興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

真実が聞かれる時 (when the truth is believed...)

2006-10-30 | プチ臨床心理学

今日の研修のゲスト・スピーカーの一人に
Rape Crisis専門の弁護士団体の弁護士が
いたのだけれど、長年に渡って性犯罪の
被害者の為に戦ってきた彼女の話からは
非常に学ぶところが多くありました。

そのお話の中から、特に印象的だったものを
皆さんとシェアしてみたいと思ったので、
ここに簡潔にまとめてみます。


************************************************

性犯罪という暴力が被害者の人生に与える
ダメージというものは、本当に計り知れない。

レイプの傷は、時が経てば自然に癒されるなどという
誤った考えを持った人は世の中に多いけれど、
この前の記事でも書いたように、レイプの経験は、
時に致命的といえるほどの大きな影響力を持っている。

また、惨事の後に、被害者がどのような経緯を
辿ったかによって、その人の人生は大きく変わってくる。

性被害において 最悪な状況の一つに、被害者の
体験を、誰も信じてくれない、というものがある。

「レイプなど存在しなかった」という、周りからの
全面的な現実否定である。

残念ながら、こうした現実否定は実に多い。そこには、
親やきょうだいや配偶者や友達といった身近な
人間は特に、

「そのような酷いことが自分の大切な人間の身に起こった」

などと言うことは聞きたくないという、話を聞くこと
そのものに対するネガティブな姿勢からくる防衛機制が
関係している。

また、たとえこれらの身近な人々に聞いてもらえても
警察に通報するなど、法的手段に出ずに泣き寝入りする
被害者は非常に多く、例えばLAにおいては、法的措置に
乗り出さないケースは90%にもなると言う。

全被害者のうちの、実に10%しか、リポートしない
という悲しい現実だ。性犯罪における社会的意識の
進んでいるLAにおいて、この数字なのだから、わが国
日本において、一体どれほどの人たちが泣き寝入り
しているのかは おおよそ見当もつかない。

しかし、法的手段に乗り出すと決意した女性達を
待ち受けているのは、様々な種類の新たな苦痛である。
ただでさえ 誰にも話したくないような話を、警察に
始まって、病院の看護師や医師、弁護士、裁判官など
実に様々な人たちに、様々な場所で、何度も何度も
話さなくてはならない。

しかも、そうした聞き手の全てが被害者に対して
共感的な姿勢を持っているわけではもちろんなく、
被害者は、批判的で心無い法的関係者などとの
接触の中で、「Second Rape」(セカンド・レイプ)とも呼ばれるような、
新たな精神的傷を負うことも多い。

こうした背景に加えて、被害者は事件当時、非常に
混乱しているため、適切な判断ができなくなっている
ことが多い。そんなことが自分の身に起こったという
こと自体忘れてしまいたいのが人間だと思う。

言うまでもないことだけれど、警察へのリポートは、
早ければ早いほど良く、時の経過とともに証拠は
どんどん薄れていく。病院で採取されるべき、
加害者の精子や唾液や汗などの、DNA鑑定に
関する証拠も、身体に残った傷も、すぐになくなってしまう。

例えば、人間、眼細胞の傷の回復は非常に早い
ことが知られているけれど、ヴァギナの傷の
回復も非常に早いことは、意外と知られていない。
月曜日に付いた傷が、木曜日には完治している
ことが多いという。

つまり、事件の直後、まだ 服や身体に犯人の証拠が
残っている時に警察に通報することが、法廷に
おいて勝訴ために非常に大切なプロセスなのだけれど、
ここが、被害者の置かれた最大のジレンマの一つだ。

一番 精神が混乱していて、正しい判断が一番難しい時に
訴えるかどうかの判断を下さないといけない。

(もちろんその後でも訴えられるけれど、一番
確実な手段として、法律関係者は直後の通報を
 奨励している)

性犯罪の被害者の弁護士や支援者が一番よく聞く、
彼女達の 後悔は、ここにある。

「あの時、すぐに行動に出ていればよかった」と。

時の経過とともに、カウンセリングや、家族や
友人などのソーシャルネットワーキング等を経て
被害者は癒されていくわけだけれど、その中で
残りの人生においていつまでも残る後悔は、
犯人が捕まらなかったことや、裁判で真実が
認められなかったことだったという。

自信を回復して、精神が安定し、正しい判断が
出来るようになったとき、ほとんどの女性は、
法的手段を取るべきだったと思うという。そして、
その時には 全ての証拠が消えうせていることが多い。
なんともやりきれない話である。

性犯罪の被害者の癒しのプロセスで、ある意味で何よりも
パワフルであるのは、犯人が捕まって、法廷で勝訴したとき、
つまり、真実が真実として、人々から信じてもらえた
時だという。その時の、癒しの力は、絶大だという。

長い間うやむやにされていた 真実が聞き入れられた時
人々は癒される。

(余談だけど、殺人事件や、酷い事故の遺族や、
 子供がいじめによって自殺した親たちが、
 自分達の全てを掛けて、法の上に真実を追究するのも、
 真実が認められたとき、彼らの心の傷が
 癒されるからだろう。愛するものの死の
 真実が明らかにされたとき、死者は報われ、
 遺族達は癒される)

しかし、前述の、「一番混乱しているときに、
一番大事な決断を迫られる」というジレンマは、
どうにか回避されるべきである。それは、被害者に
とって、あまりにも酷である。

そこで、この講義の弁護士が実践している教育は、

「もし 自分が性犯罪の被害者になったときどうするか、
 あらかじめ決めておく」

ということだった。その可能性について、以前から
よく考えて、決めておくことによって、その時に
なって決断することを避けられるということだ。

もちろん、そんな事件に巻き込まれたら、どうしたって
人は大混乱に陥るけれど、この方法は、機能するようだ。

「自分が性犯罪の被害者になったら・・・」

こんなこと、誰も考えたくない。
しかし、世の中の女性の4人に1人が、人生の中で
レイプの被害にあうという統計が示すように、
性犯罪というのは、実は身近なところにある。


共謀 (Collusion)

2006-10-25 | プチ臨床心理学

一般に、共謀というと、二者が、主に悪事や不正を
働くために秘密裏に協力したり協定を結んだりする
ことを意味する。これは、ゲーム理論や経済学などの
用語だけれど、臨床心理学においてもCollusionという
概念がある。

基本的に、臨床心理学でCollusionというと、
therapeutic Collusion(治療的共謀)を
意味し、これは、治療者が、クライアントのもつ
問題の核心などに気付きつつも、クライアントと
暗黙に「協力」して、その問題に触れずに治療を
続けることを指す。

これは多くの臨床心理学者の間では、通常 好ましく
ない状況とされていて、Collusionはしばしば
Therapeutic Misalliance(治療上の誤った同盟)
と同義的に使われ、心理療法の進行の停滞や、後退
などの原因の一つとされている。

しかし、心理療法における全てのCollusionが
治療において有害なわけではなく、一時的なCollusionが
クッションのような役割をしていて、治療が決定的な
破局に向かうのを防止する効果も認められている。

例えば、臨床心理学者における慢性精神分裂病
(統合失調症)の治療において、分裂病患者のもつ
こころの問題の核心に触れる事象はあまりにも
患者にとって脅威的で、不用意にそれに触れるのは
あまりにも危険なため、互いにその問題を認識しつつも
あえて触れずに治療を行うことがある。

本題から逸れるので、これ以上の詳細は避けるけれど、
臨床心理学において、Collusionとはつまり、
セラピストとクライアントが暗黙のうちに協力して
ある問題を見ないようにすることだ。

でも、この臨床心理学においてのCollusionという
現象は、何も心理療法家とクライアントとの間だけに
起こることではなく、私たちの日常の至るところに
存在している。

例えば、セックスレスの夫婦やカップルにおいて、
どちらか一方が外で別の人と性的な関係を持って
いるのを、もう一方も うすうす気付きながらも、
あえてその問題を見ないようにして恋愛関係を
続けるというケースは世の中 多いと思う。

Collusionは、意識して行われていることもあれば、
ほとんど無意識的に行われていることもある。
例えば、上の例で、どちらかの浮気を、もう一方が
気付いているとき、浮気している方は、ばれている
ことに気付いていなかったりする。

また、浮気をされている側も、「もしかしたら」
という、意識レベルまでその疑念が浮上していない
無意識レベルで気付き始めていて、無意識のうちに
問題に触れる言動を控えたりする場合もある。

それとは逆に、浮気している側も、自分の浮気が
完全にバレていることを知りつつも、知らないフリを
してあえて続けるというケースも多い。

いずれにしても、こうしたカップルにおいて、「浮気」
という問題を明るみに持ち出して言語化することは、
二人の関係において致命的なダメージが予測され、
その結果破局を迎えるよりは、不正を認識しつつも
その問題には とりあえずお互い触れずにいようという
暗黙の同意や協力が存在する。

恋愛関係以外でも、友達関係において、友人が
明らかに間違ったことをしていたり、方向を誤って
生きていることに気付いているのに、友好関係に
問題が生じるのを恐れて、あえてその問題に触れない
人は世の中多いし、会社で、部下が不正を働いている
ことを認識しつつも、あえて注意しない上司もいる。

いずれにしても、Collusionの存在する人間関係
には、明らかな「ニセモノ」や「関係の不健全性」が
存在するわけで、そうした関係がずっと機能することは
ほとんどない。

しかし、ニセモノや胡散臭さや仮面の関係でも、
失うよりかはそれにすがり続けていたいのが
人間なわけで、こうしたCollusionは慢性化して、
機能不全ながらも続いていったりする。

コミュニティが崩壊し、人間関係が希薄になった
現代人において、こうようなCollusionが存在する
関係性というのは一昔前よりもずっと増えている
印象がある。もしかしたら、このような社会に、
特別なCollusionのほとんどない透明性の高い
関係を見つけるほうが難しくなっているのかも知れない。

Collusionは、二者間のもつ共同幻想が幻想であると
分かりつつも目を瞑ってみようとしない現象だけれど
それに直面した瞬間に大きなDisillusionment(幻滅)
を体験する可能性も多く、ほとんどの信頼関係において
Disillusionmentは「関係の終わり」に結びつくもので
いずれ問題に向き合わねばならぬことを知りながら、
その前段階としてCollusionの関係をもつ人は多いだろう。

前述のように、「一時的な」Collusionは、気持ちの
整理などの、こころの準備段階として、「ポジティブ」な
機能も持っているので、大切なのは、Collusionの関係を
慢性化させないことだと思う。


存在と関係性

2006-10-22 | プチ精神分析学/精神力動学

人間誰でも、自分という人間の「存在」について
考えるものだと思う。この「存在」について、
いつも考えている人もいれば、滅多に考えない人も
いるけれど、多かれ少なかれ、私たちは自分の存在に
ついて考える。

古今東西、数知れない哲学者達によって、「存在」は
議論され続けてきた。しかし、「存在」の定義や捉え方は
様々で、決して満場一致の見解はありえない。それだけ
本質的に深遠で難解で、個人的なものなのだろう。

今回取り上げる「存在」も、そうした無数にある
「存在」という概念の中の一つに過ぎないけれど、
臨床心理学、とりわけ、こころの健康について考える
とき、それは大きな意味を持ち始めると思う。

デカルトが、「われ思う ゆえに我あり」と言ったのは
余りにも有名だけれど、現代人、特に日本人の間で近年
特に多く見られる「自分探しの旅」は、こうした「自分」
という「個」に重点を置いた存在を前提にしている場合が
多いように思う。

残念ながら、多くの場合、こうした「自分探しの旅」は
どこまで行っても終わりがない。ぐるぐるぐるぐるぐる
堂々巡りが続き、それなりに「任意」の結論をだして
満足して旅を終える人もいれば、「自分探しの旅こそが
人生の目的だ」と、生涯かけて自分探しの旅を続ける
人もいる。

いずれにしても、「自分の存在」について、何かしら
ポジティブな認識を持っていればそこに問題はないの
だけれど、問題は、自分という存在について考えすぎて
精神に支障を来たして来る人が少なくないことだと思う。

このように、「自分の存在」について考えてどつぼに
はまっていく人の意識は、常に「自分」に向いている。
「自分」の世界に入り、自分とは何かという終わりのない
モノローグが自分の中で展開され、そこには何の外的
フィードバックの介入もない。外的刺激のない、内向的な
内省は、自己批判的になりがちで、歯止めも利きにくく
なる。

ここで問題なのが、そもそもの「自分の存在」における
捉え方である。この場合において、「存在」とは孤立した
「個」に限定されているけれど、実際のところ、人間の
存在とは、他者との関係性によって形成され、定義される。

これはつまり、「他者という存在があるゆえの、
自分という存在」という考え方で、人間は元来対象希求的な
生き物で、他者との関係性を築くことに動機付けられて
生きている、という対象関係論(Object Relations)とも
通じる考え方だ。

精神分析の歴史の始まりに、フロイトは、「人間は本質的に
性的な欲求によって動かされている」と、セックスに
重点を置いた、サイコ・セクシュアルな理論を展開したが、
時代の推移とともに、「むしろ人間は、他者との関係性を
持つことに動かされて生きている」という、対象関係論や、
自己心理学の方が精神分析論の主流になり、今日に
至っている。

対象関係論においては、人間がセックスをすることも、
「それが本能だから」とするのではなく、「他者との
繋がりの一つの形態」として捉えるわけで、セックスは
人間にとって重要であるけれど、何より大切な訳ではない。

このように、人間の「存在」とは、現代の精神分析論的に
みると、「他者との関係」の中で形成されるものだ。

実際、人は他者との関係に夢中になっている時に、
「自分とは何か」などと考えないものである。なぜなら、
考えるまでもなく、その関係性のなかに自分は含まれて
存在しているからだ。関係性の中に存在が含まれている
時に、人間は幸福や喜びなど、良性の感情を体験する。
このときに、その人間の目は、「外的世界」に向けられて
いて、自分を取り巻く環境と繋がっている。

このときに、関係する相手が変われば、関係性も
変わるわけで、「存在」の形も定義も変わってくる。
そうした様々な関係性の集積が、つまるところ、
「自分の存在」なのだろう。

この意味における「人間関係」に、何らかの理由で
問題が生じたとき、つまり、関係性が脅かされたとき、
その中に含まれる「自分という存在」も脅威にさらされ
人は「自分とは何か」について考え始めるのかも知れない。

人は、自分の存在が危うく移ろい始めたときに、
「存在」について深く追求し始めるのかも知れない。


健康な被害妄想 (Healthy Paranoid)

2006-10-17 | プチ臨床心理学

「被害妄想」と聞いて何かしらポジティブな ものをイメージする人はそうそういないと思う。

「あの人 被害妄想だよ」

「あんたそれ 被害妄想だよ」

このようにして使われる「被害妄想」という 言葉には、「自意識過剰で、防衛的で、懐疑的で 人のこと信用していないから悪いことを想像するんだよ。 考えすぎなんだよ」というような感じの否定的で批判的なニュアンスが必ずと言っていいほど含まれている。

しかしなぜ、その人は「自意識過剰」になるのだろうか。 


なぜ「防衛的に、懐疑的に」なるのか。そもそも、 どうして他者を信じられないのだろうか。

「そういう性格だから」とか「神経質だから」とか 「強迫神経症だから」とか、人間とかく、その人の 性格的特徴などの属性に理由を見出しがちである。

しかし、臨床心理学には「健康な被害妄想」という概念が存在する。以前これについて少し触れたことがあるけれど、「健康な被害妄想(Healthy Paranoid)」とはつまり「ほどよい被害妄想」のことで、 「『妄想』かもしれないけれど、(あったほうが)ないよりも健康」な程度の懐疑心などについていう言葉だ。

白人至上主義のアメリカ社会で、アフリカ系アメリカ人が 社会で成功したりしてうまくやっていくには、この「適度」な被害妄想が必要不可欠だと言われている。

あからさまな人種差別こそなくなった現代社会だが、 一見分かりにくい人種差別(悪意や偏見を持った 警察官や教員や上司などの微妙で見分けにくい形の人種差別)は残念ながらどこにでも存在する。

そうした中で、他者、特に力をもっているもの (会社の上司、教員、警察官など)に対して何の疑問も抱かずに生活している非白人、特にアフリカ系アメリカ人は、社会でうまくやっていけない。「健康な被害妄想」がないゆえに潰されるという。つまり、ある種の適度な自意識や懐疑心や防衛性が、社会に存在する様々な「洗練された悪意」から身を守っているというのだ。

妄想とは、一般に、現実から離れた、根拠のない 悪性の想像で、これが病的にひどくなると、 「妄想型人格障害」(Paranoid Personality disorder) さらに、「妄想型 精神分裂病(統合失調症)(Paranoid Schizophrenia) 」などの極めて好ましくない 精神障害になるけれど、現実検討能力(reality testing) や現実的な客観性を持ち合わせた被害妄想は、ある程度はとても自然なことで、誰だって抱くものだ。

また、一般的に、人は、いろいろな外的要因に影響されて精神状態が悪くなっているときに、いろいろと良からぬ想像をするのもで、問題が好転したり、気分が良くなったらそうした「被害妄想」はス~と解消されるものだ。

以上のことを踏まえて考えてみると、自分の周りの誰かが「被害妄想」を抱いているなあと思った時、「そういう性格だから」と結論を急がずに、「何かそのような想像に結びつくことがあったのかもしれない」とか、「今いろいろあって精神状態が
良くないのかも知れない」とか、「いろいろ、裏切りの経験をしてきたのかも知れない」・・・と、より共感的にその人と付き合えるし、理解も深まるものだと思う。

同様に、自分が懐疑的になっていることにふとした瞬間に気付いたときに、「あ~やだなあ。自分頭おかしいよ」とか、「こんな風に考える自分ってやだなあ」とあまり自己否定的にならずに、自分のなかの客観性を総動員して、「なぜそのような想像が出てくるのか」「その想像に至るまでに
何が起こっているか」「自分は何を体験してきたか」などを冷静に見て、その時の精神状態や状況の悪さなどを考慮してみると、悪い想像も行き過ぎずに留まりやすくなる。

良い考えが浮かぶとまではいかなくても、
それ以上の精神状態の悪化や現実検討能力の低下も防げるし、そこには、いくらかのこころの平安がもたらされ、落ち着くこともできるかもしれない。

そういうわけで、全ての被害妄想が悪いものではないしある程度の被害妄想があるゆえに、こころの準備ができて善後策も取れているために、実際にそのような状態になったときにも、適切な行動が可能になる。


small win

2006-10-15 | プチコミュニティー心理学

「変わりたい」と思う人は世の中溢れているし、多くの人々は、変われるように、多かれ少なかれ努力する。その中で、大きな変貌を遂げる人もいるが、「変わりたいけど変われない」と、フラストレーションを感じながら生きている人も多い。

  同様に、酷い世の中の酷い有様や酷い仕組みを嘆き、「なんとかならないかな」と思う人は多く、実際人々は様々な方法で世直しを試みるものである。そのような試行錯誤の中で劇的な変化を遂げた事象もあれば、全く変わらなかったり、悪化していく物事も多い。

  それでは何故、多くの試みは、多くの努力は、なかなか実を結ばないのだろうか。そこには様々な要因が考えられるけれど、その中の一つに、「我々人間は得てして多くを望みすぎる傾向がある」、ということが考えられる。月並みな言葉だけれど、「高望みのしすぎ」である。

  「そんなことはない。理にかなった、現実的な計画だ」と言う人もいるけれど、そうしたものは、確かに現実だけれど、それでもやはり無理がある場合が多い。冷静に、論理的に、実行可能な計画を練ったつもりで、人間やはり「少しでも効率よく」とほとんど無意識に欲をだしてしまうのが人情だと思う。

  それでは一体どうすればいいのだろうか。

  どうすれば変えられるのか、変わっていけるのか。

  ここに、"Small Win"という言葉がある。これは、コミュニティ心理学の概念で、「小さな勝利」「小さな成功」などと邦訳することができると思う。

  コミュニティ心理学の究極の目的は、Social Change(社会のよい変化)だけれど、この学問の根底にある強みは、(メンタルヘルスの専門家だけではなく)全ての人々の社会参加とソーシャルネットワークだ。ある意味、国民全員が参加者であるのが、コミュニティ心理学だ。

  社会の変化を目指すコミュニティ心理学が実際にターゲットにするのは、多くの場合、法律の改正などではなく、学校などの地域施設、ホームレス問題、麻薬問題、売春問題など、各地域に見られる一つ一つの問題である。こうした一つ一つの問題は、介入可能な規模になるまで、さらに細かい単位に微分されていく。

  例えば全体で100ぐらいある問題を一度に解決しようとするとそれは到底無理だけれど、それを50X2に分けたり、さらに、25X4,10X10.5X50、1X100と、より消化しやすい大きさに分けるとずっと解決しやすくなる。そうした中で、例えば10X10として、「10の解決」という、いわば「小さな成功」を10個重ねることで、100の成功が得られることになる。

  もっと具体的な例を挙げると、重度の対人恐怖症で引き篭もりの生活をしている人がいきなり就職を目指すのは無理があることだけれど、一日30分外にでるところから始めて、友達を作ることなど、小さな成功を味わいながら、アルバイトというさらに大きな成功を体験して、最終的に就職するのは、或いは可能であろう。

  もちろんその中でいろいろ失敗をするわけだけれど、守備範囲内での失敗からは、人は立ち直れるものである。人間無理をすると、それだけ失敗した時のダメージは大きい。それよりも、どんなに小さなことでもいいから、小さな成功を一つ一つ経験してそうした経験を積んでいくことが大切である。そうした中で、人は程よい自尊心(self-esteem)や自信を身につけていくものだ。

  人間が変わっていくのは、こうした小さな成功による小さな変化の蓄積によるものだと思う。歯の矯正などにも同じことが言える。一気に短期間(例えば10日)で直そうとしても、痛くて危険なだけで、何もいいことはない。時間を掛けて、ゆっくりと、最小単位で変えていくから、あのようなきれいな歯並びが可能になるのだ。

  そういうわけで、自分の性格や性質や習慣などで、なんとか変えたいと思うことがあったら、それらをよく分析して、「これはちょっといくらなんでも簡単すぎるんじゃないの」というくらい実行可能な大きさまで分けて、一つ一つ消化して小さな成功を重ねていくのが、「急がば回れ」で、長い目で見たときに一番確実だと思う。少なくとも、自分に鞭打って無理な計画を立てて挫折して自己嫌悪や挫折感を味わうよりずっといいと思う。

「地上にもともと道はない。歩く人が多くなるから
 道になるのだ」

と言った魯迅はやはり偉大だと思った。


同調(Conformity)

2006-10-11 | プチ社会心理学

 同調(Conformity)とは、その個人が、集団や他者の持つ基準や価値観や期待などに沿って行動することで、 これは、職場、学校、家庭内をはじめとする、ありとあらゆる社会集団の中で見られる現象である。

ここで大切なのは、個人は、自分のものと対立する、集団内の他の人達の見解を受け入れるということで、 「集団圧力」の無いところでその人が同じ刺激に対して同じ判断、行動を取ることとは区別する必要がある。

例えば、日本では電車内で、携帯電話を使うこと(通話)は、四方八方からの集団圧力によって著しく制限されるもので、それはたとえ、個人がそこで携帯を使いたくても我慢せざるを得ない、目に見えない強固な圧力がそこに存在するわけだけれど、逆に、終電間際で、
周りにほとんど人のいない状況だと、その人は、大した迷いもなく携帯を使えたりする。

もし、ある人が、終電間際のがらがらに空いた車内では問題なく携帯電話を使えるのに、通常の時間帯は使いたくても使う気になれなかったとしたら、この人は、集団の価値観に沿って行動したわけで、これは「同調」と考えられる。

まさに、状況の力によって、個人の行動に影響がもたらされるわけだ。

同調に関する研究では、Asch(アッシュ)の実験が有名で、多少異なるけど、以下のような感じ。

それは、7人1組の集団において、「視覚実験」という名目で、3つの比較線分、例えば、

1)―――――
2)――――
3)――――――

の中から、標準線分 0)――――――
と同じ長さの線分を選ぶという課題を与えるもので、 このテストは、間違いの非常に少ない、分かりやすいものなのだけれど、実際は7人中6人がサクラで、6人が意図的に誤答を繰り返すと、全体として40%近い被験者の誤答が発生したという。

ちなみに、ニュートラルな状況での誤答率は、0.7%と、非常に易しい問題だったという。

(ちょっと分かりにくい説明ですね。この記事の例だと、 上の線分1~3の中で、0と同じ長さの線はどれかと問われて、正解は(3)と非常に簡単なのだけれど、 7人のグループで、6人のサクラが(1)と答えたのに影響されて、被験者も(1)と答えてしまう強い傾向がこの実験から確認された、ということです)

これは、集団の中の少数派が、多数派の集団圧力に屈した反応と考えられ、この実験を機に、同調に関する様々な研究が行われるようになった。

同調を誘発する集団の特徴として、集団としてのまとまりが強いこと、つまり、集団としての目的があり、集団や、情報源に魅力があり、また、集団内一致とが高いことがある。逆に、集団内の多数派の全員一致度が崩れると、同調率も大幅に低下することが知られている。

また、課題の重要性、あいまいさや、困難度などが増すに従って、同調率も高くなる。例えば、重要な会議において、重要な決議をしている時に、多数派の意見が明らかだと、少数派は意見が出しにくく、周りに同調しやすくなる。

個人的な要因としては、その人の自己の確信や自信が低下すると、同調は促進されるし、大きな失敗経験のある者は、同調しやすいと言われている。

逆に、パートナーの存在や、自分に対する社会的支持がある場合、同調は大幅に減少することも知られている。

さらに、興味深いのは、集団における地位が真ん中ぐらいの人間が、一番同調しやすく、これは、彼らにとって、 同調することによって得られるものと、同調しないことによって失うものが一番大きいからだと言われている。

社会的な生き物である人間において、同調することはサバイバルにおいて必要不可欠である。慣れない環境、例えば、新しい職場や、海外旅行などにおいて、 どう振舞っていいか分からないとき、まず、多くの人間のする適応手段は、周りを観察して周りの人間の振舞うように振舞うことである。

不確かな環境でうまくやっていくには、とりあえず、周りに同調するのが無難である。

言い換えると、人間は、様々な状況において、他者の言動や振る舞いから、様々な情報を得ている。 曖昧な状況下においては、とりわけ周りの人間からの情報は、そこでどう振舞うべきかの大きなヒントとなる。

例えば、競馬をやったことのない人間が、競馬場に行って、周りのほとんどが同じ馬に掛けていたら、とりあえず、自分も同じ馬にかけるのではないだろうか。全然違う馬にかけた時のリスクが大きいのは、容易に予想できるだろう。

また、人間は、元来、他者に受け入れられたい存在である。人は周りに同調することで受け入れられることや、逆に、自分の所属する集団で周りと同調しないことから来る居心地の悪さや、拒絶などは、多くの人が、経験的に知っていることだと思う。

混んでいる電車内で携帯で通話した時に、自分がどのような心境になるかを想像してみると、いかに社会が同調によって成り立っているかがわかると思う。

このように、同調することは、人間が生きていくなかで、常に強化されている。

職場における、悪い風習がなかなか変わらなかったり、コミュニティーが低迷を続けていたり、社会が変わらなかったりすることの理由の一つに、この「同調」があるけれど、会社やコミュニティーや社会が円滑であるためにも同調は必要不可欠なわけで、良くも悪くも、人間は同調の束縛の中で生きている。

同調することは、適応能力でもあるけれど、 集団が誤った方向に同調する例は数知れず存在し、同調における問題点も非常に多いので、少なくとも、 無自覚に同調するのと、人間に同調する傾向があることを自覚した上での同調との間には、大きな差があるように思う。


(参考文献:有斐閣 心理学辞典)


呼び水?  プライミング(Priming)効果

2006-10-08 | プチ認知心理学

プライミング(Priming)という概念は、認知心理学で
よく使われるもので、この現象における様々な実験や
研究が行われている。

該当する日本語がないので、カタカナで「プライミング」と
そのまま訳されているため、なんだかピンと来ない言葉
だけれど、これは、私たちの日常生活でも非常にしばしば
起こっている現象だ。

プライミングとは、広義に、「先行する刺激の脳における
受容が、後続する刺激の処理に無意識的な促進効果を
与える」ことで、直接プライミング、間接プライミング、
知覚的プライミング、概念的プライミングなど、いろいろな
種類のものがある。

例えば、これは良くある実験だけれど、
プライム刺激(先行刺激)として、いくつかの
単語(例:「おしるこ」)を被験者に見せて、
一定時間後、穴埋め式の単語完成テスト
(例:「お○○こ」)をすると、プライム刺激の中にあった
単語についての単語完成テストの項目は、プライム刺激の
中になかったものにおける単語完成テスト項目よりも、
正答率が高いことが知られている。

また、自由連想テストで、プライム刺激として
いくつかの単語(例:おしるこ)を被験者に見せたあと、
一定時間後、自由連想テスト(例:小豆→?)を行うと、
プライム刺激にあった単語の方が、なかった単語よりも
連想語として出現しやすいことが知られている。

ここで重要なのは、プライム効果とは、無意識のうちに
起こっていることで、本人はそれに気付いていないことだ。
また、プライム刺激の露呈時間は長い方が効果的だけれど、
かなり短いもの(2秒とか)でも影響があることが
知られている。サブリミナル効果など、これに該当する。

プライミングの効果は、多岐に渡るもので、人間の
行動パターンや、選択などに、大きな影響を与えている。
それは、人の持つ敵意や反感、歩行スピード、知能テスト
など、本当に様々な行動に影響を及ぼしている。

例えば、年寄りについての人物描写を読んだ後の被験者の
歩行スピードが、それを読まなかった場合に比べて
遅くなったり、「教授」についての人物描写について
読んだ後に受けた知能テストのパフォーマンスが、
普段よりも良く、「サッカーのフーリガン」についての
人物描写について読んだ後の知能テストの結果が、
それを読まない場合よりも悪いという実験結果も
報告されている。

考えてみると、これはある意味で恐ろしいことである。

私たちが、普段何気なく選んでいる行動パターンや、
取捨選択や、人や物事に対する印象や感想などが、
実は、それより前に起きている様々な事象によって
無意識的な影響を受けているというのだ。

例えば、日常生活で、ちょっとしたいい事(例:
楽しい話、気に入った音楽、おいしい物、好きな人と
会う)が、数時間後の言動に与える微妙な影響は、
ちょっとした不快な事(例:チューインガムを踏む、
知らないカップルの激しい口論を聞く、傘を持って
いない時に突然の土砂繰りに遭遇する)が
数時間後の言動に与える微妙な影響とは明らかに
違うということは、経験的に誰でもわかることだと思う。

ここでもう一度強調したいのは、それらのプライム刺激は
微妙なものだったり、数時間前のことだったりして、
基本的に、私たちは、知らず知らずのうちに、そうした
プライミングに動かされて生きているということだ。

もちろん、そんなことを言い出したら、切りがないし、
私たちは日常生活で次々にいろいろなことを体験して
生きているわけで、プライミングの影響なしに生活するのは
不可能だけれど、少なくとも、何か重要な選択を迫られて
いて、今まさに自分が選ぼうとしているものが、実は
数時間前の些細なことに影響されているのではないかと
一瞬でも思いを巡らせてみるのはいいことかも知れない。


対人論法と人間関係

2006-10-07 | プチ認知心理学

哲学用語で、「対人論法」という言葉がある。 


基本的にこれは、議論において、論点を、
相手自身の属性にずらす技法、つまり、発言者の 人格や、経歴や普段の行動などを理由にして、 発言内容が誤っていると推測するもので、これは 論理的誤りであり、実質は人身攻撃に過ぎないものだ。

例えば、シングルマザーやシングルファーザーが結婚生活の秘訣について 語ったときに、「離婚歴があるこのヒトの結婚の秘訣話 なんてあてにならない」と決め付けて適当に話を 聞いたり、また、全然聞かなかったりするのがこれに 当たるもので、このような論理的誤りは、私たちの日常生活の中に溢れている。

でも、聞き手だって誰もが、それぞれの人格や経歴や 価値観や考え方があるわけで、「発言内容そのものに耳を傾けて正当に評価する」というのは、時として非常に困難であることは、誰もが経験的に理解できることだと思う。

聞き手にとって、相手に対する印象がはっきりしている場合、対人論法の脆弱性ははっきり分かるものだけれど、これがもっと曖昧な形で働いている場合、なかなか
気付かなかったりする。

例えば、大した感情は持たないけれど、どちらかというと苦手だったり嫌いだったりする人の発言内容は、どちらかというといい感じの相手のそれと比べて、 微妙な具合に批判精神を持って聞くものだけれど、そうしたわずかな偏見というものに、人はそうそう気付かないものだ。

対人論法とは、基本的に、相手の発言を攻撃する、ネガティブなインターラクションにおいて使われるものだけれど、これが全く逆に働いている例も実に多い。

例えば、有名人の発言は、その人自身が持っている人気や魅力などが理由で、

「あの人が言うんだから間違いない」

などと、「対人論法」的に、ポジティブな論理的誤りに繋がる現象は、枚挙にいとまがないもので、有名な教授や名医が、実は言わずもがななどうでもいいことを言っていたり、おかしなことを言っているのに、

「そうだ!そうだ!」

と彼らの属性ゆえに過大評価されることは多い。


対人論法は、人間誰もが持っている、自己愛(自分を大事に思う気持ち)や防衛機制
(自己が不快な感情を体験することを回避する、様々なこころの機能)と深く結びついていて、ある程度、このような傾向を持っていないと、明らかに自分に悪意のある者や、自分の心を乱す人間の発言に耳を傾けすぎて精神に支障を来たすことにもなるので、「ある程度」は必要だと思われるけれど、問題は、それほど自分の精神衛生と関係のない誰かの発言内容において、私たちがそのような論理的誤りをもっていて、不当な判断をする場合だ。

また、自分の対人論法性を客観的に見つめてみると、ある人と自分の現在の人間関係などにおいて、意外な洞察が得られたりする。

自然な好奇心を持って、話す内容そのものに耳を傾けられる相手もいれば、その人が話す前から、強い先入観が存在する人もいる事と思う。そのように、対人論法を使って発言内容を判断したくなる傾向が強い相手は、自分にとって相当な問題となっている人だけれど、ふとした瞬間に、その人の話を素で聞いてみて、目から鱗が落ちるようなこともあるから、自分の対人論法性の傾向を普段から観察しながら周りの人間と付き合っていくことは、それに無自覚でいるよりも、はるかに有益だと思う。


利益と損失の可能性

2006-10-06 | プチ認知心理学

人間は、ネガティブなことや不快なことに対して、
ポジティブな事象と比べて、とても敏感だと言われています。
これは人間の認知の構造によるもので、適応能力のひとつ
だと言われています。

具体的な例を挙げると:

利益の可能性と、損害の可能性が同時に生じた時に、
基本的に人間は損害の可能性のほうにより敏感だと
言われています。

例えば、今、私が皆さんに、

「ちょっと今から僕とじゃんけんしましょう。
 もしあなたが勝ったら、10万円差し上げます。
 しかし、もし僕が買った場合、10万円ください」

と言ったら、たとえ私が絶対にイカサマしないと
いう保障があったとしても、あなたは、OKしないと
思います。かなり高い可能性で、瞬時に10万円が
手に入るチャンスがあるけれど、一瞬にして10万円
失う可能性も大であり、人間はこの失う可能性の方を
優先します。

もちろん、これは利益と損失の可能性を天秤にかけて
いるわけで、それぞれの金額を変えていくことで、
選択パターンの変わっていきます。また、それぞれの
置かれている経済状況などによってもまちまちです。

でも、基本パターンとして、人間は損失の可能性に
より敏感です。実際、金額を、3000円に落としても、
OKする人は少ないのではないでしょうか。

さて、こんな話は言わずもがななことのように思うかも
しれないけれど、この記事で私が一番言いたいのは、
何かの選択を迫られたときに、感覚的にピンと来なかったり、
なんとなく嫌な感じだなと思ったり、なんだか躊躇われるな
と思ったときは、即座の選択を踏みとどまって、その
「なんとなく嫌」な直感的な感情によく耳を傾けてみる
必要があるということです。

なぜなら、我々の直感や感情というのは、言語が生まれる
はるか以前から存在していた本能的なものであり、
忘れてしまったりして記憶にないような今までの経験を
含めたさまざまな無意識と五感から直接来ているもので、
大雑把ではあるけれど、かなり正確なものである場合が
多いからです。

なんとなく気乗りしなかったり、腑に落ちないのに、
何かを選んで行動して、ろくでもない目にあった経験は
誰でも少なからずあるのではないでしょうか。

そういうわけで、「ネガティブ」な感情は、私たちを
損失から守ってくれるということにおいては、
「ポジティブ」なものでもあるのだというお話でした。


二種類の変化:First Order Change Vs. Second Order Change

2006-10-05 | プチコミュニティー心理学

アメリカには、コミュニティ心理学(community psychology)
という、とてもユニークな、応用系の心理学が
あるのだけれど、臨床心理学などの従来の心理学に
対するアンチテーゼ的な要素の多いこの心理学は、
人間の「強さ」や「可能性」に重点を置く傾向があり
大変示唆に富んでいる。

活動家と呼ばれる心理学者にはこのスタンスをとっている
人が多い。フェミニストのコミュニティ心理学者が
多いのも、必然的なことのように思える。

コミュニティ心理学にはいくつかの中核となる
コンセプトがあり、以前紹介した、victim-blaming
(被害者を責めることの問題点)も、そのうちの一つだ。

今回の、first order changeとsecond order changeも
コミュニティ心理学の基本原理の一つで、これは、私たちの
日常生活のあらゆる場面に応用できる有益な概念に思える
ので、一緒に考えていただけたら幸いだと思う。

私たちの人生には、大小さまざまな変化が起こる。
変化とは、実に多岐に渡るもので、日々の比較的
小さな変化(コンピュータが壊れた、自転車が壊れた、
パチンコで1万円勝った、社内の配置換え、
スケジュールの変更、恋人や配偶者との喧嘩、
インターネットプロバイダーの交換、車がパンクした・・・)
から、人生に大きな影響を与えるような変化
(長年勤めていた会社を辞める、宝くじで1億円当てる、
離婚、長年付き合っていた恋人と別れる、大きな事故に
遭う、大きな病気にかかる、大切な人の死、長年
住んでいたところから全然知らない土地への引越し・・・)
と、本当に枚挙にいとまがないけれど、このように、
私たちの人生は、ある意味で変化の蓄積だったりする。

これだけ多くの変化があるけれど、特に、私たちが
選んで起こす変化は、次元的に捉えると、2種類に
分類することが出来る。

first order changeとsecond order changeだ。

first order changeとは、どちらかと言うと、日常的で、

1)現在のシステムや構造内での変化や調整、
2)どちらかというと元に戻せる変化
3)崩れたバランスの調整
4)システムそのものには変化なし
5)元来のルールに基づいた変化
6)新しく何かを学ぶことは必要ない
7)さじ加減の変化(労力を増やしたり減らしたり)

などの特徴がある。

一方、second order changeは、より根本的な変化で、

1)システムそのものの変化
2)不可逆的な変化
3)一見馬鹿げて見えたり、ナンセンスに見えたりする
4)いろいろな学習が要求される
5)新しいルールに基づく、
6)全く新しい価値観や物の見方
7)比較的大きなエネルギーが要求される

といった特徴がある。

少々抽象的だけれど、たとえば、10年以上結婚して
いるけれど、常に夫婦仲の悪いカップルが居たとする。
このカップルが、「このままでは良くない」と思い至って
マリッジカウンセリングなどを利用して、夫婦仲を
改善していく試みは、「現在のシステム(結婚)内での
変化」であり、first order changeと言える。

逆に、このカップルが、「やっぱり私たちはどうしたって
合わないのだから、ここらで思い切って別れよう」と離婚
(システムそのものの崩壊と新しいシステムの形成)する
のは、2nd order changeだ。

他にも、長く勤めている会社で、慢性的な問題が
起きているときに、姿勢や態度などを改善して、
その職場でやっていこうという試みがfirst order change
だとすると、やはり自分には今のところは合わないのだ、
まだ余力があるうちに、辛いけど思い切って他のところに
移ろうと、会社を辞めるのは、2nd order changeだ。

心理療法でも、現状を維持して、なんとか日常生活が
出来るように、それ以上悪くならないようにといった
ことを目的とする、Supportive Therapyと、
問題となっている人格そのものを改善していく、
精神分析などの、根本的な変化を目指すものがある。
これは精神科医の投薬療法と臨床心理学者の精神療法の
違いでもある。

この他にも、first order changeとsecond order changeの
例はいくらでもあるけれど、基本的に、私たちが普段体験
している変化と言うのはfirst order changeだ。

人は、大きな変化を嫌う傾向があり、多少悪くても
現状を維持したい気持ちがあるので、個人レベルでも、
グループや組織や、さらに、社会レベルでも、基本的に
私たちはfirst order changeを選ぶ。

もし、first order changeで事が足りるならば、それに
越したことはない。大きな犠牲もなければ、エネルギー的に
みても非常に経済的で、大きな危険もない。たいした
リスクを背負わずにとりあえず調整して、「まあこれで
しばらくはだましだましやっていけるだろう。これでまた
駄目になったら微調整していけばいいんだ」と、ほとんど
無意識的に、私たちは選択し、行動する。会社で、誰かが
大きな変化を伴う企画を出したときに、それがなかなか
通らないのは、この傾向と関係している。

しかし、世の中には、本当に壊さなければならない、
機能不全なシステムというものは存在する。

例えば、 先程の例で、夫婦仲が本当に悪いカップルが、
「子供のためだから」と言って離婚しないケース。

多くの場合、これは子供にとって非常に悪影響で、
それよりもむしろ、離婚して幸せになった親と暮らす
方が子供の精神衛生上ずっといいことが知られている。

離婚は本当に大きなエネルギーや痛みや傷を伴う
けれど、思い切ってそこへ踏み出す価値があることは
決して少なくない。

では、First Order ChangeとSecond Order Changeという
概念はどのようにして日常に役立つだろう。

その一つとして提案してみたいのは、私たちが、
自分の生きている環境を見回してみて、さまざまな問題を
発見した時、それらの問題点の質や次元を見極めるための
目安としての使いかたがある。

現存するシステム内で十分に修復可能な問題もたくさん
あれば、何度も何度も同じところで躓いている、慢性的な
問題もあるかもしれない。これは別に大袈裟なことじゃなく
例えば、本当にしょっちゅうフリーズするガタガタな
コンピュータをだましだまし使い続けるか、それでは
あまりにも効率が悪いと、思い切って新しいPCを購入
するかといった、比較的小さなfirst order changeと
Second Order Changeの選択もある。


お気づきの方も多いと思うけれど、捉え方によっては、
ある人や状況下においてはfirst order changeであるものが、
別の人や物事においては、Second Order Changeだったりも
するので、これらの概念はあくまで相対的なものであって、
絶対的な基準はない。