興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

信じたいもの

2009-12-26 | 戯言(たわごと、ざれごと)
http://www.youtube.com/watch?v=oqnrHM4bUa0

 この動画はたまに思い出して見るたびにHappyな気分になるもので、本物であると信じたいと見るたびに思っている。友人達は皆口をそろえてこれは偽物のインチキであるという。「本当なら何度も死んでるよ」と。確かにこのマリオは何度もパックンフラワーやらファイアーバーに触れているように見える。これはやはりインチキの偽者なのだろうか。これは現実の人間にできるものではないのだろうか。

 やっぱりありえないか、偽物か、と思う自分と、いや、もしかしたら本物かもしれない、という自分が常に存在している。信じたいから、疑わしいと常に思いつつも、徹底的に調べたり偽物であるという証拠を見つけようとしないのだろう。サンタクロースは存在しないと決まったわけではないのだ。

 本当だったら素晴らしい、本当であって欲しい。その半ばすがりつくような願いは、ほとんど自己暗示的で、しかしその自己暗示は決して完璧に機能することはない。完璧ではないけれど、それが完全に解けてしまうこともない。それはきっと、嘘だと疑う気持ちよりも、本当であって欲しいという気持ちのほうがいつでも遥かに強いからなのだろう。ある種の憧れやファンタジーは、ほとんど無意識に近い意思の力によって永続するものだ。それは究極的には、その事象が好きか嫌いかによるかもしれない。自分はこの、「この世のどこかにはスーパーマリオを5分以内でクリアできる人間がいるのだ」という可能性が好きで、その風景に何か強くPositiveなものを投影している。

 もし近いうちに誰かが「嘘であるという決定的」な証拠を見せてくれたとしても、きっと自分は「もしかしたら」と思い続けるだろう。ある種の希望は、自己欺瞞のうえに成り立っている。自分を騙していることすら忘れ、自己欺瞞の塊のように生きていてはどうしようもないが、全ての自己欺瞞の可能性に懐疑的に自己批判的に生きていくのもHopelessで病的である。ある種のことは、自分に嘘ついている自分を見逃してそっとしておいてやる自己容認が必要であるとは思いつつそれもなんだかうまくいかず、どうにもやりきれないことがある。