(注意: この記事の目的は、件の父親の批判ではありません。この事件をきっかけに、皆さんと一緒に子育てについて考えてみたいと思い、書きました)
最近起きた北海道の男児置き去り事件以来、父親によるあの山中の置き去りはしつけか虐待かという議論が盛んになっていますが、私としては、まずこの極端な二分法に無理があると思います。こうした0か100か、黒か白かの分類が前提になっていることが、生産的な議論に対する障壁となっているように感じます。そのように単純に割り切れる種類の話ではありません。
いずれにしても、私としての意見は、結論から言うと、明らかに間違ったことだと思います。それが虐待かしつけかということではなく。件の男性の行為は、彼なりのしつけですし、これが虐待だとは思いませんが、紛れもなく不適切な行為だったと思います(脚注1)。
まず、置き去りという罰ですが、これは発達心理学的、精神分析学的見地から、非常に良くないことです。
今回の男児の例においては、親の意図が失敗に終わっていますが、基本的に置き去りは、子供の問題行動を抑制するということに限って言えば、効果的です。
これは体罰にも言えることです。体罰は、子供を自分の思い通りに動かしたり、子供の問題行動を抑制する、ということに限定していえば、効果的です。しかし、体罰には深刻な問題があります。それは、体罰を受けて育った子が、自尊心の低い子に育つことが、臨床的に分かっているからです。体罰は、その子の将来の自己評価の低さや、精神疾患などと相関関係があることは、様々な臨床研究で明らかにされています。さらに体罰は、その子の攻撃性にも繋がっているといわれています。つまり、長い目で見ると、その子の人生にとって良くない、ということです。しかし、先ほども言ったように、体罰は、子供の行動をコントロールするのにある意味一番手っ取り早く、効果的なので、依然として多くの家庭で残っています。
いつものように、話がやや脱線しましたが、体罰と同様、この置き去りは、子供の問題行動を抑制する効果はありますが、問題は、長い目でみたときに、その子の人生に悪影響があります。というのも、小さな子供にとって、親は世界であり、全てです。親の存在が、その子の生存、サバイバルに、直結しています。その親から置き去りにされる、ということは、その子の本質的なところの見捨てられ不安(fear of abandanment 、分離不安(separation anxiety)を刺激するもので、こうしたことを常套手段としていると、その子は情緒不安定に育ちます。
体罰も置き去りも、子供に対する情緒的脅迫です。子供を情緒的に脅迫することで子供の行動をコントロールするやり方は、基本的に問題です。
見捨てられ不安や分離不安を刺激されて育った子は、不安定な大人になります。
先に、常套手段といいました。それでは、たまになら、一度なら、良いのか?
絶対にNoとは言いません。しかし決してお勧めできません。するのであれば、まず、その子の安全が保障できる場所で、その子をいざとなったらいつでも救出できる態勢を取る(その子には見えないけれど、近くで隠れてきちんと観察する)ことが、最低限必要でしょう。このいずれにしても、今回の父親の行動は、良くありませんでした。彼は男児を「本当に」置き去りにすべきではありませんでした。彼は木陰に隠れて男児を見守っているべきでした。男児は明らかに危険な目に遭いました。
ところで、これは個人的な臨床経験によるものですが、非常に興味深いことがあります。今回の事件のように、幼少期に、罰として親に置き去りにされた経験のある大人の方たちに、私はしばしば臨床現場で出会うのですが、その多くの方は、この男児と同様に、置き去りにされたその時から、親の意図とは裏腹に、サバイバルを目指して動き始めたといいます。そんなことは想像もしなかった親たちは、現場に戻ってきて子供がいなくて大慌て、やがて彼らを発見すると、抱きしめるのでもなく、「心配掛けて!」と激怒する、というパターンです。
置き去りにされて、サバイブしたら、怒られた、という記憶です。
今回の件も、もし警察沙汰になる前に父親が男児をどこか遠くで発見していたら、怒っていたような気がします。今回のことで、この父親の行動が明るみに出たのは、良かったと思っています。(なんとかママのように、この父親を責める気には到底なれませんが。彼の苦しみはすごく感じますし。彼が世間から強い批判に遭うべきだとも思いません。)いずれにしても、こうした置き去り経験のある彼らの多くは、大人になって、いろいろな問題に苦しんで生きています。それから、今回の事件も含めて私が一番問題だと思うのは、こうした親たちが、いかに自分の子供のことを見れていないか、分かっていないか、ということです。自分の子供の性格や、世界観について、よくわかっていないように思います。そして、そのわからなさゆえの誤算が、今回のようなことに繋がるように思います。
もうひとつ今回のことで不思議に思うのは、どうしてその男児がそのような深刻な攻撃性を他者に向けていたのかについてはあまり議論されていないことです。「そんなひどいことを自分の子が人様にしたら、私だって」、というロジックですが、私としては、どうして彼がそのような問題行動をするのか、そちらのほうがまず気がかりです。小学校2年生の7歳男児が他人や車に石を投げる、ということはあまりありません。世の中の大多数の小学校2年生の7歳男児はそのようなことはしません。こうした行動化をするのは、彼の置かれている環境やこころのなかで何か深刻な問題が起きているサインであると考えられ、本来一番重大視されるところだと思います。これについては、私はこれ以上話すことを控えます。
ただ、いずれにしても、今回のことが、多くの人達にとって、子供のしつけや体罰、虐待について考える機会になったのは、不幸中の幸いだったようにも思います。
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(脚注1)これがアメリカのカリフォルニア州で起きていたら、即刻Child Protective Service (CPS、児童保護サービス)という機関が警察と連携で動き出し、児童を父親から隔離して保護していたでしょう。発達心理学や臨床心理学を含めた心理学世界最先進国アメリカでは、これはabuseと見なされます。しかしだからといって、それが直接日本にも適応できるかといえば、そうとは言えません。文化も社会背景も異なります。なんとかママも、その辺りの想像力は必要だったと思います。
それから、常々思いますが、昨今よく耳にする「児童虐待」という言葉がしばしば不適切だと思います。児童虐待は、英語の"Child abuse"から来ていると思いますが、このabuseには様々な種類とレベルがあり、すべてのabuseが即「虐待」とも言えません。「虐待」というから、人々はぎょっとして、拒絶反応を示したり、過剰反応したりするように思います。abuseは、様々な種類とレベルの「間違った扱い」を指す語であり、すべての間違った扱いが、虐待とはいえません。こうしたあらゆる種類の「間違った扱い」は、当然正されなければなりませんが。親本人は往々にしてその扱いの深刻さについての自覚がありません。件の父親の行動は、こういう意味で、「間違った扱い」ではあるけれど、「虐待」とも言えないと思います。ひどい判断力の結果として、児童は危険に晒されたわけですが、父親はまさか息子がそのような目に遭うとは思っていなかったでしょうし、はじめから子供に危害を与える意図のある虐待とは似ていて異なるものだと思います。