最近気になっていた絵本『それでも僕は夢を見る』を 読んでみました。水野敬也さんと鉄拳さんの作品です。
この作品は少し前に新聞を読んでいたときに見た広告で知り、なんとなく心を惹かれるものがあったのですが、それを忘れたころに、今度は電車のなかでこの本の広告を見かけ、なんだかとても読みたくなり、到着した駅の本屋で購入しました。とても良い本だと思います。
私はこのように、この『夢』の本のことが気になり、しかし日々の忙しさでそのことを忘れていたわけですが、電車のなかで再び思い出されることで、それは以前よりもはっきりと自分のニーズとして認識され、購入するいう行動に至ったわけです。今回私が書こうとしている精神分析学の概念、『放棄された自己』は、こうした日常の小さなところにも見られれば、この本『それでも僕は夢を見る』のように、その人の人生でとても大きな現象であったりします。
さて、放棄された自己(Disowned self)とは何かといいますと、自分がもともと持っていた性格や性質、夢や願望などの一部を、その環境における影響により、ほとんど無意識的に、「自分のものでない」と、自己から切り離して、無意識に葬り去ってしまうことです。ネタバレになると良くないので、この本の広告に出ていた範囲の内容に留めて話しますが(ネタバレを含む解釈は本文の後の「脚注1」にあります。この本を読んでから読まれることをお勧めします)『それでも僕は夢を見る』において、主人公の男性は、叶わない夢を抱き続けることに限界を感じて、夢と決別します。この物語において、「夢」は「僕」の自己の一部なのですが、それは危うくて自我親和性の低い夢なので、別人格のように経験されています。それでも長い間それを認識して生きてきたのですが、何しろ挫折続きの人生で、いつまで経ってもその夢はかなわないため、意識し続けることがあまりにも苦痛になり、「僕」は、「夢」を自己から切り離して、夢の存在を否定して生きることになります。
Disownとは、「自分のものではない」と言ったり、「自分との関係を否認する」という意味で、つまり主人公はあるとき、自分の夢を「自分のものではない」として、自分との関係を否認してしまったわけです。
このようなことは、私たちの人生でいろいろな形で起こっていることです。たとえば、もともとな明るくて外交的であった小さな子供が、仕事などで常に忙しくてその子のことに気を掛ける余裕のない親のもとで育ったら、無口で引っ込み思案な大人になってしまったりします。また、好奇心旺盛であった子供が、その子のいろいろの素朴な質問を無視したり、軽くあしらったりしてばかりの親のもとで育ったら、無関心な大人になってしまったりします。
これはどうしてでしょうか。
それは、その子がもともと持ってる性質を持ち続けることが、その子が置かれた環境のなかで生きていくことが、苦痛すぎるからです。たとえば、前者の子は、人好きであったので、両親と頻繁な交流を希求し、彼らに近づくわけですが、親はとても忙しくしていて、その子が近づいてくるのを鬱陶しがったり、ひとりで遊ぶように言ったり、また、構ってはくれるものの、余裕がなく、別のことを考えているのがその子にビンビン伝わってくるようだと、その子は「人好きである」という自分の性質を持ち続けるのことが大変になります。なぜなら、その性質を持ち続ける限り、その欲求が満たされないため、寂しさ、悲しみという辛い感情が伴うからです。そのようにして、その子は徐々に、人と繋がりたい、交流したい、という自己をその人格から切り離して意識しないようになります。このようにして、人格から切り離されて、無意識に抑圧された自己を、「放棄された自己」といいます。
好奇心旺盛な子についても同じことが言えますね。その子の純粋な好奇心を無視したり適当にあしらう親の元では、その好奇心という欲求は満たされず、不満、怒り、悲しみという辛い感情が伴います。この子のサバイバルにおいて、好奇心はないほうが都合がよいのです(脚注2)。
これは別に幼少期に限って起きることではありません。大人になってからも起きます。『それでも僕は夢を見る』のように。たとえば、夫との親密さをとても大切に思っていて、希求する女性がいて、その夫が仕事などに忙殺されていて、いつも疲れていて、その女性の欲求を拒んだり、適当にあしらったりしていると、彼女は徐々に、こうした満たされない自分の欲求を「自分のものではないもの」として、自分から切り離して忘れてしまうようになります。なぜなら、その夫と結婚生活を続けるためには、そうした欲求を認識し続けるのは苦痛すぎるからです。
このようにして、人はその環境の中で、いつの間にか、自分の気持ちや必要を無意識に押しやって、忘れて生きています。これはもちろん、その人にとって良くないことです。なぜなら、そのようにその人本来の性質がその人から切り離されることによって、その人は、自己として完全体ではなく、また、自分のニーズを無視して生きているため、慢性的な鬱気分、不安、良く分からない苛立ち、不機嫌、体調不良(Somatization)などの症状に悩まされます。また、こうした症状がなく、その代わりに、いろいろなことを深く考えたり、感じたりすることのできない、表面的で軽薄な印象の人になってしまったりします。なぜなら、その人が潜在的に持っている本来の奥行きの可能性を、その人は否定して生きているからです。深く感じることが、そのひとにとって、心地悪いものなのです。
このようにして、本人が長年に渡って忘れていたニーズ、願望、気持ちというのは、精神分析的精神療法をしていると、良くでてきます。こうしたものは、「失った」(Lost)ものではなく、あなたの心の中のどこか手の届かないところに仕舞われている(Misplaced)状態なので、良いコンディションが整うと、自ずと出てきたりします。
そして、そうしたものの存在を再認識して、その人は驚きます。そういうときの私の仕事は、その人が、そのようにして再認識した元来の必要や願望を、その人の自己が再統合することを促進することです。たとえば、その再統合の過程を妨害するものを取り除いたり、その人の自我を強くして、再統合に耐えられるようにしたり、また、その人が、その必要を、今の生活の中で、今回こそ、どのようにして満たしていくか、ふたりで考えて、取り組んでいきます。そのために足りないことがあれば、セラピーのなかで、その技術などを練習して身につけたりもします。当然ながら、このようにして「切り離された自己」を自分のものとして再認識して、その必要を今度は手放さずにしっかりと掴んで、その自分本来のニーズに向き合い、満たしていく努力を始める人は、自己として完全体に戻るので、いままでになく生き生きとしてきますし、上記のような心身の問題も次第に軽減していきます(本文終了)。
_____________________
脚注1) 『それでも僕は夢を見る』の主人公は、そのようにして、夢を自己から切り離して生きてきましたが、その死ぬ間際になって、そのDisowned selfを再認識するようになります。それは彼の無意識からの声です。無意識に押しやられていたものは、失ったものではなくて、自分のこころのなかのどこか手の届かないところに行ってしまっていたものです。彼は幸い、その死ぬ間際で、その「夢」という自分の性質を、自分のものであると再び認識し、夢と和解し、受け入れて、自分の中に再統合することができました。その結果、彼は満たされた気持ちでその人生を終えました。
(脚注2) ところで、こういう人たちに、幼少期の記憶について尋ねると、ほとんど記憶がないとか、どういうわけか、あまり覚えていないんですよ、という答えがしばしば却ってきます。これは不思議なことではありません。このように幼少期いろいろな自然な気持ちを感じないように感じないようにと生きてきた人たちは、いろいろなことに感動したり、何かに強い愛着を持ったりという機会が持てなかったので、とくに印象的なことが生じにくく、記憶もあいまいになりがちです。ここで大事なのは、これは彼らのせいではない、ということです。選択肢のない、小さな子供であったとき、なんとかその環境でやっていくために、そうしなくてはならなかったのです。