興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

共感性 その3 (Empathy #3) 

2015-01-21 | プチ精神分析学/精神力動学

 前回は、共感性がどのように現れるのかについてお話しましたが、今回は、共感性の対極にある性質である、自己中心性 (self-centeredness, ego-centricity)について少し考えてみたいと思います。

 というのも、共感性の欠如や、希薄さは、自己中心性の強さとそのまま比例関係にあります。つまり、通常、共感性が乏しければ乏しいほどに、自己中心性は強くなります。これらは、自己愛(Narcissism)の問題と直結しています。実際、自己愛の強さの問題は、共感性の希薄さの問題と直結しています(脚注1)。

 ところで、ここで注意しなければならないのは、共感性の問題や、自己中心性の問題というのは、1)その人の性格であり、割と一貫してそうであるという場合もあれば、2)その時の人間関係や、その人の置かれている立場、状況などによって、一時的に、共感することが難しくなっていたり、自分のことで頭がいっぱいになってしまっている場合もある、ということです。

 たとえば、普段はとても共感的な人が、ある日、電車のなかで、強烈な頭痛とめまいを経験するとします。この方は座席に座っておりましたが、車内は割と混んでいて、間もなく停車した駅で、たくさんの人が乗ってきました。そして、どこからともなく、背の曲がった、杖を突いたおばあさんがよろよろとやってきて、この方の前に立ちました。風呂敷を背負い、何やら紙袋などたくさん持っていて大変そうです。この方は、普段であれば、真っ先にこういうおばあさんに席を譲るのですが、今回に限っては、どうしようもなく、すまないと思いつつ、座り続けることにしました。

 このとき、この方は、一時的に、普段よりも自己中心性が上昇していました。しかしこれは、「健全」であり、「生きるために必要な」自己中心性です。おばあさんよりも、自分の体のことに優先順位をつける正当な理由がこのとき、この方にはありました。一時的に、やむを得ない理由で自分のことで頭がいっぱいになっていた、ということです。そしてこの方は、頭痛とめまいが去れば、もとの共感的な人に戻ります。

 一方、体調が絶好調な方が、休暇の日に、混んだ電車のなかで、体が不自由な方などの優先席に座っていて、目の前に立っているおなかの大きな妊婦さんが辛そうにしているのに気づきながらも、知らないふりをして、スマートフォンのゲームに熱中し続ける場合、当然訳が違います。この場合、この方の自己中心性は、一時的なものというよりも、性格的な問題であり、共感性の低さに基づくものであり、割と一貫したものであると考えられます。

 このように、自己中心性といっても、それが一時的であり、ある状況下で見られる場合と、あらゆる状況下で、割と一貫して見られる場合があります。共感性についても同じことがいえます。普段は共感能力があるのだけれど、ある状況下で、その能力を発揮することに困難を覚えている人と、共感能力が乏しく、あらゆる状況で他者に共感することができない人とがいます。

 ところで、共感能力とは、その本人の自覚とモチベーションと努力次第で向上できるものです。それにはやはり根気と時間は掛かりますが、共感性が高まれば、その人の人間関係は大きく向上しますし、その向上した人間関係で、自尊心も高まりますし、人生が変わります。

 次回は、それではどのように共感性は鍛えていけるのかについて、考えてみたいと思います。


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(脚注1)これが臨床レベルに深刻な人たちは、「自己愛性人格障害」、「自己愛性パーソナリティ障害」というパーソナリティレベルの問題を持った人たちですが、自己愛という概念については、別の機会にお話したいと思いますが、自己愛の強さと、共感性の乏しさと、自己中心性の強さのあいだには、非常に密接な関係があります。


共感性 その2 (Empathy #2) 

2015-01-21 | プチ精神分析学/精神力動学

 前回のお話、「共感性」の続きです。

 今回は、ひとつ具体的な例を挙げて、共感性とは何かについて、考えてみたいと思います。

 1月も気が付けば下旬に差し掛かっておりますが、今回の年末年始は、多くの人において、9日の大型連休で、1月5日の月曜日に、「会社に行きたくない」とツイッターでつぶやいた方が多数おられたことが話題になっていましたね。そういうわけで、以下の2通りの会話は、会社員の和樹さん(30)と専業主婦の由香里さん(29)の、1月4日の日曜日の夕方の会話です。いつものように、これらの会話と登場人物はすべて筆者がでっち上げたものです。

会話パターンその1:

和:「ああ、休暇が終わってしまう。明日から仕事だあ、嫌だなあ」

由:「何甘ったれたこと言ってるの?十分休んだでしょ?気合入れないと」

和:「・・・そんな。酷くない? ちょっと愚痴っただけじゃん」

由:「愚痴っても何も変わらないよ。頑張って!」

和:「もういいよ。ちょっとタバコ買ってくる」


何だか殺伐としておりますね。それでは、次のパターンを見てみましょう。


会話パターンその2:

和:「ああ、休暇が終わってしまう。明日から仕事だあ、嫌だなあ」

由:「そうだよねぇ。今回はお休みが長かったし、気持ちの切り替えも大変だよね」

和:「そうなんだよ。休みが長すぎた。楽しかったなあ」

由:「楽しかったよね。久々にふたりでゆっくり過ごせたし」

和:「うん。俺もすごく楽しかった。またふたりでゆっくり時間過ごしたいね」

由:「そうだね。またしばらく忙しくなりそうだけど、楽しみにしているよ」

和:「ちょっとコーヒーでも飲みに出かけない?」

由:「いいね、どこ行こうか」


はい。大分様子が違いますね。 あなたのパートナーとの普段の会話は、どちら寄りですか。もし前者寄りだとすると、注意が必要です。なるべく早く軌道修正をしなければなりません。後者寄りの方、今の関係性を大事にしてください。 さて、パターン1とパターン2で、何がそもそも異なるのかといえば、お分かりのように、和樹さんの最初の発言に対する、由香里さんの対応です。この会話の本質的な違いは、由香里さんの共感性の有無によるところが非常に大きく、前者において、由香里さんには共感性が欠けていたため、会話は棘のある、殺伐としたものになってしまいましたが、後者の場合は、由香里さんが共感性を発揮したため、会話は親密で温かなものへと発展しています。

 前回の記事において、共感性とは、自分の主観を傍らにおいて、相手の立場に立って物事を見たり感じたり想像したりする能力であると言いました。

 パターン1において、由香里さんは、自分の主観を和樹さんに押し付けて、突き放す感じであったため、和樹さんは傷ついて、こころを閉ざし、その場から去りたくなってしまいました。

 しかしパターン2では、由香里さんが、自分の主観を傍らにおいて、和樹さんの気持ちに寄り添い、和樹さんのこころを正確に鏡に映し出すような対応であったため、和樹さんは、「分かってもらえてる」「理解してもらえてる」と感じて、落ち着いて、こころが穏やかになっています。そして和樹さんは、そういう共感的な由香里さんともっと時間が過ごしたく、コーヒーを飲むことを提案しています。

 共感性は、良い人間関係において非常に大切なものですが、それほど難しいものではありません。日常生活において、共感性を使うことの第一歩は、この例からもお分かりのように、まずは相手の話に耳を傾ける、ということです。相手の言っていることをよく聞いて、相手の気持ちや立場を理解するように努めます。

 さて、理解はできたとしても、それに相反する、あなたの意見があるかもしれません。このときに、あなたの意見を言う前に、まずは、あなたが理解した、相手の気持ちについて、そのまま言葉に出して相手に伝えてみます。あなたがあなたの意見を伝える機会は必ずあります。しかし、まず最初にするのは、相手の気持ちを理解して、理解したことを、相手が分かるように伝えることです。ちょうど、会話パターン2の由香里さんのように。それで相手が、「分かってもらえている」と感じると、さらにこころを開いて話をしてくれるので、会話は深まってゆきます。


  




共感性 その1 (Empathy #1) 

2015-01-12 | プチ精神分析学/精神力動学

 普段の生活のなかの対人関係で、私たちは誰でも多かれ少なかれ、傷ついたり、悲しんだり、苛立ちや怒りを感じます。それはどんなに恵まれた人間関係においても起こることなので、難しい人間関係のなかでは本当によく起こります。私たちは同時に、そうするつもりはなく、他者にそのような経験をさせてしまうこともあります。

 さて、このように誰かを傷つけたり、傷つけられたりするときに、根本的には何が問題になっていたのかといいますと、そこには共感性の問題があります。

 共感性とは、自分の主観は傍らにおいて、相手の立場に立って、物事を見たり、感じたり、想像したりする能力です。これは、同情(Sympathy)とは似ていて異なるものです。同情は、自分の気持ちや経験を、相手に重ね合わせた投影によって起こりますが、共感は、そうした投影を超えて、正確に相手の立場や気持ちを理解することです。誰かをみて、「ああ、かわいそう」と思った時、私たちは、その人に対して同情している場合が多いですが、共感は、その「かわいそう」から一歩でも二歩でも進んだ、深い理解によります。

 とはいっても、同情と共感は共通する部分も多く、ある種の同情は、共感であったりします。たとえば、誰かを見て「かわいそう」と思った時、その対象が、本当に「あたしかわいそう」と思っていたら、それは共感です。逆に、「かわいそう」と言葉に出して、その人がこころを開く代わりに、あなたには予想外の反感などを示した場合、そこには共感ミスがあったと考えられます。あなたが何か辛い経験をしているときに、投影的な人がやってきて「ああ、すごくよく分かる!分かるよ!!」と言ってきたときに、「あんたになんか分かるわけない」という気持ちがでてきたときも、これにあたります。その人は、自身の経験をあなたに重ね合わせているだけで、あなたの気持ちは理解していないかもしれません(脚注1)。

 というのも、その人はそのとき実際のところ「あたしかわいそう」と思ったかもしれません。その時点では、あなたは正確に相手の立場を理解していたことになります。しかし、もし反感に遭った場合、あなたは、その人がたとえば強くありたいと思っていたり、同情されたくない、と思っていることに注意を向けることができなかったり、理解できなかったためなので、この段階で、共感ミス、ということになります。

 この場合の上手な対応は、いろいろ考えられますが、たとえば、「かわいそう」という代わりに、「ひどいよね」とか、「大変だね」とか、「大丈夫」とか、別の言葉を掛けてあげたり、また、声ではなくて、まなざしであったり、表情であったりするかもしれません。そして、もしかしたらその人は本当に、誰からも放っておいて欲しいかもしれません。その場合、そのときはそうっとしておいてあげて、後で歩み寄るのがよいかもしれません。

 共感性は、あらゆる人間関係の問題や、良い人間関係における鍵概念で、とても大切なテーマですので、これから何度かに分けてお話してゆきたいと思います。

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(脚注1) 世間一般において、「誰々の~なところにすごく共感します!」というふうに、「共感」という言葉がしばしば使われますが、これは、精神分析学や臨床心理学における「共感」とは意味合いが異なります。「~にすごく共感します」と言うときに、その人は大抵の場合、自分自身の経験や意見、気持ちなどを、その人に重ね合わせているわけで、それが(心理学における)本当の共感である場合ももちろんありますが、ただの投影に過ぎない場合もよくあります。


 


逆境のもたらす恵み

2015-01-07 | 戯言(たわごと、ざれごと)

 "Some of the life's best lessons are learned at the worst times." --Unknown

 いつものように、なんとなくFacebookを閲覧していたら、あるアメリカ人の友達が、彼女のページで上記の言葉を紹介してくれていました。

 「人生における幾つかの最高のレッスンは、その人生において最悪なときに学ぶものだ」、といった意味ですね。これはいろいろな人が異口同音に言うことですが、私としても、非常にうなずける言葉です。

 人は、その人生において、うまくいっているとき、成功しているときよりも、なんだかいまいちな時、挫折を経験しているとき、失敗した時などに、多くのことを学ぶものです。その証拠に、今本当の意味でうまくいっている人たちは、ひとりの例外もなく、過去にその今まさに成功していることにおいて、挫折や失敗を味わったことのある人たちでしょう。

 誰だって失敗は避けたいし、挫折などしたくないものです。

 しかしその失敗のひとつひとつには、次に失敗しないための、次回はうまくいくための、秘訣がいっぱい詰まっています。私もたまに、脳天に漬物石を食らったような経験をして、しばらくの間おとなしくなって凹んでいることがありますが、自分が一番学んでいるときは、思い起こせばいつだってそのようなときです。

 漬物石のショックのなかで、なぜそのようになったのか、何がいけなかったのか、そもそもの始まりは何なのか、それは或いは避けられたことなのか、避けようのなかったことなのか、次はどのようにすればいいかなどについて、考えます。そしてその時の様々な気持ちをなるべくしっかりと味わうようにしています。とても不快な気持ちですが、せっかくの失敗を忘れないために、なるべくかみしめます。私としても、失敗は大嫌いですし、できれば味わいたくないのですが、どうやら失敗というものは、生きている限り付き物のようですし、失敗したら、根っから貧乏性なので、その失敗からとことん得られるものを得るようにしています。そうしないと、もったいないです。

 このように失敗を経験すると、同じことで失敗する確率はどんどん下がりますし、その領域で、どんどんうまくいくようになります。だから私たちは、失敗した時に、その失敗を一刻も早く忘れ去ってしまいたい衝動を抑えて、その失敗をきちんと味わうのが良いと思うのです。

 最悪な事態はいつまでも続きません。それがどれだけ暗澹たるもので、永遠に続くかのように感じられたとしても。その暗澹たる事態にしばらく留まって、次はどうやったらうまくいくか、考えましょう。次はきっとうまくいきます。