週末の夕方、いつもより空いた電車に乗った瞬間、車内の異様な緊張感を感じた。
なんだろうと思ったら、ドアの横の床に腰を下ろして缶ビールを片手に持った若い男がいた。
だいぶ出来上がった様子で、目が座っている。服装や髪型なども極まっている。何やらつぶやいており、彼の周りだけ誰もいない。しかし人々は青ざめた表情で、彼の方をチラチラと見ている。目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだと思う。
でも僕は疲れていたし、彼の半径2メートルゆえの空席におもむろに座った。なるほど、誰も座らないわけだ、そこは彼と正面からばっちり顔を合わせる席だった。いずれにしても、僕は最近iPhoneにインストールした将棋アプリ『将皇』を開いて、レベル3のコンピュータと対局をはじめた。この将棋アプリは無料であるのになかなか本格的で、差し応えがある。将皇レベル3は最強レベルで、僕らの実力は伯仲していた。しかもこの無料ソフトは無料であるのに学習能力もあるようで、どんどん強くなっていく感じだ。そういうわけで、僕がすっかり将棋の世界に入り始めた頃、その床に座っていた男性がすっと立って、近づいてくるのが視界の端に映った。
ちょっと緊張しつつも、試合は佳境に入っていたし、僕はゲームに熱中し続けた。しかし正直ちょっと怖かった。彼はさっきから周りの人たちをガン飛ばしていたし、妙な殺気を放っていたし、できればそのままおとなしく床に座り続けていて欲しかった。そんなことを頭の片隅で考えながら将皇レベル3と格闘してると、
「お兄さん」、
と不意に彼から話しかけられた。
僕は将棋の世界から一気に現実の世界に引き戻された気がした。
「はい、どうしました?」
僕は仕方なくiPhoneから顔を上げ、彼の目を見て答えた。意外と素直な目をしている彼に少し驚く。つい30秒前まで2メートル先に居た彼との距離はゼロになった。彼は僕の隣の席に腰を下ろして言った。
「あ、すみません。この電車は湯河原まで行きますか?」
意外な質問と意外な低姿勢に僕は少し面喰う。しかし僕は今の今まで将棋の世界に居たし、自分の乗っている電車が湯河原まで行くかどうかは定かではなかった。
「えぇと、ちょっと待ってくださいね」、
と言い、僕は彼が座っていた床のところのドアの上の電光掲示板に目を向ける。電光掲示板は、電車の遅れ状況など、あまり関係ないこと知らせている。
「あのパネルにね、この電車がどこまで行くか、もうすぐ出るから、ちょっと待ってね」、
そう答えると、彼は相変わらず低姿勢で、はい、すみません、と言う。周りの人々からの視線を感じる。電光掲示板は、この電車の終点が熱海であると教えてくれる。
「あ、大丈夫ですね。これ、熱海まで行きますよ」、
そう答えると、彼はとても嬉しそうな表情をして、とても丁寧な礼を言った。それはなんだかこちらが恐縮するようなもので、大したことしてないですよ、と僕は答えて、再びiPhoneのスイッチを入れた。将皇との勝負はまだ終わっていない。
しかししばらくすると、彼は再び話しかけてきた。
「お兄さん、本当にすみません、ちょっといいですか」、
やはり少しろれつの回り切らない口調で彼は言う。
「なんでしょう?」
「この電車に、トイレはありますか」。
再び意外な質問だけれど、これは簡単だ。ありますよ、ええと、ほら、この車両じゃないけど、この次の車両、見えるかな、あそこ、でっぱってるでしょ、あれがトイレ。立ち上がって、遠くのトイレを指さしながらそう答えると、彼はまた何度も礼を言った。
それで終わりだと思ったら、
「お兄さん、本当にすみません。お願いがあるんです、この荷物、見ていてくれますか」、
と立ち上がった彼は座席に小さなリュックを置いて言った。
しかし僕は次の駅で降りなければならなかったので、
「悪いけど、次の駅で降りないといけないんだ」
と言うと、彼は両手のてのひらを合わせて拝むようにして、
「いいからいいから、お願いします」、
と、ペコペコ頭を下げながら言う。だいぶ酔っている。
やれやれ。困ったことになった。でも彼が置いていったその小さなリュックは薄汚れていて、ぺしゃんこで、何も入っていないように見えた。これならば、置き去りにしても、誰ももっていかないだろう。ましてや、この車両にいる人はみんな彼のことを恐れている。たとえ僕が次の駅で下車したところでこのリュックはまず無事だろう。そんな風には思うものの、頼まれた以上、いくら強引な依頼であっても、できるだけ見ていてあげたかった。
でも電車は僕が降りる駅のプラットホームに差し掛かっている。頼むから早く戻ってきてくれ。電車ももう少しゆっくり到着してくれ。そんな風に思いながら、気をもみつつ彼の入ったトイレの方をみているものの、彼が一向にでてこないうちに、電車はホームに着いてしまった。
困ったものだ。でもこの電車、停車時間が数分あるというアナウンスが流れた。
電車のドアが開く頃に、彼もトイレから出てきた。遠くから彼がきょろきょろしながら歩いてくる。先ほど床に座っていたときの殺気が戻っている。たぶん自分がどこに座っていたかも覚えていないのだろう。
「ここ、ここ!」
と僕は思わず大きな声をだして彼に手を振ると、周りの人たちが緊張した様子でこちらを見た。
彼も僕も大して変わらないのだとこのときに気づいた。僕に気づいた彼ははっとして、とことこと歩いてきた。
「これ、リュックね。良かった、間に合って。俺、ここで降りないといけないんだ」、
そういうと、彼はとても嬉しそうに微笑み、礼を言って、握手を求めてきた。
「ホントに気を付けて帰ってね」、と思わず言うと、彼はただただ礼を繰り返した。僕は彼の手を両手でぎゅうっと握って、電車を降りた。
なんだかすがすがしい気持ちだったけれど、最初に彼を怖いと思った自分を少し恥じた。