我々人間は日常の様々な人間関係において、いろいろな情緒体験をする。それが愉快で幸福なものであることもあれば、甚だ不愉快なものであったり、ストレスや緊張感、苛立ちや、怒りの経験であったりもする。
今回は、とくに後者の場合についていささかの考察を加えてみようと思うけど、そうした対人関係におけるネガティブな情緒体験には、すべてとは言わないまでも、そこには往々にして、そのひとの、相手の気持ちや考えや感情をコントロールしたいという思いが関係している。ひとことで「相手の気持ちをコントロール」といっても、そこにはいろいろな状況がある。
たとえば、母親が、彼女の価値感や、社会的な基準において好ましくないと思う行動をしている子供を何とか変えようとしているけれど、子供は反抗するばかりでなかなかうまくいかない。また、ある男性が、交際している女性に、彼がよいと思っているものを熱心に勧めているのだが思うような反応が得られない。また、ある人が、友人から、「こういう風に見られたい」という思いが強くていろいろと自分の話ばかりしたり、ある事象において自分と価値観の違う友人の考え方を自分のようにしたくていろいろ議論してみたりなど、状況を挙げていくと枚挙に暇がない。
このような上記の例は、どちらかというと分かりやすいものだけれど、もっと深刻な例としては、たとえば重度の鬱で引きこもっていたり、自殺念慮のある家族や配偶者、恋人や親しい友人を何とか助けようとして、いろいろと働きかけるうちに、どんどん人間関係が難しくなっていくということもあるだろう。
このように、一見いろいろと異なった状況にみえるいろいろな対人状況だけれど、ひとつ共通していると思われるのは、その心的葛藤や困難を経験している人間の、対象となる他者に対する過剰な同一視と、それによる対人距離の欠損だろう。つまり、あまりの同化で対象との距離がなくなりすぎているため、相手のこころが自分のこころの延長のような幻想を知らず知らずのうちに抱いているので、それが自分の思うように変わらないものだから、ストレスや苛立ちや怒りとなり、非生産的な言動には拍車がかかり、そのような投影を受ける対象の人間は、相手のそうした思いが直感的に伝わるので、さらに防衛的になり、悪循環は続いていく。
これらの問題において、「どうしたって相手は他人であり、他人のこころはもともとコントロールできないものだ」という前提を持った上で、もっと距離を持って付き合っていくことが考えられる。もちろん、人間は互いに影響しあう生き物であり、「相手がこのようになればいいのに」と思うのも当然のことである。さらに、そうした気持ちは多くの場合、善意に基づいていて、実際に、相手としてもそのように変わりたいと望んでいたりすることも少なくない(たとえば先ほどの例で、鬱の友人の自殺念慮を軽減させたいという思いは、友人本人だってもちろんそのように思っているものだろう)。ただ、問題なのは、ひとはそれぞれが主体性を持っていて、それぞれのアイデンティティに基づいて生きているので、それが脅かされるほどに短い対人距離や強い投影を受けては、そこにどんな善意があっても、こころの防衛機制が働くので、人間関係は難しくなるばかりだ。
だから、「人間関係はそういう風になり勝ちなのだ」と分かっていれば、過剰同一視も未然とまではいかなくても軽減できるし、「なんとしても相手をかえなければ」という気持ちもやわらいできて、ストレスや強い感情も収まってくる。それは、この前の「理想」の記事とも通じるもので、「相手を~のように変えなければ」というのは理想、つまり幻想であるのにたいし、「相手が~のようになったらいいなあ。そうなるように、相手のこころの領域に踏み込むことなく、自分にできることをしたり言っていこう」という希望をもって付き合っていくのは、ずっと健全な人間関係であり、逆説的に、そうしたスペースやこころの余裕があるぶんだけ、相手も却って変わりやすくなる。
筆者は以前、「このブログを読む読者に『すごい心理学者だ!』って思われたい!!!!!!」という気持ちがあり稚拙な文章をがりがり書いて投稿していたような気がするけど、いつしかそういう気持ちがなくなってしまってから、こうしてたまに思いついて記事を書いてみるのがより楽しくなった気がする。自分の主張を誰かに聞いてもらったり、文章を誰かに読んでもらうことはできても、その人が自分についてどう思うかは、どうにもならないのだ。また、どうにもならないからこそ、人間関係は楽しいのだと思う。
今回は、とくに後者の場合についていささかの考察を加えてみようと思うけど、そうした対人関係におけるネガティブな情緒体験には、すべてとは言わないまでも、そこには往々にして、そのひとの、相手の気持ちや考えや感情をコントロールしたいという思いが関係している。ひとことで「相手の気持ちをコントロール」といっても、そこにはいろいろな状況がある。
たとえば、母親が、彼女の価値感や、社会的な基準において好ましくないと思う行動をしている子供を何とか変えようとしているけれど、子供は反抗するばかりでなかなかうまくいかない。また、ある男性が、交際している女性に、彼がよいと思っているものを熱心に勧めているのだが思うような反応が得られない。また、ある人が、友人から、「こういう風に見られたい」という思いが強くていろいろと自分の話ばかりしたり、ある事象において自分と価値観の違う友人の考え方を自分のようにしたくていろいろ議論してみたりなど、状況を挙げていくと枚挙に暇がない。
このような上記の例は、どちらかというと分かりやすいものだけれど、もっと深刻な例としては、たとえば重度の鬱で引きこもっていたり、自殺念慮のある家族や配偶者、恋人や親しい友人を何とか助けようとして、いろいろと働きかけるうちに、どんどん人間関係が難しくなっていくということもあるだろう。
このように、一見いろいろと異なった状況にみえるいろいろな対人状況だけれど、ひとつ共通していると思われるのは、その心的葛藤や困難を経験している人間の、対象となる他者に対する過剰な同一視と、それによる対人距離の欠損だろう。つまり、あまりの同化で対象との距離がなくなりすぎているため、相手のこころが自分のこころの延長のような幻想を知らず知らずのうちに抱いているので、それが自分の思うように変わらないものだから、ストレスや苛立ちや怒りとなり、非生産的な言動には拍車がかかり、そのような投影を受ける対象の人間は、相手のそうした思いが直感的に伝わるので、さらに防衛的になり、悪循環は続いていく。
これらの問題において、「どうしたって相手は他人であり、他人のこころはもともとコントロールできないものだ」という前提を持った上で、もっと距離を持って付き合っていくことが考えられる。もちろん、人間は互いに影響しあう生き物であり、「相手がこのようになればいいのに」と思うのも当然のことである。さらに、そうした気持ちは多くの場合、善意に基づいていて、実際に、相手としてもそのように変わりたいと望んでいたりすることも少なくない(たとえば先ほどの例で、鬱の友人の自殺念慮を軽減させたいという思いは、友人本人だってもちろんそのように思っているものだろう)。ただ、問題なのは、ひとはそれぞれが主体性を持っていて、それぞれのアイデンティティに基づいて生きているので、それが脅かされるほどに短い対人距離や強い投影を受けては、そこにどんな善意があっても、こころの防衛機制が働くので、人間関係は難しくなるばかりだ。
だから、「人間関係はそういう風になり勝ちなのだ」と分かっていれば、過剰同一視も未然とまではいかなくても軽減できるし、「なんとしても相手をかえなければ」という気持ちもやわらいできて、ストレスや強い感情も収まってくる。それは、この前の「理想」の記事とも通じるもので、「相手を~のように変えなければ」というのは理想、つまり幻想であるのにたいし、「相手が~のようになったらいいなあ。そうなるように、相手のこころの領域に踏み込むことなく、自分にできることをしたり言っていこう」という希望をもって付き合っていくのは、ずっと健全な人間関係であり、逆説的に、そうしたスペースやこころの余裕があるぶんだけ、相手も却って変わりやすくなる。
筆者は以前、「このブログを読む読者に『すごい心理学者だ!』って思われたい!!!!!!」という気持ちがあり稚拙な文章をがりがり書いて投稿していたような気がするけど、いつしかそういう気持ちがなくなってしまってから、こうしてたまに思いついて記事を書いてみるのがより楽しくなった気がする。自分の主張を誰かに聞いてもらったり、文章を誰かに読んでもらうことはできても、その人が自分についてどう思うかは、どうにもならないのだ。また、どうにもならないからこそ、人間関係は楽しいのだと思う。