私たちは、誰かを深く傷付けてしまった時、強い罪悪感を経験します。
その自らの間違った行為、良くない言動によって、その誰かを傷つけたことで、その人との大切な関係を失う危険がでてきたり、また、実際に失ってしまったとき、人は通常、その強い罪悪感に加えて、悲しみや抑うつを経験します。
それはたとえば、和樹君が、浮気によって聡美さんを深く傷つけてしまい、その結果、聡美さんに別れを切り出された、というような状況です。
このとき、和樹君が健全なパーソナリティの持ち主であれば、和樹君は、聡美さんを裏切って深く傷つけてしまったことに、自責の念を感じ、傷ついた聡美さんをなんとか癒そうとします。その試みがなかなかうまくいかなくても、和樹君は、誠意を尽くして、聡美さんを癒そうとします。和樹君は、自分の行動が、大切なものを破壊してしまった、という罪悪感を経験します。
また、大切だった愛着の対象を失うことで、しばらくのあいた、「健全な」抑うつ状態を経験します。これを精神分析では対象喪失(Object loss)といい、和樹君は、この対象喪失に相当する喪の仕事(Mourning work)を経験することになります。
しかし、世の中には、このように誰かを傷つけたときに、それに相当する罪悪感、傷つけた対象を癒したい、罪を償いたい、という気持ちや、失うことに伴う抑うつ、対象喪失を、きちんと経験できない、精神的に未熟な人たちがいます。抑うつや、対象喪失、罪悪感に堪えられないからです。
こうしたとき、和樹君が無意識のうちにとる、鬱にならないための防衛に、今回のテーマ、「躁的防衛」というものがあります。これはたとえば、聡美さんに別れを切り出されたときに、ちょっとした償い、たとえば、謝ったり、何か贈り物などをしたりして、聡美さんはもうすっかり良くなった、立ち直った、大丈夫だ、などと、自分で勝手に思い込んで、実のところいまだ悲しみに暮れている聡美さんという現実に向き合えずに、勝手に罪悪感から解放されて、ひとりで元気になってしまうような場合です。これを躁的償いといいます。罪悪感をきちんと経験して乗り越えるにはそれなりの人格的成熟が必要なのですが、この場合、和樹君にはその問題があることになります。
もっとひどい場合、罪悪感すら感じられず、償うそぶりすらできないことがあります。
この場合にみられる躁的防衛としては、失った対象に対する、征服感、支配感、軽蔑などです。征服感は、傷つけた対象をさらに傷つけるようなことをして打ち負かし、抑うつ感を否定するものであり、支配感は、自分のその人に対する依存を否定し、その対象の、自分に対する依存を煽るようなもので、軽蔑は、その相手は傷つけたことで罪悪感を抱くにも値しない存在で、傷つけても失っても問題ない、とすることで、本来感じるべきである対象喪失と罪悪感を否認するものです。
このようにして、本来は自然に起こる、経験しなくてはいけない、健全な対象喪失や罪悪感、喪の仕事ができない人は、共感性に問題があり、責任感も希薄で、反省もないので、同じような過ちを繰り返し続けます。そこには成長も本物の人間関係もあり得ず、そういう人は、自分の問題にきちんと向き合わない限り、いつまでたっても誰かを幸せにできないだけでなく、自分が幸せになることもできません。
このように、人は誰かを自らの過ちによって傷つけた時、それに伴う、罪悪感や悲しみ、抑うつ感を自然に経験するもので、この場合は、こうした難しい情緒体験が、むしろその人の人格が健全であることの表れです。対象喪失をきちんと経験して、人は成長し、前に進めるようになります。