
慎泰俊さんがプロフェッショナルたちの仕事の流儀に迫る本連載、今回は慈眼寺住職の塩沼亮潤大阿闍梨の登場です。往復48キロの山道を1000日間歩き続ける修行「大峰千日回峰行」を満行した塩沼亮潤さん。修行を通じて、自己を顧みる心と感謝の念を得たと言います。現在は、大阿闍梨として全国各地、世界中を飛び回って教えを説きながら、仙台に開山した慈眼寺の住職を務めています。 第2回は、修行を終えて慈眼寺を開山してから、日々の習慣や情熱の源泉についてお話を聞きました
塩沼: あまり口に出していいたくないのですが、いまは聞かれたので本当のことを言います。「世の中がよくなるために、社会がよくなるために、みなさまのお役に立ちたい」ということが原点でした。しかし師匠がある日教えてくれました。「お坊さんはあまり世の為人の為とは言わないほうがいい。人の為と書いて偽りというだろう」と教えていただいたので、あまり口にしませんが、みなさんが喜ぶことが自分の喜びでもありますので、そこが原動力です。
塩沼: 自分のためだけであったら途中でいやになってしまっていたと思いますね。大阿闍梨になりたい、という思いだけではむなしいですよ。千日回峰行を達成することが目的ではないですから。私には千日回峰行もあくまで人生の通過点であって、世界中の人たちの心を癒すようなお坊さんになりたいという大きな夢があります。
私が今心身ともに充実していて、なぜ揺るぎない自信があるか。命がけで挑戦した経験がある、というのもあるかもしれませんが、今を情熱を持って生きているからだと思います。外的条件が厳しいところでなくても、日々情熱は心に灯しています。「みんなのため」という気持ちを根っこに、どんどん挑戦していきたいですね。
ただ講演などで話すときは意識して面白いことを言う場合もあります。というのも、人間の脳は感動したことも1年もすると忘れてしまうけれど、笑った記憶は残るそうなんです。笑いはコミュニケーションの潤滑油のようなものですね。