今日は神経心理学系のクラスでプレゼンをしたけれど、
簡単なプレゼンなのに、終わるとどっと疲れがでるから、
いかに自分にとってプレゼンがStressfulなものかが分かる。
プレゼンは、その準備段階や、最中よりも、終わってからの
余韻のほうが自分にとっては厄介だ。
今日のプレゼンは、境界性人格障害の、
神経心理学的特徴の、「感情の調整不全」についての
ものだったのだけれど、感情の調整不全とは、簡潔に
述べるならば、「一般の人口」と比べて、
1)外的刺激に対する感情の敏感性、
2)その感情の強度、そして、3)その感情が
ニュートラルな状態に戻るまでの時間の長さ、
についての概念だ。
でもこれは、何も境界例の人に限られたことではない。
全ての精神病理が、その「程度問題」であって、どこまでが
正常で、どこからが障害なのかはかなり主観的であり、
恣意的なものであるように、「感情の調整不全性」に
ついても、「正常か異常か」ではなくて、その傾向の有無や
度合いとして捉えた方が、いろいろな意味で有益だと思う。
具体的に、「感情の調整不全」とはどんな感じか
といえば、環境に対して敏感でこころが反応しやすく、
揺れやすく、その、反応して揺れた感情が落ち着くまでに
時間がかかることだ。
これは、ポジティブな状況(特別な人と会ったとか、
特別な行事があったなど)にもネガティブな状況にも
あてはまることだ。
「21世紀はこころの時代」などと言われて久しいが、
誰もが多かれ少なかれボーダーライン的な現代社会、
このような、敏感なこころを持った人はとみに増えている
ような印象がある。
つまり、このような特徴を持った人は多いのだけれど、
自分にそのような傾向があるのだと自覚している人と
そうでない人との間には、大きな違いがあると思える。
こころが揺れているとき、その余韻で、人々は
やらなくてもいいこと、やらなければいいことを、ほとんど
無意識にしてしまうものだけれど
(家に帰ってゆっくり休めばいいのは分かっているけど
なんとなく遅くまでぶらぶらしたり、いらないものを
買ってしまったり、食べたくもないものを食べて
しまったり、別に一緒にいたくもない人と時間を
過ごしてしまったり、パチンコやゲームで無駄に
お金を使ってしまったり)、
もし自分にそういう感情的特徴があるのだと
分かっていると、感情がもとに戻るまでやりすごせたり、
リラックスするための時間を設けられたり、ゆっくりと
休むことを選べたりすることにも繋がるから、やはり、
自分のこころをより深く理解し自覚することは
大切だと思う。
そういうわけで、なんとなく書いているこの記事も
そろそろ終えようと思う。やめたくてもなかなか
やめられないのだ・・・
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2006年5月の初めに書いたものです。
(前回の続き)
感情という現象には、まず、特定の状況に対する
身体的な反応があり、主観的な気持ちは、その
フィードバックから生じるものだというところまで
書いたけれど、さらに、我々は、この主観的な
感情を、無意識的に表情にだして、周りの人に
伝えることになる。自分の気持ちや状況を周りに伝える
のは、あらゆる生き物にとって大切なことである。
「表情による、感情のコミュニケーション」という機能だ。
さて、我々は、他者の表情と言語による話に対して、
その人に共感することになるけれど、我々はどのようにして
相手に共感しているのだろうか。
私たちは、相手の表情にあわせて、自分も同じ表情をする。
これは、意図的である場合もあるけれど、その根本は
基本的に無意識的なもので、この「調和した表情」
によって、相手に、自分は共感しているのだと伝えている。
このとき、我々は、その相手の感情(喜びと笑顔、
怒りと怒りの表情、悲しみと苦痛な表情・・・)を
感じることで共感するわけだけれど、興味深いのは、
その仕組みだ。
これは、いろいろな研究によって支持されていること
だけれど、我々は、相手にまねて表情を作るという
「身体的な反応」によって、相手と調和した、主観的
感情も体験することになるという。
赤ちゃんが、大人の表情を真似することは広く知られて
いるけれど、我々は、遺伝子のプログラムに加えて、
このように、小さい頃からの学習によって、非言語的
コミュニケーションの技術を獲得するようだ。
悲しい顔をしている友人を見て、たとえ、実際にその
表情を自分も作らないとしても、自分がその表情をする
のをほとんど無意識に想像して、同じ気持ちになっている
のは、注意してみると自覚できると思う。
逆に、笑っている友人をみて、つられて笑ってしまい、
自分も楽しい気持ちになった、ということも、誰もが
経験していることだと思う。
ちょっとややこしいけれど、つまり、我々は、自分自身が
特定の表情を作ること、また、作ることをイメージする
こと(身体的な反応)によって、それにあった、
主観的な感情が得られるようだ。
以上のことを踏まえてみると、ちょっと辛いときに、
鏡の前で笑ってみると、ちょっと気分が上向きになって
きたり、気晴らしにお笑いなどを見て、笑っていたら、
気持ちが晴れてきたりするのは、科学的にも道理にかなって
いるように思える。
意図して作ってみた表情の種類によって、実際に
気持ちもそのように変わっていくという事実は、
日常生活のいろいろな局面で応用可能なもので、この
知識を上手く生活の中に取り入れていくと、
ちょっとした時に、いろいろと役立ちそうである。
もちろん、本当に強い気分を経験しているときに、
それを覆すような効果はないだろうけれど、少なくとも、
気分の方向を転換させるきっかけにはなると思う。
普段の日常生活の中で、何気なく使っている
「感情」という言葉だけれど、それでは、
「感情ってなんですか?」とか、
「感情と気持ちの違いって何ですか?」
と言った質問をされて、上手く答えられる人は
少ないのではないだろうか。
一般に「気持ち」、「気分」、「感情」と
いったものは相関的、同義的に使われているけれど、
心理学における「感情」とは、一般社会における
「感情」の概念とは少し異なる。
心理学者の間でも、「感情」(Emotion)の定義に関しては
意見の分かれるところで、満場一致ということの決して
有り得ない概念であるということは、人間の「感情」という
ものが、いかに主観的で、複雑で、多岐にわたる概念かを
物語っているように思う。
多くの心理学者が感情的に異論を唱える
「感情」だけれど、基本的に、心理学における
感情というのは、どちらかというと、「進化論的」、
「生物学的」なものだと言うことにおいては、
異議はないと思う。
感情における考察には、少なくとも3つの局面があり、
それは、1)その感情を喚起する、特定の状況に
対する、個体としての、反応パターン、
2)個体において認識された感情の、他者への
コミュニケーション(表情、ジェスチャー、言語、また、
その言語の声のトーンなど)、そして、
3)Feeling of Emition,つまり、より主観的な感情だ。
この、3つ目の要素が、日常的に人々が使っている
「感情」の概念に一番近いようだ。
私たち人間の感情とは、自然淘汰における賜物で、
人間以外のいろいろな動物間で確認されている。
それが進化の過程で残ったのもだとされる根拠の一つは、
上記2の、「感情の他個体へのコミュニケーション」に
よるものだけれど、人間の、特定の感情を表す表情は、
地域や文化を越えて、普遍的だということがある。
感情のコミュニケーションは、非言語的(Non-verbal)な
ものが言葉による伝達よりも優先されるのだけれど、
(実際私たちは、相手の言っていることよりも、相手の
声のトーンや表情の方を判断材料において重視する)
これは、言語を持たない個体間が、いかに上手くそれぞれの
感情をまわりに表現しているかをみると理解できる。
感情について書くことそれこそ無数にあり、切りがないの
だけれど、今回は、上記3つ目の要素、「主体的な感情」に
ついて考えてみたいと思う。
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私たちは日常生活のいろいろな局面で、じつに様々な
感情を体験しているけれど、「主観的な気持ちは実は
2次的なもので、その状況における体の反応の方が
気持ちに先行する」と聞くと、違和感を感じる人も
多いと思う。「何いってるの? 気持ちが先で、身体の
反応は後でしょう」と。
しかし、以下の体験をしたことはないだろうか。
・映画を見ていて、とりわけこころが動かされたと
思っていないけど、気付いたら涙がでていた
・人前で、ある状況で、恥ずかしいと思っていないのに、
気付いたら赤面していた
・誰か、不快な人を前にしたとき、自分はそれほど嫌では
ないと思っていたけれど、体中鳥肌が立っていた
他にもいろいろな例があるけれど、これらのことや、
これと似たような大変をしたことのある方は多いと思う。
このように、いろいろな状況下で、私たちが認識する
主観的な気持ちというのは、身体の反応(自律神経系、
内分泌系、筋肉など)を体感した後の、フィードバックに
よるものだと言われている。
つまり、1)外部のある特定の状況→2)脳の反応→
3)脳からの、自律神経系、内分泌系、筋肉系の喚起
への指令→4)発汗、動悸、身構え、鳥肌などの
身体的、感覚的な反応→5)脳へのフィードバック→
6)主観的な気持ち→再び2)へ
となっている。
(次回に続く)