興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

嫌な記憶と良い記憶

2011-06-24 | プチ認知心理学

 以前、「なぜ私は良い思い出よりも嫌な思い出のほうをたくさん覚えているのでしょう」という質問を受けたことがあります。

 これにはいろいろな理由が考えられます。たとえばその人の人格や生育歴、精神状態などで、実際,鬱状態にいる人が、嫌な思い出ばかりに苛まれて良い思い出の影響力が無効化している、ということも良くあります。

 さて、このように個人差はありますが、人は多かれ少なかれ、ある出来事や行事において、嫌なことばかり覚えていて、良いことがあまり思い出せなかったりして、その嫌な記憶に苛まれる経験はあると思います。これが何故かといえば、人間は、認知の傾向として、「解決した事物よりも、未解決の事物のほうをよく覚えている」からです。

 あながたもし何かの出来事において(たとえばあるパーティー、飲み会、旅行、デート、イベント、誰かの結婚式・・・)嫌な思い出のほうをよく思い出すとすれば、それがまだあなたのなかで未解決であるからだと考えられます。

 ここで、思い出されるがままに悶々と嫌な回想をするのではなくて、「なぜ」その嫌な記憶が思い出されるのか、それが自分にとってどのような意味のあるものなのか、それと似たようなことが過去になかったか、それが今の自分の人生にどのような影響を与えているのか、それから、これが一番大事ですが、そのときに自分がどのような気持ちや感情を経験していたのか、(あまり愉快な作業ではありませんが)ゆっくりと自分と向き合って自己分析したり、文章にしてみたり、できれば信頼できる人にゆっくりと聞いてもらったり、それらの記憶とうまく折り合いがつけられるようになると、今まであまり意識していなかった、気に留めていなかった、その出来事における良い記憶をもっと思い出せるようになり、嫌な記憶に煩わされることも少なくなります。

 これは、精神分析学的にいうと、あなたの中で未解決であった問題が、解決、統合された、ということになります。その結果、嫌な記憶は記憶として残りますが、それが今まで持っていたあなたに対する影響力はなくなるか、激減するでしょう。また、それがそれほど「嫌」なものでなくなったりもします。


これ何に見える?

2006-12-10 | プチ認知心理学
この写真の折り紙は、何に見えますか?







































これは、今日 老人ホームでもらってきたもの
なのだけれど、多くの日本人にとって、この
作品が何であるかは比較的すぐに分かるのでは
ないかと思います。

大体、1~2秒見つめれば、なんだか
分かるのではないでしょうか。








さて、老人ホームの後で、いろいろな国の人が
集まる場所に行く機会があったので、ちょっとした
実験をしてみました。簡単です。これを見せて、
「これ何だ?」って聞くのです。




面白い結果が観察されました。アメリカ人と、
中国人と、韓国人と、ロシア人と、コロンビア人は、
見てすぐに、

「サンタクロース!!」

と言いました。「一目瞭然だよ」と。

ところが、グアテマラ人と、イタリア人は、
じっと見つめて、熟考した後で、

「分からない、何これ」

と言いました。この二人はアメリカへ移住して
間もないのだけれど、グアテマラではそれほど
サンタクロースはメジャーではなく、この
イタリア人の住む地域もまた、サンタクロースは
それほどもてはやされるものでもないという
ことでした。

反対に、アメリカ、中国、韓国、ロシア、
コロンビア (日本など)では、サンタクロースは
この季節になると、至る所で見られるようになります。

つまり、前者の国々の人々は、長年に渡って
サンタクロースが身近な環境で生きてきたので
「赤い服を着て 赤い帽子をかぶっていて、
 白いひげを生やしているサンタクロースの
 イメージ」が内在化されているのに対し、
後者の国の人たちは、サンタクロースに
晒される機会が前者に比べて少なかったので
それほど強いイメージがないのだと考えられます。


この折り紙は、よくできているけれど、
絵や写真のようにはっきりとしている訳では
ないので、これを「サンタクロース」と
認識するまでに、私たちの「認知」は
無意識的、瞬間的に、さまざまな経路を使って
結論を導きます。過去の記憶だとか、関連付け
だとか、さまざまな検索、照合が行われます。

このように、私たちは外的刺激に対して
何らかの判断や反応や知覚をする時に、
過去の経験や、知識や、価値観など、
さまざまな内的条件を使っています。

この、背景的規定要因や、背景関係のシステム
などの内的条件を総合して、心理学(特に認知心理学)
では「枠組み」(Frame of reference)と呼びます。

端的に言うと、人間、生まれ育った環境も違えば
性格も、知識や経験の種類や量や質も違うので、
全く同じ外的刺激に対して、しばしば
全く異なった反応をするということです。

このような、「物事を考えたり感じたりする上での
背景的要素」が「枠組み」なわけで、文化的、
社会的な要素はこの「枠組み」に大いに関係しています。

私たちはしばしば、自分ととても感じ方が似ていたり、
すごく話の合う人に出会ったり、逆に、いつまで経っても
どうも話がかみ合わない人と出くわしたりするけれど、
この「合う、合わない」も、この「枠組み」が大いに
関与しています。

人間、似たもの同士が集まるのは、互いの枠組みに
おいて、共有している範囲が広いため大した労力
(説明や話し合いや議論など)なしに
分かり合えるからだと捉えることもできるでしょう。

しかしながら、人間、人生において、一緒にいて楽な
人間とばかり付き合うわけにもいかず、驚くほど
興味、関心、価値観、考え方などが異なり、話も
全然かみ合わない人と付き合っていかないといけない
場合もままあるでしょう。むしろ、その方が多いかも
知れません。

こういう時、平行線を辿り続ける人もいれば、
違いに興味を持ち、相手をより深く理解しようと
試みる人もいます。この知識欲や好奇心の違いは
その人の人生を大きく左右するものだと思うの
だけれど、より楽しくて豊かな人生を送るのは、
後者ではないかと思います。

では、後者の人が具体的に何をしているのかと言えば、
相手の興味ある分野や物事について、いろいろと
勉強したり経験したりしてみることだけれど、例えば、
自分の好きになった人や、付き合い始めた人の好きな
音楽や映画や文学作品に触れてみたり、その人の趣味や
スポーツなどを自分もはじめてみて、共通の話題を
増やしてみたり、その人をより深く理解することに
積極的になった経験がある人は多いのではないかと
思います。

言うまでもないことだけれど、このようにして
人間はいくらでも自分の「枠組み」を広げていけるし、
また、その枠組みの質も知識や経験などと共に
変わっていくわけで、他者や、他文化、違いなど、
自分の知らない世界に対するオープンな好奇心は
本当に大切なものだと思います。

人間関係で面白い違いを経験することもあれば、
違いゆえのすれ違いや理解の困難などを経験する
こともあるけれど、そういう時に、自分と他者との
「枠組みの違い」について考えてみると、
問題点が明確になったり、解決の糸口が見つかったり
するもので、「そもそもの前提が違うのかも知れない」
と思い至ると、それ以降の不必要な衝突やすれ違いも
減っていくかもしれません。


*************************

注意:自分は、グアテマラとイタリアの文化背景を
知らないし(枠外)、この日記のお二人の国内での
地域性なども考えられるので、サンタクロースが
一般的にこれらの国でマイナーかどうかは
分かりません。同様に、例えば、日記の中国人の方は、
「最近になって中国もクリスマスで賑わうように
 なった」と言っているように、前者の国々でも
国内の地域性などあるので、一般的にこれらの国の
人たちの誰もがサンタクロースを知っているものでも
ないかも知れません。

諸外国におけるサンタクロース文化における「枠組み」
が自分には基本的に足りないようです。ところで、
サンタクロースが赤い服を着ているのは、元を辿ると、
アメリカのコカコーラの企業戦略によるものらしいですね。


呼び水?  プライミング(Priming)効果

2006-10-08 | プチ認知心理学

プライミング(Priming)という概念は、認知心理学で
よく使われるもので、この現象における様々な実験や
研究が行われている。

該当する日本語がないので、カタカナで「プライミング」と
そのまま訳されているため、なんだかピンと来ない言葉
だけれど、これは、私たちの日常生活でも非常にしばしば
起こっている現象だ。

プライミングとは、広義に、「先行する刺激の脳における
受容が、後続する刺激の処理に無意識的な促進効果を
与える」ことで、直接プライミング、間接プライミング、
知覚的プライミング、概念的プライミングなど、いろいろな
種類のものがある。

例えば、これは良くある実験だけれど、
プライム刺激(先行刺激)として、いくつかの
単語(例:「おしるこ」)を被験者に見せて、
一定時間後、穴埋め式の単語完成テスト
(例:「お○○こ」)をすると、プライム刺激の中にあった
単語についての単語完成テストの項目は、プライム刺激の
中になかったものにおける単語完成テスト項目よりも、
正答率が高いことが知られている。

また、自由連想テストで、プライム刺激として
いくつかの単語(例:おしるこ)を被験者に見せたあと、
一定時間後、自由連想テスト(例:小豆→?)を行うと、
プライム刺激にあった単語の方が、なかった単語よりも
連想語として出現しやすいことが知られている。

ここで重要なのは、プライム効果とは、無意識のうちに
起こっていることで、本人はそれに気付いていないことだ。
また、プライム刺激の露呈時間は長い方が効果的だけれど、
かなり短いもの(2秒とか)でも影響があることが
知られている。サブリミナル効果など、これに該当する。

プライミングの効果は、多岐に渡るもので、人間の
行動パターンや、選択などに、大きな影響を与えている。
それは、人の持つ敵意や反感、歩行スピード、知能テスト
など、本当に様々な行動に影響を及ぼしている。

例えば、年寄りについての人物描写を読んだ後の被験者の
歩行スピードが、それを読まなかった場合に比べて
遅くなったり、「教授」についての人物描写について
読んだ後に受けた知能テストのパフォーマンスが、
普段よりも良く、「サッカーのフーリガン」についての
人物描写について読んだ後の知能テストの結果が、
それを読まない場合よりも悪いという実験結果も
報告されている。

考えてみると、これはある意味で恐ろしいことである。

私たちが、普段何気なく選んでいる行動パターンや、
取捨選択や、人や物事に対する印象や感想などが、
実は、それより前に起きている様々な事象によって
無意識的な影響を受けているというのだ。

例えば、日常生活で、ちょっとしたいい事(例:
楽しい話、気に入った音楽、おいしい物、好きな人と
会う)が、数時間後の言動に与える微妙な影響は、
ちょっとした不快な事(例:チューインガムを踏む、
知らないカップルの激しい口論を聞く、傘を持って
いない時に突然の土砂繰りに遭遇する)が
数時間後の言動に与える微妙な影響とは明らかに
違うということは、経験的に誰でもわかることだと思う。

ここでもう一度強調したいのは、それらのプライム刺激は
微妙なものだったり、数時間前のことだったりして、
基本的に、私たちは、知らず知らずのうちに、そうした
プライミングに動かされて生きているということだ。

もちろん、そんなことを言い出したら、切りがないし、
私たちは日常生活で次々にいろいろなことを体験して
生きているわけで、プライミングの影響なしに生活するのは
不可能だけれど、少なくとも、何か重要な選択を迫られて
いて、今まさに自分が選ぼうとしているものが、実は
数時間前の些細なことに影響されているのではないかと
一瞬でも思いを巡らせてみるのはいいことかも知れない。


対人論法と人間関係

2006-10-07 | プチ認知心理学

哲学用語で、「対人論法」という言葉がある。 


基本的にこれは、議論において、論点を、
相手自身の属性にずらす技法、つまり、発言者の 人格や、経歴や普段の行動などを理由にして、 発言内容が誤っていると推測するもので、これは 論理的誤りであり、実質は人身攻撃に過ぎないものだ。

例えば、シングルマザーやシングルファーザーが結婚生活の秘訣について 語ったときに、「離婚歴があるこのヒトの結婚の秘訣話 なんてあてにならない」と決め付けて適当に話を 聞いたり、また、全然聞かなかったりするのがこれに 当たるもので、このような論理的誤りは、私たちの日常生活の中に溢れている。

でも、聞き手だって誰もが、それぞれの人格や経歴や 価値観や考え方があるわけで、「発言内容そのものに耳を傾けて正当に評価する」というのは、時として非常に困難であることは、誰もが経験的に理解できることだと思う。

聞き手にとって、相手に対する印象がはっきりしている場合、対人論法の脆弱性ははっきり分かるものだけれど、これがもっと曖昧な形で働いている場合、なかなか
気付かなかったりする。

例えば、大した感情は持たないけれど、どちらかというと苦手だったり嫌いだったりする人の発言内容は、どちらかというといい感じの相手のそれと比べて、 微妙な具合に批判精神を持って聞くものだけれど、そうしたわずかな偏見というものに、人はそうそう気付かないものだ。

対人論法とは、基本的に、相手の発言を攻撃する、ネガティブなインターラクションにおいて使われるものだけれど、これが全く逆に働いている例も実に多い。

例えば、有名人の発言は、その人自身が持っている人気や魅力などが理由で、

「あの人が言うんだから間違いない」

などと、「対人論法」的に、ポジティブな論理的誤りに繋がる現象は、枚挙にいとまがないもので、有名な教授や名医が、実は言わずもがななどうでもいいことを言っていたり、おかしなことを言っているのに、

「そうだ!そうだ!」

と彼らの属性ゆえに過大評価されることは多い。


対人論法は、人間誰もが持っている、自己愛(自分を大事に思う気持ち)や防衛機制
(自己が不快な感情を体験することを回避する、様々なこころの機能)と深く結びついていて、ある程度、このような傾向を持っていないと、明らかに自分に悪意のある者や、自分の心を乱す人間の発言に耳を傾けすぎて精神に支障を来たすことにもなるので、「ある程度」は必要だと思われるけれど、問題は、それほど自分の精神衛生と関係のない誰かの発言内容において、私たちがそのような論理的誤りをもっていて、不当な判断をする場合だ。

また、自分の対人論法性を客観的に見つめてみると、ある人と自分の現在の人間関係などにおいて、意外な洞察が得られたりする。

自然な好奇心を持って、話す内容そのものに耳を傾けられる相手もいれば、その人が話す前から、強い先入観が存在する人もいる事と思う。そのように、対人論法を使って発言内容を判断したくなる傾向が強い相手は、自分にとって相当な問題となっている人だけれど、ふとした瞬間に、その人の話を素で聞いてみて、目から鱗が落ちるようなこともあるから、自分の対人論法性の傾向を普段から観察しながら周りの人間と付き合っていくことは、それに無自覚でいるよりも、はるかに有益だと思う。


利益と損失の可能性

2006-10-06 | プチ認知心理学

人間は、ネガティブなことや不快なことに対して、
ポジティブな事象と比べて、とても敏感だと言われています。
これは人間の認知の構造によるもので、適応能力のひとつ
だと言われています。

具体的な例を挙げると:

利益の可能性と、損害の可能性が同時に生じた時に、
基本的に人間は損害の可能性のほうにより敏感だと
言われています。

例えば、今、私が皆さんに、

「ちょっと今から僕とじゃんけんしましょう。
 もしあなたが勝ったら、10万円差し上げます。
 しかし、もし僕が買った場合、10万円ください」

と言ったら、たとえ私が絶対にイカサマしないと
いう保障があったとしても、あなたは、OKしないと
思います。かなり高い可能性で、瞬時に10万円が
手に入るチャンスがあるけれど、一瞬にして10万円
失う可能性も大であり、人間はこの失う可能性の方を
優先します。

もちろん、これは利益と損失の可能性を天秤にかけて
いるわけで、それぞれの金額を変えていくことで、
選択パターンの変わっていきます。また、それぞれの
置かれている経済状況などによってもまちまちです。

でも、基本パターンとして、人間は損失の可能性に
より敏感です。実際、金額を、3000円に落としても、
OKする人は少ないのではないでしょうか。

さて、こんな話は言わずもがななことのように思うかも
しれないけれど、この記事で私が一番言いたいのは、
何かの選択を迫られたときに、感覚的にピンと来なかったり、
なんとなく嫌な感じだなと思ったり、なんだか躊躇われるな
と思ったときは、即座の選択を踏みとどまって、その
「なんとなく嫌」な直感的な感情によく耳を傾けてみる
必要があるということです。

なぜなら、我々の直感や感情というのは、言語が生まれる
はるか以前から存在していた本能的なものであり、
忘れてしまったりして記憶にないような今までの経験を
含めたさまざまな無意識と五感から直接来ているもので、
大雑把ではあるけれど、かなり正確なものである場合が
多いからです。

なんとなく気乗りしなかったり、腑に落ちないのに、
何かを選んで行動して、ろくでもない目にあった経験は
誰でも少なからずあるのではないでしょうか。

そういうわけで、「ネガティブ」な感情は、私たちを
損失から守ってくれるということにおいては、
「ポジティブ」なものでもあるのだというお話でした。


「帰属と価値観」モデルによる偏見についての考察

2006-09-04 | プチ認知心理学

"Attribution-Value Model of Prejudice"-「帰属と価値観」モデルによる偏見における考察




ご存知のように、差別や偏見やステレオタイプや烙印は、世の中のいたるところで見られる。しかも、その事象は実に多岐に渡っていて、人種・民族、社会階級、ジェンダー、性的志向、宗教・spirituality、年齢、身体・精神障害によるものなど、様々だ。

差別や偏見の分析のためのモデル(理論)は様々で、私が前に書いた、In-Group/Out-Groupによるものや、違いに対する嫌悪(人間は自分と似たものに親しみを覚え、違うものに抵抗を示す)、限られた資源やリソースにおける競争、などいろいろあるけれど、これらは主に、人種差別やジェンダーの問題においての研究に用いられてきた。わが国でも、在日韓国人や、海外からの出稼ぎ労働者に対する差別と偏見など、これに該当する。

しかし、従来のモデルではいまいち説得力に欠ける差別や偏見はたくさん存在する。

たとえば、肥満に対する偏見。ホームレスに対する偏見。HIV-positiveの人に対する偏見。アルコールや薬物依存における偏見。摂食障害に対する偏見。離婚に対する偏見。貧困に対する偏見。Sexual Minorities (Gay, Lesbian, Bi-sexual, Transgender, GLBT)に対する偏見。ある特定の精神障害(ボーダーラインなどの人格障害)における偏見。Spouse Abuse (配偶者やパートナーによる家庭内暴力)の被害者の女性に対する偏見。ニート(Not in Enployment, Education, or Training, NEET)と呼ばれる人たちに対する偏見。中絶をする女性に対する偏見。性暴力の被害者に対する偏見・・・と、例を挙げてみると切りがない。

これを読んでいる方の中には、上記のうちの「ある人たちに対しては共感できるけど、この人たちは偏見持たれたって仕方ないんじゃない」、と思われる方もいるかもしれない。それはごく普通の反応だと思う。


上に挙げてみたのは、わが国でも特に偏見の多い事象だと思う。私の周りの、基本的にとても共感的な人たちも、「それは偏見じゃないよ。この人たちが悪いんじゃないの?」というひとも少なくないと思う。でも、どうして男女における差別は許されなくて、HIV-Positiveの人たちは非難されてしかるべきなのだろう。どうしてゲイの人は差別されていいのだろう?どうして旦那やボーイフレンドから暴力を受けた女性が責められる? ホームレスは差別を受けてしかるべきなのか。


前置きが長くなったけど、「帰属と価値観」モデルとは、つまりこういうことだ。あるグループが、1)文化的にネガティブな特徴を持っていたり、ネガティブな出来事を経験していたりして(文化的価値観)、2)その責任がその人たちにある、または、それらはコントロール可能で、避けようと思えば避けられる、もしくは、脱出しようと思えば脱出可能(帰属) とみなされた時、そのグループに属する人たちは差別と偏見を受けやすくなる。1)か 2)のどちらかでも、差別や偏見は予測できるが、この1)と 2)が同時に存在するとき、そこには相乗効果がある。つまり、差別や偏見の発生は、1)と 2)の相乗効果で、より明確に予測可能になる。*2

別の言い方をすると、あなたが、たとえば、ニートと呼ばれる人たちに偏見を持っていたとする。それは、わが国の文化的な価値観において、「就職もしてないし、学校にも行ってないし、職業などの訓練を受けているわけでもない」というのはすごくネガティブな響きがある。
(1.ネガティブな文化的価値観-negative cultural value)

しかも、あなたはこう思うかも知れない。「この人たちは大体が怠け者なんだよ。やる気がないんだよ。なんで働かないの?学校行かないの? みんながんばってんだよ。君達もがんばろうよ」。つまり、「ニートはその気になれば働けるのに、怠慢で働かない。ニートなんて止めたければいつだって止められるじゃん。自分達が選んでニートやってるんでしょ」という考えが根底にある。(2.責任の帰属-attribution of responsibility)

このように、私たちは、ある人が、何かネガティブな特徴をもっていたり、ネガティブな体験をしていて、その責任がその本人にある(回避可能、コントロール可能)、と思ったときに、その人に対して偏見を抱いたり、侮蔑的になったりする。
 
ある女性が、さまざまな事情から、やむなく中絶を決意するとする。でも、その女性に対して、「何で避妊しないのよ」。「なんでコンドーム使わなかったの」「何で後先考えないでセックスするの」「相手を選びなさいよ」などの思いがけない非難の声が飛んできたり、この女性が後ろ指刺されたり、白い目で見られたりすることはしばしばある。この女性を非難する人達は、まず、「人工妊娠中絶はいけない」という、価値観があり、また、「この女性は避妊だって出来たはずなのに選んでそうしなかった」という、責任の帰属が存在する。

肥満における差別と偏見も同様な構図がある。まず、肥満はわが国においてとてもネガティブなものとされている。あまりにも多くの人が、実際以上に、「人の体重はその人の努力次第でいくらでも減少可能だ」と思っている。この2つが結びつくと、そのひとへの差別や偏見の発生が容易に予測できる。


このようにして、「帰属と価値観」モデルは、社会における様々な差別と偏見の構造理解に有効だ。では、このモデルをつかって、自分達に存在する差別意識をどのように減らすことができるだろうか。

まず、私たちは、「責任の帰属」という前提自体を疑ってみる必要があると思う。たとえば、上の例で、その中絶を選んだ女性は、本当に妊娠を回避できる立場にあったのだろうか。その人の置かれていた状況、人間関係、精神状態、いろいろな複雑なバックグラウンドがあるかもしれない。たとえば、もしその人の妊娠が性暴力の結果だったらどうだろう。この世の中、人間が自分の意思でコントロールできることは、私たちが思っているよりもずっとずっと少ない。

ホームレスや、貧困に生きる人達は、怠け者なのだろうか。選んでそうしているのだろうか。その気になれば貧困から脱出できるのか。もちろんなかには、少数、選んでそうしているひともいるかもしれない。でも、少なくとも圧倒的大多数は、そうではないと思う。

肥満においても同じことが言える。まず、世の中には、遺伝的に太りやすい人と、いくら食べても太りにくい人がいる。太りやすい人は、気をつけていたって太る。それに、健康体重というのは、そもそも個人差がある。さらに、病気や身体障害で太る人や、薬の副作用で太る人も多い。これらは決して制御可能じゃないと私は思う。

と、このように、そもそもの「コントロール可能性」について疑ってみるのは大切だと思う。 

文化的価値観についても同じことが言える。人間は生まれたときから特定の文化にさらされていて、大人になるころには、完全にその文化を内在化している。それはごく自然なことだ。私たちは文化的価値観に従って生きている。それは社会の秩序において絶対に必要だろう。でも、すべての面において文化的な水準が正しいとは限らない。同性愛における文化的なネガティブなイメージについて考えてみるのもいいかもしれない。

****************

*1 C.S.Crandallらの、この文献は、6カ国における主にアンケート形式のリサーチによるもので、個人主義の国として、アメリカ、オーストラリア、ポーランド、集団主義の国として、トルコ、インド、ベネズエラが対象となっている。ちなみに、個人主義(Individualism)とは、個人の目的と集団の目的に葛藤が生じたときに、個人のゴールを優先させるもので、西洋に良く見られる。集団主義(collectivism)とは、わが国のように、個人の目的より、集団の調和や場の空気の方を優先させる傾向だ。

彼らのリサーチでは、このモデルは、集団主義社会よりも、個人主義の社会における偏見の考察により当てはまるとされている。わが国日本がこのリサーチに用いられなかったのは、僕が思うに、現代の日本社会は、日本の伝統的な集団主義と、西洋の影響の強いここ数十年の個人主義的なポップカルチャーが微妙な具合に入り混じった極めて複雑なものとなっているからだと思う。日本における差別と偏見にこのモデルがよく当てはまるのは、日本の近代文化によるものかもしれない。

*2 このモデルにおいて、責任の本人への帰属が偏見につながるのは、個人の自己責任が重んじられる個人主義の国のほうが、集団主義社会に比べておこりやすいとされている。逆にいうと、典型的な集団主義社会では、個人の責任が、直接偏見へと繋がらないことが多い。

(2014年6月3日編集)


確証バイアス(Confirmation Bias)

2006-07-22 | プチ認知心理学

人は何を見ているかといえば、見たいものを見ていて、
何を聞いているかというと、聞きたいことを聞いている、
ということは前にも書いたけれど、これは別の言い方をすると、
人は見たくないものは見ているようで見ていないし、
聞きたくないことは聞かない、とも言える。

もちろん無意識の話だ。

今日の話題の、確証バイアスもまた、この原理に基づく
人間の基本的認知の歪みのひとつだ。確証バイアスとは
つまり、人は一度何かを信じると
(信じ始めると、または、信じると決めると)、
それを確証する情報ばかりに注意が行き、
その反証となる情報を軽視する傾向にあるということだ。

たとえば、ある人が、

「ギャルはモラルがなく、マナーが悪い」

と思い込んでいて、その人は一日のうちに10人の
ギャルを見たり、会ったりしたとする。その時に、
実際は3人のモラルのないマナーの悪いギャルと、
7人のそうではないギャルを見ているのに、3人の
モラルのないギャルにばかり気を取られていて、
7人の、マナーのよいギャルのことをほとんど覚えて
いなかったりする。

これは、自分の信念を確証しようとする無意識の
バイアスから来ている。

また、ある人が、

「オヤジの息はくさい」

という偏見を持っていたとする。それで、ある日、
20人の中年男性と会って、そのうち実際に息が
臭かったのはたった5人だったのに、その5人が
10人にも15人にも感じられ、「やっぱり臭い」となる。

もっと個人レベルで、ある男性が、その人の恋人が
「絶対浮気している」と思い始めたとする。
実際には彼女はシロなのに、実際にはなんでもない
しぐさや言動を浮気の証拠として感じ始める。
もちろん、その思い込みを覆すような情報は彼の意識から
自動的にシャットダウンされるようになる。

これもよくあることだけれど、学校の先生が、
ある生徒を、「この子は悪い子!」と思ったとする。
するとどうだろう、その子がどんなにいい事をしても、
そんなものは全然目に入ってこない。その子が「悪い子」
であるのを立証する情報ばかりどんどん取り入れようとする。

無意識的に。

人間の認知は問題だらけだ。この確証バイアスは、
ほかにもいろいろなところで見られる。

「黒人は悪い」とか、「太っている人は怠慢でだらしない」
とか、「中東系は麻薬の売人だ」とか、「精神障害者は危険だ」
とか、「おばさんはずうずうしい」とか・・・

偏見やステレオタイプは、抱いていると、確証バイアスで
どんどん強化されていくし、どんどん広がっていく。

でも、僕たち人間は日常生活の中で、実に多くの
「確証バイアス」をほとんど無意識的に使っている。
人が誰に対しても公平でいるというのは本当に難しい。
あなたの嫌いなある人、あなたの苦手なあの人。
「嫌なやつ」「嫌味なやつ」「自分のことしか考えてない人」
「冷たい人」「退屈な人」「困った人」・・・

もしかしたら、僕たちの知らない、全然違った一面が
あるかも知れない。

「人間は確証バイアスを持っている」と自覚していると、
思わぬ発見があったりして、目からうろこなことがあるかも知れない。


Fundamental Attribution Error (基本的な帰属の誤り)

2006-07-17 | プチ認知心理学

私たち人間の認知には、様々な歪みがある。

人間は、大体において、普段何を見ているのか
というと、「見たいものを見ている」と言われている。
つまり、外の世界の様々な事象は、人間の元来持っている
様々な認知の歪みを通して認識される。

たとえば、先日カラオケに行ったときに、あなたは
いまいち満足いくように歌えなかったとする。
それはどうしてだろうか。

「調子が悪かったから」「気分が悪かったから」
「風邪引いてたから」「疲れてたから」
「気になることがあってどうも集中できなかった」
「緊張してた」
「あまり歌ったことのない曲だった」・・・

と、いうような理由に思い至るかも知れない。

では、あなたの友人の歌がいまいちだったとする。
どうしてだろう。

「下手だから」
「うーん、きっと彼女あまり歌が得意じゃないのかも」
「彼、音痴なのかも」

これは極端な例だけれど、もともと人間には、
「基本的な帰属の誤り」(Fundamantal Attribution Error )
という、認知の歪みを持っていて、基本的に、他人の行動の
結果の原因について、その人の能力や性格による要因を
重視しすぎて、その結果の背景にあった「外的要因」を
見過ごしがちだという。

一方で、自分の帰属については、外的要因のほうを重視し、
内的要因を見過ごしやすい。

たとえば、同僚が仕事で失敗すると、周りの人間は、
その人の能力や性格や、怠慢のせいだと思いがちで、
その人の置かれていた状況などの外的要因に意外と
気付かない。

もしかしたらその人は、風邪を引いて調子が悪かったの
かも知れないし、恋人とトラブルがあったのかもしれないし、
家族に問題があって仕事に集中できなかっただけかもしれない。

一方で、もし自分が仕事に失敗したら、人は、外的要因に
その失敗の帰属を見出しやすい。

これは、自分の成功と、他人の成功についても同じこと
が言える。自分の成功は、自分の努力と実力のおかげ。
他人の成功は、その人がラッキーだったから。

それでは一体なぜ人間の認知はこんなふうに出来ている
のだろうか。そのひとつには、やはり、自己評価や自尊心を
守る防衛のメカニズムが考えられる。自分が失敗したとき、
「これは状況が悪かった。悪運だった。自分のせいじゃない」
と信じることで、ひとは大きな鬱状態に陥ることを
防ぐことが出来る。

逆に、成功の理由を(運ではなくて)自分の能力と努力に
帰属させることで、ひとは自信がつくし、自己愛も満たされる。
要するに、いずれの場合も、メンタルヘルスにとって大切な
認知の歪みなのだ。

それは、もしこの真逆のFundamantal Attribution Errorが
僕たちの認知を支配していたら一体どうなるか考えれば用意に
納得できる。もし、自分の成功はたまたま運が良かっただけで、
自分の失敗は、全部自分のせいだという認知の歪みを持って
いたら、ひとはどうなるか。

実は、これは意外とよくあることだ。実際に、鬱状態の人の
認知はこのパターンになっていることが多い。

Fundamantal Attribution Errorが反転してしまった状態だ。
それで、ひとは自分を責める。自分を非難する。

「自分なんて最低だ。自分なんて何の取り得もない。
物事はすべて自分のコントロール外にある。それに
引き換え何で周りの人間はこう、自信と才能にあふれて
いるのだろう」。

さらに悪いことに、周りの人間は、本来ひとが持っている
「基本的な帰属の誤り」により、落ち込んでいる人間の
内因的なものを責める。

この状態は本当に辛い。認知の歪みにより、自分を
過小評価してしまっている。しかも、こういう状態に陥って
しまっているとき、人は自分の認知の歪みに気付かない。
家族や友人からそれを指摘され、励まされたって、
そう認識するのは難しい。

「みんな気休めを言ってくれてるだけだ」と感じる。
この認知の歪みが、ひとを鬱にしている。本当は本人が
思っているほど、本人に責任はないのだ。

さて、これらの事から学べることはなんだろうか。
いろいろあると思う。まず、この人間の認知の問題の存在を
自覚することで、人はもっと謙虚になれると思うし、
他人に対して、もっと共感的になれるかも知れない。

「あの人の失敗はあの人の努力不足に見えるけど、
実は自分の知らないところでいろいろあるのかも
しれない」

とか考えたりして。

逆に、自分が自信喪失に陥っているときに、このことが
少しでも頭にあったら、「もしかしたら、自分は必要以上に
自分を責めてるかも知れない。実際よりずっとまわりの人が
大きく見えてるだけかもしれない。実は自分はそんなだめな
わけじゃないし、みんな大して変わらないかもしれない」
と、こういう風に思えるかも知れない。

さらに、もしあなたの周りの人があなたを非難したり責めたり
してきたとき、

「他人から見ると、自分の状況って見えにくいんだよな。
自分の性格ばかり目立つように人間の認知は出来てるからなあ」

と思うことで、もちろん責められて傷つくけれど、もっと多角的に、
客観的に その状況を見ることが可能になるかも知れない。