興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

誰かが死ぬ夢

2010-04-25 | プチ精神分析学/精神力動学
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20100417_dream_meaning/

 上記の記事(↑)は、この間ミクシィのニュース記事でたまたま読んだのだけれど、これは結構面白い記事だと思う。わが国では、あまり根拠のない「夢占い」と、臨床心理学的、精神分析的な、臨床的根拠に基づいた「夢分析」がしばしば混同されているけれど、この記事は、一応精神分析学に基づいた解釈を加えている。ところでこの記事で、人が死ぬ夢について、一般向けにかなり控えめに書かれているけれど(たとえば、「・・・あるいは、その人物にどこか遠くへ行ってほしいと感じているか、逆にその人を失うのが怖いと思っていることを示す場合もあります」)、実際のところ、もっと良くあるのは、Dreamer(その夢を見ている人)は、無意識的に、或いは意識化しようとすればできるけど意識することを回避しているレベルで、その夢の中で死ぬ誰かに対して、怒りや攻撃性を抱いている、ということだ。

 極端に言えば、その人を夢の中で間接的に殺している。それで、Dreamerが本当はその人のことを殺したいのかといえば、必ずしもそうではない。

 ただ、夢というのは無意識に押しやられた感情のはけ口で、それは間接的であると同時に、極端な表現であることも多い。その夢を見た後で目が覚めて、「すっきりした」、というDreamerはあまりいないし、たいていの人は、それが夢でよかったとほっとするし、夢の中で経験しているのはその対象を失う恐怖や悲しみだ。
 それが普通に直接的に、その誰かを失うことに対する恐怖の表れであることも多く、その場合は、怒りや攻撃性、という解釈はあてはまらない。

 ただ、そういう夢を見たときには、その意味について、それからその夢の中で死んだ人と自分との関係性について、少し時間を掛けて考えてみるといろいろ新しい発見があるかもしれない。

 夢は、Dreamerの性格によっても意味は相当変わってくるのだけれど、たとえばそのDreamerが優しいひとだったり、怒りや攻撃性などの、自分が誰かに抱く悪感情が嫌で抑制したり抑圧したりしがちな場合、夢の中でそのような間接的な形で怒りや攻撃性を表現している可能性も高い。

 ひとは誰でも大切な人に対する怒りや攻撃性など意識したくないものだが、それが必要であるときにも回避し、抑圧し続けたら、そのコミュニケーションや関係性には必然的に問題が生じる。それが夢からの―無意識からの―ヒントだと受け取って、そのひととの関係性を見つめてみて、もし自覚できたら、建設的な表現で、その気持ちを相手に伝えるべきである。そのようにして気持ちが言語化できたら、そういう夢は見なくなるだろう。
 
 しかしさらに複雑なのは、その人が、たとえ夢のなかでもその大切な誰かに対する怒りを経験することができない場合、その大切な誰かの代わりに他の誰かを死なせることもある。

 たとえば、賢二くんは彼女の舞ちゃんに無意識的に、本当は怒りを感じているのだけど、心優しい賢二君、夢の中でも舞ちゃんが死ぬことなんて耐えられない。しかし無意識は怒りの表現を求めている。その結果、夢の中で、舞ちゃんの代わりに、賢二君の親友の聡史くんの彼女の理沙ちゃんが死んだりする。
 ここで、賢二君は、親友の聡史君カップルに自分の問題を投影し、理沙ちゃんを死なせることで、本当は舞ちゃんに対する怒りを表現していることになる。
 こうなると、賢二君が相当に精神分析の知識に長けていない限り、とてもじゃないがこの意味は分からないだろう。
 
 こういう、夢の中のさらなる代理体験、というのは意外とよくあることで、それを覚えておくと、夢分析は進み、自分に対する理解はさらに深まるだろう。

 夢分析で一番大事なことのひとつは、この例でも分かるように、夢の意味というのは、個人個人の性格や、人生経験や、今置かれている状況や、そのそれぞれの人間関係などのコンテクストと密接に関係しているので、この記事のような一般的な解釈はあくまで参考までで、誰にでもあてはまるわけではない、ということだ。夢を見たら、自分のコンテクストと結びつけて考える習慣を身に着けると、夢分析はずっとしやすくなるし、有意義になるかもしれない。

観察と自覚

2010-04-11 | プチ精神分析学/精神力動学
 ひとのこころや感情というのは、空模様とよく似ていて、一日のうちに絶え間なく変動し続けている。

 ただ、空模様と違うのは、我々のこころというのはもともとの自然な変動に加えて、状況的、対人的、社会的な、いろいろな外的刺激の影響が絶え間なくあるわけで(それを避けるためにある種の人はある状況下において引きこもったりするわけだけれど)つまり我々の一日のうちの、また、一週間のうちの、こころの変化というのは、もともとの自然な変動と外的刺激のケミストリーによって生じている。

 ここで大事なのは、この2つの要素はどちらも完全にはコントロールできないわけだけれど、この2つの要素をきちんと認識し続けられれば―つまり、自分が今現在誰とどういう状況にいて、自分はその直前と今でどういう精神状態だったか、それから、その状況または他者が、自分にどのような影響を与える傾向があるか―そのケミストリーがおかしなことになるのは防げるということだ。

 それから、ひとはしばしば、本来コントロールができないこれらのもの―自分の自然なこころの変動、それから、他人の言動、状況などーを、コントロールしようとして、さらに問題をおかしなものにする。

 コントロールできないものをコントロールしようとしすぎるとき、ひとは精神に支障をきたす。
 逆に、状況や、それによって影響されている自分のこころを野放しにしていたら、それはそれで精神の成長はないし、関係や経験が深まることもない。

 ここで逆説的なのは、コントロールできないものをコントロールしようとせずに、かといって、それらに気を留めないわけでもなく、それらをきちんと見据えて自覚することで、こころは安定し、成長し、関係や経験も深まり、その状況も変わっていくということだ。