タイトル見てクリックした人に質問です。
ぱっと見て、「辛い」をどう読みましたか。
「つらい」と読んだ人と、「からい」と読んだ人が
いると思うのだけれど、あなたはどちらでしょうか。
ちなみに私は今、韓国のキムチ系ラーメンを食べながら
これを書いています。もう、辛くて辛くて、
少しずつじゃないと食べられないんです。
ところで、もしかしたら、これを「さいわい」と
読み間違えた方もいるかもしれませんね。
「幸い」と「辛い」って形が似ていますから。
ちょっと話は逸れるけれど、とある牧師が、
キリスト教とは、「辛い」に十字架の「十」を
足したものだと言いました。つまり、
「辛」+「十」=「幸」=キリスト教
・・・えぇと、今回はキリスト教についての
お話ではないのでこの話は割愛するけれど、
まあ、キリスト教とは、信ずるものが皆
救われ、幸福になる宗教とされているので、
この牧師はそのようなことを言ったのでしょう。
話を元に戻しますが、基本的に、タイトルを
「からい」、「つらい」、「さいわい」と、3通りに
読んだ方がいると思います。同じ日本人なのに、
なぜこのような違いが出てくるのでしょうか。
答えや解釈はいくつかあるけれども、とりあえず
言えることは、我々人間は目に映るもの、聞こえる
ものに、自己の内面世界を投影(Project)するから
だと言えます。こういうことは、誰もが経験的に
なんとなく知っていることだと思うけれど、実際
我々が持っている「投影」という性質は非常に
大きなものです。
遅れましたが、今回は少し投影の話をしたいと
思います。投影(Projection)という事象は
非常に奥が深く、これから先にも何度も扱うことに
なると思いけれど、今日は少しだけ書いてみます。
さて、普段から自分の投影に敏感できちんと
モニターできている人と、全く無自覚な人とでは
大きく違います。さらに、少し逆説的だけれど、
自分の投影をモニターできる人は投影することが
少ないし、モニターできない人は、非常に投影的で
あることが多いです。
人間はもともと、自分が見たいものをみて、
聞きたいことを聞くように出来ているので、普段から
あらゆる「知覚」にはバイアス(色眼鏡・フィルター)
が掛かります。このバイアスには、いろいろな要素があり、
その人の文化、風習、価値観、社会・経済階級、性別、
年齢、宗教、身体・精神障害の有無、人生経験、世界観など
枚挙に暇がないけれど、人間はこのような多くの要素の
相互作用で一人一人が非常にユニークに作られている
ため、同じものを見ても聞いても、実際に認知するもの、
解釈などは大きく異なることが多々あります。
投影の定義も実に様々だけれど、ここでは一つ、
「自己の内面世界を対象に投げかける防衛機制」と
しておきます。文字通り、自分の内面にあるものを
相手に投射し、見ているものが実は己の内面世界の
鏡にすぎなかったりするのだけれど、人はよく
それに気付かずにその対象と同一視したり、逆に
嫌悪感を抱いたりします。ちなみに人は誰かを
嫌ったり、誰かに嫌悪感を抱く時、その相手の中に
自分の中の嫌いな要素を見ています。
投影とは、両刃の剣であり、投影ゆえに誰かと
自分を関連付けたり共感したりすることもできるの
だけれど、逆に、投影ゆえに、現実を大きく曲解
したり、不当に嫌悪したり、逆に、過剰同一視したり
する原因にもなります。例えば、投影的な人は
しばしば、何かに悩んでいる人や悲しんでいる人に
対して、その人と自分が違う人間で、その実際の
経験も精神世界も大きく異なるかもしれないという
可能性に無自覚で、「その気持ち痛いほど分かる」
などと言ったりします。そこから両者の深い繋がりが
生まれることもあれば、いわれた方が、強い違和感を
感じたり、腑に落ちない気持ちになることも多いです。
このように、投影は人間の様々な言動や精神活動
に大きな影響を与えているけれど、例えば、休暇に
映画館で映画を見ている時に自分の投影を意識し
過ぎたら、うまくその世界に入り込めずにその鑑賞は
つまらないものになるし、逆に、ビジネスや商談の場で
自分の投影に全く無自覚だとその交渉は破綻するし、
そのバランスが大切なわけだけれど、要は、いかに
自分の基本的な投影の度合いやその傾向などに対して
自覚が持てるかということです。
自分や他者の投影に対してモニターできると、
例えば、誰かの一言に必要以上に傷つくこともないし
(それが相手の自分に対する投影、つまり、相手の問題
だと受け止めることで必要以上に個人的に受け止める
ことが防げる)また、誰かのこころの領域に不用意に
土足で踏み入ることもなく、対人関係もより建設的な
ものになります。
ラーメンも食べ終わったので今日はこの辺にします。
ぱっと見て、「辛い」をどう読みましたか。
「つらい」と読んだ人と、「からい」と読んだ人が
いると思うのだけれど、あなたはどちらでしょうか。
ちなみに私は今、韓国のキムチ系ラーメンを食べながら
これを書いています。もう、辛くて辛くて、
少しずつじゃないと食べられないんです。
ところで、もしかしたら、これを「さいわい」と
読み間違えた方もいるかもしれませんね。
「幸い」と「辛い」って形が似ていますから。
ちょっと話は逸れるけれど、とある牧師が、
キリスト教とは、「辛い」に十字架の「十」を
足したものだと言いました。つまり、
「辛」+「十」=「幸」=キリスト教
・・・えぇと、今回はキリスト教についての
お話ではないのでこの話は割愛するけれど、
まあ、キリスト教とは、信ずるものが皆
救われ、幸福になる宗教とされているので、
この牧師はそのようなことを言ったのでしょう。
話を元に戻しますが、基本的に、タイトルを
「からい」、「つらい」、「さいわい」と、3通りに
読んだ方がいると思います。同じ日本人なのに、
なぜこのような違いが出てくるのでしょうか。
答えや解釈はいくつかあるけれども、とりあえず
言えることは、我々人間は目に映るもの、聞こえる
ものに、自己の内面世界を投影(Project)するから
だと言えます。こういうことは、誰もが経験的に
なんとなく知っていることだと思うけれど、実際
我々が持っている「投影」という性質は非常に
大きなものです。
遅れましたが、今回は少し投影の話をしたいと
思います。投影(Projection)という事象は
非常に奥が深く、これから先にも何度も扱うことに
なると思いけれど、今日は少しだけ書いてみます。
さて、普段から自分の投影に敏感できちんと
モニターできている人と、全く無自覚な人とでは
大きく違います。さらに、少し逆説的だけれど、
自分の投影をモニターできる人は投影することが
少ないし、モニターできない人は、非常に投影的で
あることが多いです。
人間はもともと、自分が見たいものをみて、
聞きたいことを聞くように出来ているので、普段から
あらゆる「知覚」にはバイアス(色眼鏡・フィルター)
が掛かります。このバイアスには、いろいろな要素があり、
その人の文化、風習、価値観、社会・経済階級、性別、
年齢、宗教、身体・精神障害の有無、人生経験、世界観など
枚挙に暇がないけれど、人間はこのような多くの要素の
相互作用で一人一人が非常にユニークに作られている
ため、同じものを見ても聞いても、実際に認知するもの、
解釈などは大きく異なることが多々あります。
投影の定義も実に様々だけれど、ここでは一つ、
「自己の内面世界を対象に投げかける防衛機制」と
しておきます。文字通り、自分の内面にあるものを
相手に投射し、見ているものが実は己の内面世界の
鏡にすぎなかったりするのだけれど、人はよく
それに気付かずにその対象と同一視したり、逆に
嫌悪感を抱いたりします。ちなみに人は誰かを
嫌ったり、誰かに嫌悪感を抱く時、その相手の中に
自分の中の嫌いな要素を見ています。
投影とは、両刃の剣であり、投影ゆえに誰かと
自分を関連付けたり共感したりすることもできるの
だけれど、逆に、投影ゆえに、現実を大きく曲解
したり、不当に嫌悪したり、逆に、過剰同一視したり
する原因にもなります。例えば、投影的な人は
しばしば、何かに悩んでいる人や悲しんでいる人に
対して、その人と自分が違う人間で、その実際の
経験も精神世界も大きく異なるかもしれないという
可能性に無自覚で、「その気持ち痛いほど分かる」
などと言ったりします。そこから両者の深い繋がりが
生まれることもあれば、いわれた方が、強い違和感を
感じたり、腑に落ちない気持ちになることも多いです。
このように、投影は人間の様々な言動や精神活動
に大きな影響を与えているけれど、例えば、休暇に
映画館で映画を見ている時に自分の投影を意識し
過ぎたら、うまくその世界に入り込めずにその鑑賞は
つまらないものになるし、逆に、ビジネスや商談の場で
自分の投影に全く無自覚だとその交渉は破綻するし、
そのバランスが大切なわけだけれど、要は、いかに
自分の基本的な投影の度合いやその傾向などに対して
自覚が持てるかということです。
自分や他者の投影に対してモニターできると、
例えば、誰かの一言に必要以上に傷つくこともないし
(それが相手の自分に対する投影、つまり、相手の問題
だと受け止めることで必要以上に個人的に受け止める
ことが防げる)また、誰かのこころの領域に不用意に
土足で踏み入ることもなく、対人関係もより建設的な
ものになります。
ラーメンも食べ終わったので今日はこの辺にします。