興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

性格は変えられるのか

2022-10-12 | プチ精神分析学/精神力動学

「性格は変わらない」とか、「性格は生まれつき」とか、「性格だからしょうがない」と言う人をよく見かけます。


後ほど話しますが、これはいずれも不正確なものです。しかし最近は社会的な影響力を持ち、フォロワーの人生相談に携わっているYouTuberの人たちまでこのように言っていたりするので、いささか気掛かりになります。


ただ、これらの主張はデタラメではなく、少なくとも半分は正しいのです。


こうした方達が何気なく使っている「性格」という語彙は、正確には「気質」(temperament)と呼ばれる、それこそ生まれつきの性質で、「性格」のベースになるもので、確かにこれは変わりにくいものです。


例えば、外向性と内向性、冒険好きと用心深さ、といった気質は、「三つ子の魂百まで」的に変わりにくいものです。


この気質の部分は変わらないですし、そもそも変える努力をするべきでもないと思います。それよりも、自分の気質とは折り合いをつけて受け入れていくのが良いでしょう。


現代の文化的、社会的には、なんだか外向的な人の方が望ましく優れているというような風潮がありますが、実際のところ、内向的で自己実現をしたり幸せな人生を送っている人はたくさんいますし、外向的で不適応を起こしたり社会的・経済的に深刻な問題を抱えている人もたくさんいます。もちろんその逆もまた然りです。


性格とは、この「気質」が親子関係や生育環境によってどのように展開していくかによって作られていきます。つまり性格とは、遺伝と環境の複雑な相互作用によって形成されます。


性格の中にも比較的変えやすいものと変えにくいものがあり、気質的な部分は変えにくいですが、生育環境や人間関係の影響が大きい部分は変えていけます。例えばその人の自己評価や自己肯定感などは変動しやすい要素だといわれています。


とは言っても、人の性格はとても長い時間を掛けて遺伝的要素と環境的要素が化学反応の如く相互作用を起こしてできていくもので、多くの自己啓発本やYouTuberの提案が付け焼き刃的で効果が限定的であるのはそのためです。


長年掛けて作られたものを変えていくにはそれなりのまとまった時間と根気と努力が必要で、例えばサディスティックで悪意のある人は、その病的に強く歪んだ自己愛の調整や攻撃性の改善などが要求されるわけですが、病識の低さやモチベーションやコミットメントの問題で、その然るべき時間と根気と努力が持てないゆえに変われないのです。


実際、病識があり、どうしても変わりたい、治したい、成長したいと望む人は、そこへの時間と根気と努力を惜しまず、長年掛けて人格障害すら克服するのです。私自身そうした事例はたくさん見てきました。


もうひとつ問題なのは、気質と、環境的に作られた性格の部分がマッチしていない人たちです。


例えば、実は外向的な気質なのに、生育環境の影響で猜疑心が強かったり攻撃性が強くてうまく人と付き合えない人は、たくさんの社交が必要なのにそれが得られず、満たされません。


逆に、生育歴の影響で、自分は外向的だと思い込んでいて、本当は内向性が強いのにその人にとって過度の社交を続けるライフスタイルを送っている人は、実はすごいストレスを感じていたり、慢性的な疲労感を感じていて、やはり幸福ではありません。


興味深いのは、コロナ禍によって、リモートワークなど、家の中にいる時間が半強制的に長くなったことで、自分を再発見する方が多かった事です。私の知人は、とても社交的な人で、本人も自分は外向性の強い人間だと思っていたら、コロナ禍の巣篭もり生活が予想外に快適で、いつになくハッピーで、まさか自分が求めていたのはこれだったのかと驚かれていました。


性格を変える努力も大事ですが、一方で、性格を変える事に労力を注ぐ代わりに、自身の本来の気質を見極めて、受け入れて、それに合わせてライフスタイルを調整する事で、心の調和が取れて、自己肯定感が上がったり、不安が軽減したり、気分が晴れたりして、結果として性格が大きく改善する事例もあります。


いずれにしても、「性格だから」と結論付ける前に取り組める事はたくさんあります。性格は本人の努力と根気次第で変えていけるのです。




泣いている人に寄り添うという事

2022-04-18 | プチ精神分析学/精神力動学
育児困難を抱えている方達とお会いする事は多いのですが、よくあるテーマとして、自分の子供が泣いた時の対応が分からなかったり、間違った対応をしてしまっている、というものがあります。

でもこれは小さな子供がいる親たちに限った問題ではなく、世の中、誰か大切な人が泣いている時にうまく対応できない、とにかくしんどい、という方はとてもたくさんいます。

また、誰かが泣いている状況にもよります。
泣いている理由に自分が直接関係ない場合は対応可能だけれど、自分が関わっている場合は無理、という人もいますし、自分が関わっていても基本対応できるけれど、その内容によっては厳しい、という方もいます。

例えば、普段は優しい夫で、妻が職場の問題で泣いていたらとことん寄り添えるけれど、自らの不貞行為で妻が泣いていたら対応できないという感じですが、これは夫の罪悪感という分かりやすい理由があり、本題からは外れます。

今回私が話題にしたいのは、相手が子供でも大人でも、自分の大切な誰かが泣いている時にうまく寄り添えない人たちです。

例えば、子供が泣き出したら強い苛立ちや怒りを感じたり、そうした耐え難い感情で、子供を強制的に泣き止ませようとしたり。

苛立ちや怒りは感じないけど、焦りや焦燥感から、「大丈夫、痛くないよ」とか、「悲しくないよね」とか、「お兄さんだから大丈夫だね、うん、強い強い!」、「強い子は泣かないよ」、「大丈夫、大丈夫!」などと、その子の気持ちを逸らしてやり過ごそうとする人たちです。

こうした方達の「良い意図」は分かりますが、手段はどうであれ、結果として、子供という自分とは異なった人格をもつ一人の人間の気持ちを無視してしまっている事になります。

泣いている理由をしっかり聞かないでいきなり励ましから入る人もそうです。

それではこういう人たちが冷たくて共感性の低い人たちなのかと言えば、そういうわけではありません。むしろ感受性や共感性は基本的には強い人たちも多いです。

人には、何かがうまくできないのには必ず理由があります。

その理由は様々ですが、多くの場合、その人の幼少期の親子関係や家庭環境に関係しています。

特にその人が大人になって自分の子供を持った時の親子関係には、その人自身が子供だった時の親子関係の関係性が顕著に現れます。人は多くの場合5歳以前の記憶は曖昧ですが、そうした思い出せない記憶は、手順記憶や身体記憶といって、無意識的であり、体に刻まれているものです。

それではこうした育児困難を抱える人たち治らないのか、ひたすら堪えるしかないのかといえば、もちろん違います。

克服法はいくつかあると思いますが、私がこうした悩みを抱える方達と取り組む克服法の過程は、概して以下のような流れがあります。

まずはじっくりとその人の生育歴や半生について聞いて、共感的に、寄り添いながら聴いていくことです。これは単なる情報収集のプロセスではなく、実はこの寄り添い方そのものが、彼らの克服に深く関係しています。なぜならこのプロセスそのものが修正的情緒体験(corrective emotional experience)となり、こうした方たちの心に内在化された対人関係のテンプレートの更新につながるからです。

多くの場合、こうした方たちが子供の頃、泣いた時に、親がうまく対応できなかったという事実があります。

もちろん時代性もありますし、親にもまた幼少期があり、そうできなかった理由があるわけで、このブログでも何度も強調していますが、カウンセリングは親の悪口でも犯人探しでもありません。

親を責めるわけでもなく、「親にも事情があった。親は親なりにベストを尽くして育ててくれた。でも悲しいかな、親にも大事な事ができなかった理由があって、仕方がないけれど、それによって今の自分がこういう問題を抱えている。親を責めるわけではなく、親が自分にできなかった事によって、今の自分に何が足りなくて、それをどうやって身につけていくか」、つまり、「今あなたがその問題を抱えているのはあなたのせいじゃない。それでも、いずれにしても、あなたには、あなた自身のために、また、あなたの大切な人のために、それを克服していく責任があるのだ」という、いわば、成長責任、回復責任があるわけです。

話が逸れましたが、時代性やこうした方達の親御さんの個人的な事情によって、「泣いている子供にとことん寄り添う」、「その子の気持ちを大切にして、その子が自然に泣き止むまで、共感的に一緒にいてあげる」事ができなかった、という事実を認めて理解することです。

あらゆる事がそうですが、「泣くのはダメ」という価値観にも、多くの場合、「世代間伝達」というものが存在します。つまり、あなたもあなたの親もその親も親もその影響を受けてきた、ということです。

そしてこのブログを読んでくださっている方は、そうした負の世代間連鎖を自分の代で断ち切って、新しい流れを作っていこうという勇気を持っている方だと思います。それが自分の子供であれ、他者や次世代の人たち全体であれ。

さて、話を元に戻しますが、現在育児困難を抱えている方たちが子供だった時に泣いた時に、多くの場合、親が、「泣くのはおかしい!泣かないでちゃんと話しなさい!」と怒ったり、「泣いていたら分からないよ。泣き止んだら来てね」、と放置したり、「お兄さん(お姉さん)だから泣かないよ」、と言ったり、いずれにしても、親が、「泣く事」の意味や、寄り添うことの重要性を理解していなかったり、誤解していたという事実があります。

人は、自分がしてもらえた事は自然に他者にもできますが、してもらえなかった事をするのは容易ではありません。だからこそ、私はこうした方たちに、時間をかけてとことん寄り添います。カウンセリングの治療関係の中で、たくさん新しい経験をすると、その人の中に新しい流れができて、子供たちに、パートナーに、それから自分自身に、新しい事ができるようになっていきます。別に私でなくても、カウンセラーでなくても、あなたの周りにそれができる人がいるかもしれませんし、あなたが誰かにとってそういう立場の人かもしれません。それはとても素敵な事です。

いずれにしても、こうしたプロセスの中で、自分の幼少期には何が足りなかったのか。自分は何が欲しかったのか。そして、どうしたらそれらを自分の子供やパートナーや自分自身に与えてあげられるのか。そうした、新しい体験に基づく、経験的理解が、認知レベルを超えて、身体記憶、手順記憶を更新する事で、人は本質的に成長します。





精神分析 (psychoanalysis)

2022-01-23 | プチ精神分析学/精神力動学

「精神分析って何ですか?」と、時々クライアントさんに聞かれます。私自身も、時折その答えについて自問します。いろいろな考え方がありますが、私としては、そんな時に、尊敬する精神分析家、ガントリップの以下の言葉に常に立返ります。いわば私の心理臨床の原点です。和訳は私の解釈です。


“Analysis makes no promises, but offers to the patient a reliable and understanding  relationship for as long as he wants to use it, to explore his personality problems in depth and free himself to develop a more natural and spontaneous self”—Guntrip


精神分析には何の保証もないが、(保証できる事として)クライアントがそれを望む限り、信頼できて理解のある人間関係を提供する。精神分析は、クライアントの性格的問題を一緒に深く探索していく。それは、クライアントがより自然体で自発的な自分になれるように(無意識のテーマの呪縛から)解き放つためだ。


安心感と満足感が一致しない人たち

2022-01-14 | プチ精神分析学/精神力動学

とても普遍的なテーマですが、人は本質的に、自分の人生や生活の中に安心感と満足感を求めます。

安心感と満足感の両方が満たされている時、人は、幸福感を感じます。この状態が比較的安定して続いていると、その人は人生全体に対して高い幸福感を持つようになります。

余談ですが、心理学の実験において、人間の幸福度のデータを集める際に、本質的に「質的」な幸福度を数値化しなくてはならないため、便宜的に「人生の満足度」(life satisfaction)というスケールを用いるのは、興味深い事だと思います(脚注)

つまり、人生の満足度と幸福感はそれだけ深い関連性を持っているわけです。

一方、安心感が直接的にその人の幸福度と繋がっているとは限らないようです。

もちろん、ほとんどの場合、幸福感の強い人は、安心感も満足感も高い傾向にあります。

「人生に満足してるけど不幸せな人っているじゃないですか」、と思われる方もいるかもしれませんが、本当に人生に満足している人は、幸福感も強いです。

つまりは、こうした人は、少なくとも無意識的、前意識的には人生に満足していないという可能性が考えられます。例えば、諦めている事と満足している事は違いますが、人は時にこの2つを混同します。

例によって前置きがだいぶ長くなりましたが、本題に入ります。

生活に安心感はあるけれど、満足感や幸福感がない、足りない、という人々は、実際とても多いです。

例えば、高収入で、生活レベルも高く、貯蓄もできていて、人生における不安感は低いけれど、不満は強い人を想像すると、分かりやすいと思います。

結婚生活や長期的なパートナーシップにおいて、経済的に問題なく、2人とも健康で、不貞行為や深刻な問題行動が存在しない関係性で、安心感はあるのに不満や不幸せな気持ちを抱いている方はたくさんいます。

むかしの人は、こうした人たちを「わがまま」だとか、「足るを知るべき」とか言いますが、私はそうは思いません。こうした人たちの抱える問題はそのように軽くあしらうべきでない、深刻な問題だと思っています。

恋愛関係でも、こうした事例は多いです。

今の相手とのパートナーシップに安心感はあるけれど、不満があり、あまり幸せではない、という状態です。

(これにも実際のところ、様々な理由や事情があり、一概にいうことはできないのですが、私の問題として、こうして何か書こうと思っていざ文章を書きだすと、そうした様々なケースや可能性についてどんどんいろいろな考えが出てきてその都度対処しているうちにだんだん収集つなかくなってきて文章が膨れ上がっていき、書き上げる気力が失せてしまいお蔵入り、ということがあまりにも多いので、今年はあえて簡素化してでも書き上げるように努めていきたいと思っています)

こうした人に時折見受けられる傾向として、意識ではもちろん自分にとって最善な人だと思ってお付き合いをしたり、結婚を決意したりするものの、無意識的に、そのようになりにくい人を選んでしまっているということがあります。

たとえば、幼少期の家庭環境で、親からの共感不全を慢性的に経験していた人は、親がその人と親密になることができなかったため、その人は大きくなって、親密さの課題を抱えることになります。親と親密になれなかったので、誰かと親密になる、ということがどこか居心地が悪かったり、落ち着かなかったり、恐怖であったりして、無意識的に、誰かと親密になることを回避します。こうした方たち本人は、自分が親密さを恐れている、親密さを回避している、という自覚は通常ありません。無意識の葛藤です。

こうした方たちが知らず知らずのうちに選びがちなパートナーは、性格は比較的穏やかだけれど、共感性が低い人たちです。

穏やかであることと、優しいことは、実は似ていて非なるものなのですが、こうした人たちは、穏やかさと優しさを混同します。

世の中、穏やかだけれど実はすごく冷たい人、穏やかだけれど本質的に自分にしか興味のない人、穏やかだけれど自己完結していて思いやりに欠けている人は、たくさんいます。

他者と親密になることを実は恐れている人と、穏やかだけれど共感性が低い人との組み合わせのカップルです。

こうした人たちは、自分は相手と親密になりたいと意識では思っていて、なかなか親密になれないことに不満や怒りや悲しみを経験します。

しかし彼らが気づいていないのは、もし相手にもっと強い共感性があり、うまく繋がってこれる人であったら、彼らの無意識の恐怖心は活性化され、その関係性はとても居心地の悪いものになり、関係は早期に破綻してしまうかもしれません。とても皮肉な事ですが、繋がれない相手だから一緒にいられるのです。そして、彼らは無意識的にそういう人を選んでいます。関係性が安定して、持続可能なものになる相手です。安定していて持続可能だけれど、この人たちの不幸せな気持ち、満たされない気持ちは続いていきます。こうした人たちの心の成り立ちにおいては、安心感と満足感が二律背反しています。不満と安定がセットになっています。


こうしたケースでは、相手の方にとっては、この関係性はそれなりに満足感のあるものであり、何が不満なのか分かりません。

ひとつの結婚、ひとつのパートナーシップにおいて、それが、一方においては良い関係だけれど、もう一方においては良くない関係、という事例です。


それではどうしたら、この不幸せな安定から抜けさせるのでしょうか?


そのお連れ合いと別れればいいのでしょうか?


そんな簡単な話ではありません。そして、たとえお連れ合いと別れたところで、その人が自分のテーマに無自覚であれば、そのテーマは次に選んだ「全く異なるタイプの人」と、表面的には異なっても、本質的には同じように繰り返すことになります。


それよりもまずは、自分が親密さを希求しながら、実は親密さを恐れていて、親密さを避けているのだと意識化する必要があります。


というのも、人間は、幼少期に家庭環境で形成された人間関係の無意識のテーマを、大人になってからも無意識に再現し続ける性質があるからです。そして、この無意識のテーマは無意識である限り永続します。


しかし、ひとたび本人がその無意識の動機を意識化する事ができると、その流れに歯止めをかけることができるようになります。


歯止めを掛けたら、次は、その親密さに少しずつ挑戦していく事です。小さな新しい行動をその関係性の中で試みていきます。カップルの関係性は常に動的な平衡状態にあるので、ひとりが新しい行動を取ると、一時的に平衡状態は崩れます。これがとても大事な事で、今度はパートナーはあなたの新しい行動に応じて新しい行動をとってきます。それは最初は必ずしも望ましい行動とは限りません。しかし、めげずに根気よく取り組んでいく中で、親密さに対する「耐性」ができて、次第により近くて親密な距離感で新しい動的平衡状態に達します。


親密さを回避する人が、本当の本当に親密さが嫌なのかといえば、そうではありません。本当のところでは親密である方が良いのだけれど、経験した事がない不確かで未知の領域であるため、怖いのです。その不確かで未知の領域に入っていく勇気が、本当の幸せにつながります。

 

 

(脚注)心理学は、日本では「文系」に位置付けられていますが、国際的には科学であり、理系の要素も多分に含んでいます。いわゆる「科学的」な実験が盛んに行われているのですが、ここで難しいのは、人間の心の科学という、本質的に「質的」なものを、実験ではそのプロセスで、「量的」なもの、つまり数値化する必要があります。ここに心理学の実験の限界点が常に存在しているわけですが、この限界点にどう対応していくかがまた心理学の実験のポイントでもあります。



自己肯定感

2021-07-31 | プチ精神分析学/精神力動学

近年、「自己肯定感」について様々な書籍やネット記事があるのを目にします。YouTuberの方々も自己肯定感について熱心に語っておられますね。


一方で、こうしたコンテンツを片っ端から見たり読んだりして試したけれど自己肯定感は一向に上がらない、と私のところにいらっしゃるクライアントさんもたくさんいます。


私はこうしたコンテンツに直接触れる事は少なく、殆どが、クライアントさん情報なのですが、印象として多いのは、”to do list”的に、「これこれこういう事を日常生活に取り入れていきましょう、試していきましょう」という内容です。


確かに、生活の中に「新しい良いもの」を入れていくのは、何らかの効果をもたらすためには必要ですし、私もこの戦略はよく使いますが、意外と見かけないし聞こえてこないのは、「既存の悪いもの」を生活から取り除いていく作業の勧めです。


どんなに良い新しい習慣を生活に取り入れても、それを相殺するような悪い既存の習慣があれば、なかなか前進は難しいです。


例えば、「毎日最低3回身近な人に親切にする」という新しい習慣を取り入れても、その人が日頃自己嫌悪に陥りがちな「身近な人につらく当たる」という悪い行動を改めなくては、なかなか自己肯定感は改善しません。


もちろん新しい良いものを取り入れないよりかは遥かに良いですし、親切にする事を意識して生活する事で、自分の行動を客観視しやすくなりますし、つらく当たりにくくなる、という可能性は考えられます。


しかしこれでは「進歩や成長の効率」は良くありません。暴飲暴食をしながら質の高いサプリメントを飲むようです。


とは言っても、「新しい良い事」を生活に取り入れる方が、通常、「長年続いている悪い事」を生活から取り除くよりは取り組みやすいです。


というのも、「悪いこと」がその人の人生の中で継続されているのは、しばしばそこには深い意味や理由があり、それは多くの場合現時点では無意識だからです。


このように考えると、その「新しい良い事」が「長年続けている悪い事」の正反対の事だったりと、両者の関連性が深いほどに、その良い事を頑張って続けるほどに、悪い事の生活に占める割合は低くなっていくかもしれませんし、その深刻度や度合いも軽減していくかもしれません。実際、例えば、自傷行為に苦しむ人が、セルフケアの新しい習慣を生活に取り入れて継続していく中で、自傷が次第に減っていき、やがて自分を傷つけなくなった、という事例も少なくありません。


いずれにしても、自己肯定感を効率よく上げていくためには、新しい良い事を生活に取り入れると同時に、続いている悪いものを取り除く事が重要です。


それがすぐに取り組めないものであるならば、少なくとも、それが何なのか、何があなたを自己嫌悪へと貶めているのか、意識化して自覚していく事が大切です。


どのような「新しい良い事」を取り入れるのか決める時に、直接的でも間接的でも、上記の例のように、その自己嫌悪や自己否定の原因と関連性の深いものを選ぶと良いでしょう。


自然体って?

2021-05-01 | プチ精神分析学/精神力動学

近年よく「自然体」の自分とか自分らしさという語彙を見聞きします。


自己啓発系の本やSNSなどでもこの語彙はキーワードのひとつとなっています。


それでは「自然体」ってなんでしょう?


それが大事な事、そうあれたら良い事は、多くの方が感覚的には理解できるものだと思います。


書かれている事、言っている事はよく分かると。


そして同時に、あまりも多くの人が、それでも自然体になれずに苦しんでいます。


この分野は熱心なライフコーチや心理カウンセラーが相当数おられ、とても具体的なノウハウを語られている方は少なくないですし、読者やフォロワーは、その通りに行動してみますが、実際にはなかなか「自然体」になれません。


ちなみにこれは、自己評価とか自己肯定感とか自尊心の高め方というトピックにもそのまま当てはまります。


「その類いの本は片っ端から読みましたけど、変わらないですねー」。


という声をとてもよく聞きます。


毎回ですが、またちょっと話が横道に逸れましたね。「自然体」のお話でした。


自然体の自分でいられない、という人が多い一方、自分が自然体でいると思い込んでいる、自然体を他の何かと取り違えている人も相当数います。


例えば、「これが俺のやり方だ」、「これが私なんだからしょうがない」、などと言って、異様に不親切であったり、協調性が著しく欠けていたり、偏屈で意地悪な人がいます。極端に露悪的だったり無駄に毒舌だったりする人もいます。


「自然体」と「自己中心的に振る舞う」事を履き違えてしまっている人たちです。それが格好いいと思っていたり、それがあるべき姿だと思い込んでいたり。自分の悪い部分、まずい部分を全面に出すのが自然体だと思っている人たちです。


しかしこうした人たちがこのようになるまでにはそれ相当の事情がありとても長い経歴があるので、それ以前の事は忘れている事が多く、本人も周りもその人が初めからそういう人だと思いがちです。


これはPTSD、特に複雑性PTSD、発達性PTSDと呼ばれる、深刻な問題のある家庭環境で繰り返される有害な親子関係の中でできる精神疾患に罹っている人たちにも言える事です。


とても長い間PTSDに罹ったまま生きていると、自分はもともとこうだったのだと思いがちですですし、周りの人も、特にその人がPTSDに罹った後で出会った人達は、その人がもともとそうだった、性格的なものだと思ってしまう事が多いです。


しかし実際には、その人がPTSDに掛かる前の状態というものが存在します。


複雑性PTSDほど深刻ではなくても、たとえば小学校低学年ぐらいまではすごく元気な子だったのに、中学年、高学年ぐらいから元気がなくなってそのまま大きくなっていった人たちは少なくありません。


このように、本人も周りも「性格だから」と思っている状態が実はそうではない、というケースは多々存在します。その前の自分が昔過ぎて思い出せず、現在の状態を元にして「自分らしさ」、「自然体」を追求するわけですが、その前提である土台に問題があるため、変化は表層的になりがちで、なかなか根本的かつ大きな変化は望めません。


長い事サイコセラピーを行っているなかで、こうした人たちが部分的に元気だった昔の自分を取り戻すケースは少なくないですし、PTSDに関しては、その治癒や寛解によって別人のようにイキイキとしてきます。すっかり忘れていた、トラウマ的出来事以前の自分を思い出します。


このように見ていくと、本当の意味での自然体の感覚や境地にたどり着くのは実はそんなに簡単な事ではなく、ある程度腰を据えて本格的に自分と向き合う必要がある事が分かります。


必ずしもサイコセラピーが答えではありません。しかしいずれにしても、自然体になるためには、自分がかつて自然体だった頃を思い出す必要がありますし、そこから自分の人生に何が起きて、どんな影響を受けて、自分が変わっていったのか、よく調べて理解を深めていく必要があります。それは数年前かもしれないし、あなたが子供の頃だったかもしれません。






健全な自己中心性 (optimal egocentricity)

2021-04-26 | プチ精神分析学/精神力動学
自己愛性人格障害などを伴った、自己中心的で共感性を欠いた親の元で育った人の多くは、その親子関係の傷から、自己中心性というものを強く嫌悪すりようになります。

親を反面教師として、意識的、無意識的に、その真逆のスタンスで生きていくようになります。

自分の事はいつも二の次、三の次で、周りの人たちの気持ちやニーズを優先して生きているので、人望が厚く、人々からの信頼や尊敬を集めます。

しかしこの傾向が強すぎると、その人は生きづらさに苦しむようになります。

仕事や経済面、体調管理などは意外としっかりできている方が多いですが、これも真のセルフケアではなく、自分のコンディションが整っていないと周りに迷惑を掛けるとか、周りの人のニーズにうまく応えられなくなるので、それを避けるためです。

必要最小限のセルフケアです。

皮肉な事に、こうした人たちは、良い友だちや理解者も多い一方、自分の親のように自己愛の強い人たちにいいように利用されたり、不当な扱いを受けがちです。

相手が彼らと同じくgiving person(与える人)である限り、その人間関係はgive and takeで満たされたとても良いものになっていきますが、問題は、この人たちが、taking person(取る人)と関わり合いになった時です。

Taking personは人に与えません。他者からひたすら取るばかりです。ケチで貪欲で人間関係が搾取的です。

基本的に誰からも信頼されて、それなりにうまくいっていた人たちの人生がうまく回らなくなるのはこうした搾取される関わりが存在する時で、こうした人たちが心理カウンセリングにやってくるタイミングでもあります。

積み重ねるセッションにおける対話の中で、こうした人たちは、自分が極度に自己中心性というものを憎悪している事に気付きます。

それゆえに、自分は自己犠牲的な人生を送っていて、自分のニーズが慢性的に満たされていない事に気づきます。

こうした対話の中で私がしばしば提案するのは、適度な自己中心性、健全な自己中心性です。

人間が自分らしくいきいきと生きていくために必要な、程よい自己中心性です。

自己中心性という語彙に拒絶反応をされる事があるので、セルフケア、自分を大事にする事、などの別の語彙についても話し合ったりします。

相手の気持ちを尊重しながら自分を打ち出していいんだ、相手のニーズと同じように自分のニーズも大事にしていいんだ、時に自分のニーズを他者のニーズに優先してもいいのだと、心の中に落とし込みながら、行動療法的にこうした新しい考えをセッションとセッションの間の日常生活で試していきます。

最初は落ち着かなかったり、あんばいがわからずに、カウンセラーと一緒に試行錯誤しながらその「健全な自己中心性」を試していく中で、その人の自己感はより確かなものになります。

彼らがある意味一番恐れているのは、自分が自分の親のようになる事ですが、もともと利他的な人たちなので、努力して自己中心的になろうとしても親のようにはならないという安心感も出てきて、対人関係は、自分のニーズが相手に伝わる分、さらに良いものになっていきます。

なによりも、その人の自分自身との関係性が改善していきます。

実存的孤独と普遍性 (existential aloneness vs. universality)

2021-04-18 | プチ精神分析学/精神力動学
人間は一人ひとりがユニークであり、唯一無二であり、誰一人として全く同じ人生を歩んでいる人はいません。

生まれ育った過程環境も違えば、今日まで歩いてきた道のりも違うので、性格も世界観も価値観も多かれ少なかれみんな異なり、そこから出てくる情緒体験も異なります。

こういう意味で、我々人間は一人ひとりが「実存的孤独」(existential aloneness)という宿命を持っています。

一方、我々人間の情緒体験や人生経験というのは、より広い意味では共有されていて、今あなたが抱えている悩みや苦しみは、古今東西、決して新しいものではなく、必ずこの世のどこかに同じような悩み、苦しみを抱えている人はいます。それは本質的に普遍的なものです。

さらには、先述の実存的孤独という宿命は、全ての人間が抱えているもので、そういう意味で我々は皆繋がっていて、想いを共有していて、ひとりではありません。

つまり我々は実存的孤独と普遍性という二極の間を生きている存在です。

人生のその時々によって、私たちはそのどちらの感覚をより強く感じています。

たとえば、何か起きた時、ものすごくショックを受けたり、落ち込んだり、強い不安感や恐怖心や罪悪感や自己嫌悪に陥っている時、実存的孤独にどっぷり浸かっているかもしれません。

自分が周りの他の人達とは本質的に異なるのではないか、劣っているのではないか、おかしいのではないか、ひとりだ、孤独だ、寂しい、消えたい。

こんな気持ちになっている時、その人は強く実存孤独を感じています。

興味深い事に、こうした心境にいた人が立ち直る時、その人は少しずつ人生の普遍性を感じるようになっています。人や社会や世界との繋がりを取り戻している時です。

このように書くと、実存的孤独よりも普遍性の方が望ましくて優れた境地のように思えるかもしれませんが、そういうわけではありません。

優劣や正誤の問題ではなく、どちらの境地も必要です。

例えば、あなたの大切な人が何かでとても悩んだり落ち込んだりしている時、「あなたはひとりではないよ」、「みんな一緒だよ」、などと言ってもなかなか伝わりませんし、逆にその方はあなたに対して心を閉ざしてしまうかもしれません。

「あなたには私の気持ちは分からない」、と言うかもしれませんし、孤独感が増してしまうかもしれません。

誰かに寄り添ったり励ましたりする時、私たちは両方の極について意識している必要があります。

逆に、あなたが今まさにとても落ち込んでいて孤独感に苛まれているとしたら、この「普遍性」のテーマに意識を向けてみるとちょっとだけ気持ちが楽になるかもしれません。

こんなことを書いている私も、今夜はちょっと落ち込む事がありました。そして、これを書いているうちに、随分と気持ちが回復しました。これを読んでくださっているあなたに感謝です。

Geographic cure (地理的治癒)

2021-04-10 | プチ精神分析学/精神力動学

ときどきアメリカ人の日常会話で出てくる面白い表現に、geographic cure (地理的治癒)というものがあります。

興味深い事に、この言葉を使う人はそもそも「地理的治癒」の存在を信じていない人であり、この語彙には通常いささかの皮肉が込められています。

さて、geographic cure(地理的治癒)とは何でしょう?

これは、読んで字の如く、地理的要素に癒しを求める方法で、つまりは、ひとつの町で人生がうまくいかなくなった時に、別の町に引っ越して、一からやり直そうという試みです。

なかなか大陸的な発想で、超大国アメリカ人らしい人生戦略です。実際アメリカ人は引越しが多いことでも有名ですね。

それではなぜこの述語が否定的に使われるのでしょう?

それは、多くの人が、「場所を変えたからといって本質的な問題解決にはならない」事をわかっているからでしょう。

もちろん、地理的治癒が根本的な問題解決に繋がるケースや、その状況下において唯一の現実的な解決策である場合もあります。

例えば、学校で集団による悪質ないじめがあり、学校がきちんと対応してくれないという状況で、転校したら転校先ですごくうまくいった、というケースや、今までに部下を何人も休職に追い込んでいる、いわゆるクラッシャーと呼ばれる病的にサディスティックな上司に標的にされている職場で、適切な異動先のない人が、転職してすごくうまくいっているケースなど、成功例はたくさんあります。

問題なのは、地理的治癒を常套手段として内省する事なく繰り返す場合です。

「地理的」とは文字通り居住地を変える事に限らず、ある状態をリセットしてバージョンは異なるものの本質的には同じ事を繰り返す戦略です。 

例えば、ひとつの恋愛から次の恋愛へ、ひとつの結婚から次の結婚へと、離婚と再婚を繰り返す人がいます。

こういう人は、関係がうまくいかないのは相手や状況など外的要因のせいであり、次の相手こそは正しい相手だと思い込んで、同じ過ちを繰り返し続けます。

一見これまでとは全く異なった相手。

一見全く異なった職場。

一見全く異なった街。

それなのに。最初は新しい気持ちで新鮮でうまくいっていたものの、時間が経って気づいたら同じような問題に遭遇し、同じような気持ちになっています。

なぜなら、こうした人がうまく認識できていない未解決な個人的問題は、土地を変えようと相手を変えようと、どこまでもその人に付いてくるからです。

その問題を認識してきちんと向き合って解決するまで。

 

 

 


ドラマ『知ってるワイフ』〜投影と放棄した自己

2021-02-22 | プチ精神分析学/精神力動学

(若干のネタバレあり)


ひょんな事から『知ってるワイフ』というドラマを見るようになり、精神分析学的にもカップルセラピスト的にも面白くて毎週楽しみにしています。


これはおそらく私を含めた多くの人にとって、多かれ少なかれ身につまされる内容だと思います。


設定は超現実的(非現実的)なのですが、同時に超現実的(極めて現実的)で、よく作り込まれた人間関係のリアリティがすごいです。役者さん達の演技も素晴らしいですね。


元春という他責性の強い男性が妻との関係性にうんざりして過去に戻って別の人と結婚してしまうわけですが、最初は「夢が叶った」ような新婚生活も、彼の自己中心性や妻に対する共感性の低さ、思いやりのなさでどんどん悪化していきます。


一度目の結婚から何も学んでいない彼は、呆れるほどに前回と同じ問題で現世の妻との関係性を壊していきます。無自覚に、無意識的に。


ここで面白いのは、元春が次に選んだ妻沙也佳は元春に負けず劣らず自己愛的で自己中心的な人で、元春が前妻を傷つけたのと全く同じ形で元春を傷つけてきます。因果応報的に。


そして元春と沙也佳は大喧嘩をしますが、その時に元春が沙也佳を非難する内容が圧巻で、これはほとんど元春の自己紹介、自分自身の問題を沙也佳の中に見ています。


これは非常に分かりやすい「投影」という私達人間の心の機制の表れで、元春は彼自身の受け入れ難い性質を自分から切り離して相手に投げ入れて映し出しています。


自分の中の好ましくない性質、見たくない、受け入れられない性質と向き合って内省して、折り合いをつけて自分のものとして受け入れていく事で人は変われるし成長できますが、それにはそれなりの人格的成熟が必要です。


なぜならそのプロセスにはそれ相当の精神的苦痛が伴うからです。


自己愛の強い未熟な人たちにはそれが耐え難く、それは自分の問題だと自覚して自責を経験する代わりに、これは自分じゃなくて相手の問題だと錯覚して他責に走ります。


その方がずっと楽だからです。


トランプが、2020年の大統領選で、敗戦を恐れるあまり、郵便局を弱体化させたり、州知事達に圧力を掛けたり、ありとあらゆる不正をしながら、「民主党によるかつてない不正選挙が行われている」と主張したのもこの好例です。


ちなみにこの放棄した部分の自分自身を専門的にはdisowned self(放棄した自己)と呼びます。沙也佳は元春にとって、自分自身の受け入れ難い部分を肩代わりしてくれる「放棄した自己」なのです。


同時に、沙也佳にとっても、元春は放棄した自己です。2人はある意味そっくりです。


互いに罵り合い非難し合うカップルは、往々にして、相手の中に放棄した自己を見ています。


人間の人格的成熟は、自分の問題を自覚して向き合って折り合いをつけていく過程によって起こりますが、未熟な人格の人達は他責を繰り返すので、その過程の機会をいつまで経っても経験できないという悪循環は、皮肉なものです。


ただ、このドラマは元春の成長の物語でもあり、彼は分かりは遅いものの、少しずつ自分の問題や過ちに気づいて反省し、内省力をつけて、行動修正をしていきます。


元春はどうしようもない人ですが、不思議と憎めないキャラクターです。それはきっと、私を含めて多くの視聴者が、元春の中に、それぞれの「放棄した自己」を見ているからかもしれません。


とても興味深いのは、「このドラマを夫婦で見ていて、毎回見終わった後に夫が妙に優しくなる」とか、「夫に優しくなれる」という声がネットで見受けられる事です。すごく嫌ですけど、私にも元春のようなところはあるし、毎回「うわあ、何やっちゃってんの?」と見ていて居た堪れない気持ちになります。それでいて目が離せない。登場人物全員を応援したい気持ちになります。今後の展開が楽しみです。