前回は、共感性がどのように現れるのかについてお話しましたが、今回は、共感性の対極にある性質である、自己中心性 (self-centeredness, ego-centricity)について少し考えてみたいと思います。
というのも、共感性の欠如や、希薄さは、自己中心性の強さとそのまま比例関係にあります。つまり、通常、共感性が乏しければ乏しいほどに、自己中心性は強くなります。これらは、自己愛(Narcissism)の問題と直結しています。実際、自己愛の強さの問題は、共感性の希薄さの問題と直結しています(脚注1)。
ところで、ここで注意しなければならないのは、共感性の問題や、自己中心性の問題というのは、1)その人の性格であり、割と一貫してそうであるという場合もあれば、2)その時の人間関係や、その人の置かれている立場、状況などによって、一時的に、共感することが難しくなっていたり、自分のことで頭がいっぱいになってしまっている場合もある、ということです。
たとえば、普段はとても共感的な人が、ある日、電車のなかで、強烈な頭痛とめまいを経験するとします。この方は座席に座っておりましたが、車内は割と混んでいて、間もなく停車した駅で、たくさんの人が乗ってきました。そして、どこからともなく、背の曲がった、杖を突いたおばあさんがよろよろとやってきて、この方の前に立ちました。風呂敷を背負い、何やら紙袋などたくさん持っていて大変そうです。この方は、普段であれば、真っ先にこういうおばあさんに席を譲るのですが、今回に限っては、どうしようもなく、すまないと思いつつ、座り続けることにしました。
このとき、この方は、一時的に、普段よりも自己中心性が上昇していました。しかしこれは、「健全」であり、「生きるために必要な」自己中心性です。おばあさんよりも、自分の体のことに優先順位をつける正当な理由がこのとき、この方にはありました。一時的に、やむを得ない理由で自分のことで頭がいっぱいになっていた、ということです。そしてこの方は、頭痛とめまいが去れば、もとの共感的な人に戻ります。
一方、体調が絶好調な方が、休暇の日に、混んだ電車のなかで、体が不自由な方などの優先席に座っていて、目の前に立っているおなかの大きな妊婦さんが辛そうにしているのに気づきながらも、知らないふりをして、スマートフォンのゲームに熱中し続ける場合、当然訳が違います。この場合、この方の自己中心性は、一時的なものというよりも、性格的な問題であり、共感性の低さに基づくものであり、割と一貫したものであると考えられます。
このように、自己中心性といっても、それが一時的であり、ある状況下で見られる場合と、あらゆる状況下で、割と一貫して見られる場合があります。共感性についても同じことがいえます。普段は共感能力があるのだけれど、ある状況下で、その能力を発揮することに困難を覚えている人と、共感能力が乏しく、あらゆる状況で他者に共感することができない人とがいます。
ところで、共感能力とは、その本人の自覚とモチベーションと努力次第で向上できるものです。それにはやはり根気と時間は掛かりますが、共感性が高まれば、その人の人間関係は大きく向上しますし、その向上した人間関係で、自尊心も高まりますし、人生が変わります。
次回は、それではどのように共感性は鍛えていけるのかについて、考えてみたいと思います。
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(脚注1)これが臨床レベルに深刻な人たちは、「自己愛性人格障害」、「自己愛性パーソナリティ障害」というパーソナリティレベルの問題を持った人たちですが、自己愛という概念については、別の機会にお話したいと思いますが、自己愛の強さと、共感性の乏しさと、自己中心性の強さのあいだには、非常に密接な関係があります。