「時間」という言葉において、多くの人が、ほとんど
大前提のように抱いている概念は、Clock Timeだと
思う。いわゆる、世界共通の、過去から未来へと
流れる、不可逆的で、直線的な、「時間」だ。
でも、我々がこうして「時計」という器具を通して
便宜的に感じることができる、規則的に経過する
時間は、「時間」という概念のうちの、ほんの
一部に過ぎない。この「目に見える時間」ですら、
微分していったら、実は切りがない、本来は連続した
ものだ。時計やカレンダーによって知覚できる時間は、
ある意味で、時間であって時間でない。
「時間は止まらない」とか、「時間は不可逆」だとか、
「時間は直線的」だとかいう前提も、ある状況や環境では、
あまり意味を成さないものだったりする。
いくつかの文化においては、時間とは、直線ではなくて、
円周のように捉えられ、それは、過去から未来へではなく、
その周期として巡り巡ってくるものと捉えられたりする。
癌の生存者においても、時間の概念と言うものは、
大きく変わってくることが少なくない。たとえば、
我々は、自分の誕生日を迎えるとき、「また一歳年を
取った」と捉えることが多いと思うが、癌の生存者の
人たちには、人生は、誕生日を軸として、
円周のように捉えられるようになったりする。
未来記憶で触れたように、極度のストレスや、生命の
危機に晒されると、ひとの「未来記憶」は大きく
変わってくる。同様に、時間の概念も、人それぞれ
新しい形で捉えられるようになる。「あと何年生きられるか」
という直線的な時間ではなく、たとえば、「またもとの場所に
戻ってきた」という捉え方。
普段我々が意識している時間の概念だけれど、実はそれが
「時間の可能性のほんの一つに過ぎない」と考えてみた
とき、時間の意味は変わってくるから面白いと思う。
最近よく思うのは、人間関係においても、時間の
流れと言うのは、人それぞれ実にまちまちで、
個人差が大きいものだということだ。たとえば、誰かと、
ある物事を共有したとする。それがポジティブなもので
あれ、ネガティブなものであれ、我々は対人関係に
おいていろいろなことを経験する。
それで、自分の中ではとっくの昔に終わっていたことが、
相手の中ではずっと続いている、と言うことは少なくない。
その逆に、自分の中ではまだホットな事象が、相手の
中ではすでに忘却の彼方にある過去の物事だったりして、
一つの物事においても、時間の流れは人それぞれ違っていて
面白いと思う。
これは僕が気をつけていることの一つ
だけれど、誰かに何かもらったり、良くしてもらって、
それから日が経って、久しぶりに会ったとき、自分は
その間に実にいろいろなことがあって、そういうことも
すっかり忘れそうになるときがあり、でも、この
「自分の中では終わっていること」が、相手の中では
もしかしたら続いていることを決して忘れてはならない、
ということがある。
だから、久しぶりに会う人とは、前回会ったときに
何があったか、ちょっと思い出してみると良かったり
する。あと、誰かに何かすごい話をした後、自分の
中では解決したけど、相手はずっと心配してくれていた、
などということがないように、なるべく気をつけている。
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私がこの大学にこの学部に入学したのは、結局多くの時間の隔たりを経て、この学者のこの技術のこの企業の関係者にこのような深い関わりを持たせる為だったのかも知れないと。
一つの原因結果からいろんな現象や人とのつながり、言うなれば、すべては一本の線で演繹できる体系のようなものが、たまたま一方に、時間というパラメーターが軸としてあったに過ぎない、そんなことを考えてしまうのです。
原因結果の因果律を刻んでいくと、そこには時間の無限の連なりがあったという感覚は、ある意味、自分が、ある程度の時間の集積を溜め込んだ身なればこそ、過ぎた時間と来るべき時間の量的バランスの故なのか、アプリオリな物理的意義での時間の連続性は、因果律の無限の展開の同時的な側面としての意味合いを、日々益々深めています。
とても興味深いコメントをありがとう
ございます。面白い考え方ですね。
私たち人間がとかく一番とらわれがちで、
ある意味それこそが生きるものの最大の
限界である時間も、そのような次元で
捉えると、実は時間も瑣末なものなのかも
知れない。
昔見たドイツ映画「ラン・ローラ・ラン」
をふと思い出しました。あの映画は
我々の「運命」は各地点におけるホントに
微妙な違いで大きく変わってしまうことを
示唆しているけれど、スピード感漲る、
時間の制約を全面に出しているあの作品も、
実は結果論的観点から何度もはじめから
「やり直して」いて、各局面の点と点が
どんどん繋がっていっていくつもの結末が
出されるところが面白いと思いました。