2ヶ月半ぐらい前、ちょうど新型コロナウイルスにおける非常事態宣言が解除された直後のある朝のことでした。
仕事に行く時間になり、出かける際に、妻が息子に「パパ お仕事行くよ」と言うと、息子は「パパ おへやで おしごと?」と聞き返しました。
リモートワークで私がずっと家にいた事の影響です。
「パパは今日は品川でお仕事なんだ」、と私が答えると、彼は、「◯◯もしながわいく」、「◯◯もしながわいきたいの」、
と言い出し、ランニングシャツとオムツに裸足の姿で健気にも靴を履こうとし始めました。
「◯◯もしながわいく」
「うん、品川行きたいよね。今度一緒に行こうね」、「◯◯もいくの!」、「うん、今日はちょっと行けないんだけど、近いうちに一緒に行こうね」、「◯◯もいく!」、「うん、行きたいね、今度一緒に行こうね」、
そこに妻も、「行きたいよね。今日は行けないんだ。今度行こう」
「◯◯もいくのー!」
「うん、パパ行ってくるね、早く帰ってくるから。じゃあ行ってくるね。今日もよろしくね」
「行ってらっしゃい、ほら◯◯、パパに行ってらっしゃい」
「◯◯もいくのお〜!(ぐずり始める)」、
という流れで後ろ髪を引かれる想いで玄関の扉を閉めました。
罪悪感MAX。
気付いたら涙がこぼれそうになっている自分がいました。
ただ、気をつけているのは、ここで「ごめんね」と言わない事です。
以前こんな事がありました。
私がテレセラピーのセッションを始める準備をしている時に、息子が仕事部屋に入ってきて、
「◯◯もおしごとする」
と言って私の座っている椅子によじ登ってきます。遊んであげたいけれど時間は迫っていて、
「ごめんね、パパこれからお仕事なんだ。終わったら遊ぼうね」
と言うと、彼は、「◯◯もおしごとする!◯◯もおしごとする!」
と必死です。そこに妻が入ってきて、うまいこと連れていってくれましたが、ある時彼女に言われました。
「ねえ、気持ちは分かるんだけど、仕事がある時に◯◯にごめんって言うのやめない?ごめんじゃないよね? 仕事するのにごめんって謝ってたら、◯◯にとって、仕事は悪い事になっちゃうよ」、と言われてハッとしました。
さて、前置きが長くなりましたが、私たち人間が生活の中で感じる罪悪感には、大きく分けて、2つの種類の罪悪感があります。
ひとつ目は、生活の中で自然に出てくる、その状況に見合った種類の罪悪感、いわゆる「自然な罪悪感」(natural guilt)です。
例えば間違って誰かの物を傷つけてしまった時に多くの人が抱く、申し訳ない気持ち、修復しようとする気持ちは、自然な罪悪感です。これは私達が周りの人とうまくやっていくために必要な、いわば「健全」な罪悪感(healthy guilt)です。
しかしこの時、その持ち主の方が大丈夫だと言ってくれているにも関わらず、「こんな失敗をする自分はどうしようもない人間だ」、「自分は人に迷惑掛けてばかりだ。いない方がいい」、というような、状況にそぐわない、過度の、自分を蝕むような罪悪感を抱く場合、これは「有害な罪悪感」(toxic guilt)と呼ばれます。
自然な罪悪感、つまり健全な罪悪感を感じない人は、精神分析学でいうところの超自我の欠損が特徴的な、反社会性人格障害(antisocial personality disorder, ASPD)などの深刻な病理とも関連が深く、深刻な問題を抱えている事になります。
しかしこのようなブログをお読みになっている読者の方でASPDの病理を持ち合わせている方はほとんどおられないと思われます。
私が今回の記事で問題にしているのは、むしろ有害な罪悪感の方で、これはいわば、「感じてはいけない種類の罪悪感」です。多くの場合、幼少期の家庭環境や親子関係、過去の未解決な問題と関連があります。
とは言っても、どこまでが健全な罪悪感で、どこからが有害な罪悪感なのかは、明確な線引きもなく、犯してしまった過ちの深刻度や、それが故意であったのか過失であったのかにもよります。
以前紹介した「躁的防衛」のように、非常に表層的で限定的な、状況にそぐわないほどに軽微な罪悪感しか感じない、対象は傷ついたままなのに、反省した気になり、償った気になって忘れてしまう人は、自己愛性パーソナリティ障害にも通じる自己中心性と共感性の低さにも通じるもので、やはり問題です。
罪悪感を、「過不足」なく、きちんと経験できるためには、ある程度成熟した人格と自我機能や必要です。
話がまた脱線しましたが、過度の、有害な罪悪感に対する対応として、まずは、状況を今一度冷静に見つめて見ることが重要です。
それから、その罪悪感の感覚が、自分の中で真新しいものなのか、馴染みのある感覚なのか、見極めます。
多くの場合、その罪悪感の感覚は、過去に何度も経験した事のある馴染みのある感覚だと思います。
こうした過去の経験や記憶と、今現在の出来事をある程度切り離して考える試みも大切です。
冒頭で私が経験した罪悪感は、それほど深刻ではないものの、有害な罪悪感の領域のものかもしれません。だいぶ改善したものの、自分はもともと罪悪感を感じやすい人間です。
この時私は、ドアを閉めて、駅に向かいながら、仕事に行く事の重要性や、ずっと父親が家にいた生活で、それが当たり前になっていたところ、社会の事情で、急にその日常が終わった事で混乱と当然の分離不安を経験している彼の立場をちょっと冷静に考えました。そして、「確かにこの状況は彼にとって不条理だし、かわいそうだ。それから自分自身の悲しみもある。誰も悪くないけれど、いずれにしても彼の心のケアは必要だ。なるべく早く帰って思いっきり遊んであげよう。今後の働き方についてもきちんと考えよう」、
という考えに至り、引きずらずに済みました。それから2ヶ月後、新型コロナウイルス感染拡大の現状などもあり、いろいろな事を考慮して、これから少なくとも当面の間、土曜日だけ出勤してそれ以外の日は基本在宅にしようと決めました。
それは本当に家族みんなにとって良い決断で、今の生活はとても充実しています。それもこの日の罪悪感ときちんと向き合えた事から始まった熟考によるものだと思っています。
もう一つ注意すべき点は、世の中には、あなたの罪悪感の感情につけ込んで、あなたをコントロールしようとする人がいます。
あなたが感じている強い罪悪感は、相手に植え付けられているものなのか、本来感じるべき程度の罪悪感なのか、人間関係によってはにわかに判断できない事があります。
その場合、信頼できる人に相談してみる事も有効です。
自分の置かれた人間関係の外から客観的に状況を俯瞰してくれる他者の力を借りて判断します。
こうしたことを繰り返しているうちに、自然な罪悪感と有害な罪悪感の境い目が見えるようになり、適度に適切に償って、自分をうまく許せるようになっていきます。
躁的償いに見られる見せかけの反省と償いではなく、ある程度深みと実質の伴った罪悪感と償いによる、偽りのない許しです。