興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

辛い

2007-02-25 | プチ精神分析学/精神力動学
タイトル見てクリックした人に質問です。







 ぱっと見て、「辛い」をどう読みましたか。

 「つらい」と読んだ人と、「からい」と読んだ人が
いると思うのだけれど、あなたはどちらでしょうか。
ちなみに私は今、韓国のキムチ系ラーメンを食べながら
これを書いています。もう、辛くて辛くて、
少しずつじゃないと食べられないんです。

 ところで、もしかしたら、これを「さいわい」と
読み間違えた方もいるかもしれませんね。
「幸い」と「辛い」って形が似ていますから。
ちょっと話は逸れるけれど、とある牧師が、
キリスト教とは、「辛い」に十字架の「十」を
足したものだと言いました。つまり、
「辛」+「十」=「幸」=キリスト教

・・・えぇと、今回はキリスト教についての
お話ではないのでこの話は割愛するけれど、
まあ、キリスト教とは、信ずるものが皆
救われ、幸福になる宗教とされているので、
この牧師はそのようなことを言ったのでしょう。

 話を元に戻しますが、基本的に、タイトルを
「からい」、「つらい」、「さいわい」と、3通りに
読んだ方がいると思います。同じ日本人なのに、
なぜこのような違いが出てくるのでしょうか。

 答えや解釈はいくつかあるけれども、とりあえず
言えることは、我々人間は目に映るもの、聞こえる
ものに、自己の内面世界を投影(Project)するから
だと言えます。こういうことは、誰もが経験的に
なんとなく知っていることだと思うけれど、実際
我々が持っている「投影」という性質は非常に
大きなものです。

 遅れましたが、今回は少し投影の話をしたいと
思います。投影(Projection)という事象は
非常に奥が深く、これから先にも何度も扱うことに
なると思いけれど、今日は少しだけ書いてみます。

 さて、普段から自分の投影に敏感できちんと
モニターできている人と、全く無自覚な人とでは
大きく違います。さらに、少し逆説的だけれど、
自分の投影をモニターできる人は投影することが
少ないし、モニターできない人は、非常に投影的で
あることが多いです。

 人間はもともと、自分が見たいものをみて、
聞きたいことを聞くように出来ているので、普段から
あらゆる「知覚」にはバイアス(色眼鏡・フィルター)
が掛かります。このバイアスには、いろいろな要素があり、
その人の文化、風習、価値観、社会・経済階級、性別、
年齢、宗教、身体・精神障害の有無、人生経験、世界観など
枚挙に暇がないけれど、人間はこのような多くの要素の
相互作用で一人一人が非常にユニークに作られている
ため、同じものを見ても聞いても、実際に認知するもの、
解釈などは大きく異なることが多々あります。

 投影の定義も実に様々だけれど、ここでは一つ、
「自己の内面世界を対象に投げかける防衛機制」と
しておきます。文字通り、自分の内面にあるものを
相手に投射し、見ているものが実は己の内面世界の
鏡にすぎなかったりするのだけれど、人はよく
それに気付かずにその対象と同一視したり、逆に
嫌悪感を抱いたりします。ちなみに人は誰かを
嫌ったり、誰かに嫌悪感を抱く時、その相手の中に
自分の中の嫌いな要素を見ています。

 投影とは、両刃の剣であり、投影ゆえに誰かと
自分を関連付けたり共感したりすることもできるの
だけれど、逆に、投影ゆえに、現実を大きく曲解
したり、不当に嫌悪したり、逆に、過剰同一視したり
する原因にもなります。例えば、投影的な人は
しばしば、何かに悩んでいる人や悲しんでいる人に
対して、その人と自分が違う人間で、その実際の
経験も精神世界も大きく異なるかもしれないという
可能性に無自覚で、「その気持ち痛いほど分かる」
などと言ったりします。そこから両者の深い繋がりが
生まれることもあれば、いわれた方が、強い違和感を
感じたり、腑に落ちない気持ちになることも多いです。

 このように、投影は人間の様々な言動や精神活動
に大きな影響を与えているけれど、例えば、休暇に
映画館で映画を見ている時に自分の投影を意識し
過ぎたら、うまくその世界に入り込めずにその鑑賞は
つまらないものになるし、逆に、ビジネスや商談の場で
自分の投影に全く無自覚だとその交渉は破綻するし、
そのバランスが大切なわけだけれど、要は、いかに
自分の基本的な投影の度合いやその傾向などに対して
自覚が持てるかということです。

 自分や他者の投影に対してモニターできると、
例えば、誰かの一言に必要以上に傷つくこともないし
(それが相手の自分に対する投影、つまり、相手の問題
だと受け止めることで必要以上に個人的に受け止める
ことが防げる)また、誰かのこころの領域に不用意に
土足で踏み入ることもなく、対人関係もより建設的な
ものになります。

 ラーメンも食べ終わったので今日はこの辺にします。

原因ときっかけの違い

2007-02-10 | プチ臨床心理学

 しばしば耳にすることだけれど、例えば、

「どこどこのカップルが別れた原因、何だと思う?○○だって。たった○○が原因だよ。信じられる?」

という内容のゴシップがある。

 具体的な例を挙げてみると、

「A男さんが、B子さんと旅行に行って、旅先の食事中に二人が塩コショウを使うタイミングの事で大喧嘩になり、二人はそれが『原因』で別れた。たったそれだけの原因だよ~」

というような内容の噂話だ。別にこれは男女関係に限らず、あらゆる人間関係に問題が生じた際に当事者及びに周りの人間によって語られる話で、
「たったそれだけで」とか、「そのことさえなければ」
というような意見や感想をよく耳にする。

 さらにこれはキャリアや仕事などにも言えることで

「○○さんは△△が原因で会社が嫌になってやめたんだって。たった△△で。堪え性がないよね」

という話もよく聞く。また、やめた本人から、

「オレはある日何故か急に△△が嫌になってやめちゃったんだよ」とか

「私は◇◇というどーでもいい失敗して
 普段全然気にならないようなことなのにその時は急に嫌になってやめたの。あの失敗さえなければ今頃まだ・・・」

という内省もしばしば聞こえてくる。

しかし、本当にそうなのだろうか。

こういう話を聞いた時に、私は基本的に、その「原因」とされていることは、実は一つの「引き金・きっかけ」に過ぎず、例えその出来事がなかったとしても、同等の、または一見全く異なるように見える何らかの別件で、同じような結果がもたらされていたであろうと捉えるようにしている。

 つまり、その出来事は「最後の一撃」に過ぎなかったわけで、水面下ではそこまでで既にいろいろなことが起こっていて状況は飽和状態にまで複雑化していることが多いのだ。
  
 問題は、最後の一撃、最後の一滴だ。
表面張力でこぼれずにバランスを保っているコップの水は、誰かの振動によってこぼれるかもしれないし、もう一滴加わることで溢れるかも知れないし、或いは猫がぶっつかってこぼれるかもしれない。ここで人々はテーブルを揺らした誰かを責めるかも知れない。

「あんたが揺らしたのが原因でコップの水が こぼれちゃったじゃない」

と。

 しかし私は思うのだ。そんな なみなみに 水を入れておいて、こぼれないはずないだろうと。こぼれるのは時間の問題で、それはただのきっかけに過ぎず、根本的な問題はもともとグラスに入っていた水の量であると。

 ここで冒頭の例に戻るけれど、一見取るに足らないあまりにも馬鹿げた「原因」で別れたカップルというのはちょっと見つめてみると、その出来事が起こるまでに、実にいろいろな未解決な問題が
山積みになっていたり、関係性は既にどうしようもなく絡まっていたりすることが多い。つまりそれは起こるべくして起こったのだ。

 しかし、人間は基本的に、自分の身に起こったことに関しては、状況、環境などの外的要因に原因を帰する傾向があり、また逆に、他人に起こった問題に
ついては、その人の性格や能力など、内的な要因に問題の原因を帰そうとする傾向があるので (これには認知心理学的な裏づけがある)自分に何か起きたときに、己の内面を省みる代わりに表面的な原因を見つけてとりあえず安心しようと
するのだ。「原因」を見つけることで、自分の属性や問題点などに向き合うことも回避でき、一応の精神衛生が保たれるからだ。

 (ところで、他人の身に起こったことに関して表面的な原因について人が噂する際には、
 「たったそれだけのことで。○○さんは 人間的に未成熟だ」というニュアンスが 見られることが多く、結局のところ、その人の内的要因が話題の面白さのポイントになっている)

 ここで、「最後の一撃」からもう少し掘り下げて考えてみて、「考えてみれば、過去に○○という出来事が起きて以来、少しずつ歯車が狂い始めた」という風に内省する人は少なくない。しかしここで、過去の一地点に問題を集約してしまっては「最後の一撃」に原因を帰するのと大して変わらなくなってしまう(それにしても随分違うとは思うけれど)。

 そもそも、それならば「何故その過去の一地点で ○○という出来事に遭遇したのだろうか」。また「その時に感じた気持ちの原因は何だろうか」。「他の感じ方はありえなかったのだろうか」。
「なぜ、その出来事が自分にとって特別に記憶されているのだろうか」、などについて見つめてみて、例えは、自分の過去の人間関係や、基本な人間関係、対象関係のパターンなどについて分析してみると、そこには本質的な変化のきっかけが見出されたりする。

 以上のことを踏まえて考えてみると、世の中のあらゆる物事は、(もちろん例外はあるけれど)それまでの出来事との関連性によって起こるもので、一見「原因」と思えることも実は一つのきっかけに過ぎないのではないかと思えてくると思う。

 ただ、人は、あらゆる事象に対してとりあえずの「原因」を見出してそこに「エンドマーク」を作って安心したい生き物でもあるし、そうした思考・行動パターンが今日の人間において広く見られるのは、進化心理学的にいうと、そこに
「何らかの適応」があったからだと考えられる。

 実際、そうした行動自体がこころの防衛機制として作用しているし、なんでもかんでも煎じ詰めて考えていこうとしたら本当にきりがないのだけれど仕事や人間関係など、本当に自分にとって重要な
出来事においては、「引き金」にとらわれずに 少し掘り下げて内省してみることに大きな意味があるように思えるのだ。この辺りが、よく言われる「学ぶ人」「学ばない人」の分かれ目なのかも知れない。